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アイドルジョッキー馬になる  作者: ゆらゆらゆらり
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信一 ♠ こんな厩舎があるのかよ

【小林牧場の厩舎にある先生(調教師)自宅】


 お茶を飲みながら、話をしていたのだが、本当にヤバそうだ。

 なんと馬房は2つだという。それはまさに成績を表している。勝ち鞍が少なければ馬房は年々減らされていく。2つということは近年はほとんど勝てていないということだ。


 スマホで見たあれは間違いなんかじゃなかった。

 前年と今年の成績が表示されていたのだが勝ち鞍が0なんてありえるのだろうか。なんかの間違いだと思っていた。いや、思い込もうとしていた。


 どうしたものか。


 だからいって、俺に行き場はない。


 スマホを見た後不安になって、この調教師のことを聞こうと知り合いの厩務員に電話したのだが、誰それ、と言われた上に、お前完全に終わったな、と言われてしまった。

 例の調教師との件で暴力的なやつという噂が広まっているというのだ。となれば当然、雇おうとする人などいない。


 健太さんが、俺のためにつてでいろいろあたってくれての、これが現実なのだろう。

 つまり、他には誰もいなかったというわけだ。きっと、この人にだって頼み込んでくれたに違いない。


 もう、そうなれば、「よろしくお願いします」



 こうして、竹川厩舎で働くことになったのだが、まだまだ驚くことが。


 マジでヤバすぎる。


 なんとスタッフは俺しかいない。まあ、馬房が2つしかないのであれば、それは当然かもしれない。

 それどころか、2つなのに使っているのは1つ。つまり、1頭しかいないのだ。さらにさらにサトミノヒメというその牝馬はなんと9歳。

 馬のピークは4、5歳といわれ、晩成でも6、7歳なのに、9歳でそれも牝馬ときたもんだ。


 こんなんで本当に給料はもらえるのだろうか……。








【翌日のこと】


 ありがたいことに住まいは先生(竹川調教師)のところに住まわせてもらえることになった。ということでその日は泊まらせてもらい、翌日貸していただいた車ですぐに東京のアパートへ。


 借りといて不満なんて全くありませんが、中古の軽なので、たいして積むことができず、生活と仕事の上での必要最低限のものといった感じだ。

 まあ、今月分の家賃は払ってあるし、月末までに大物(家電やベッド)は処分かな。


 あれやこれやとやっているうちに、小林に戻った時には太陽がだいぶ傾いていた。

 車を降りると、夕日を背に歩く姿が目にとまった。先生がサトミノヒメの引き綱を引いている。そして、横には猫ちゃんも。


 散歩から帰ってきたという感じで、仲よさげに歩いている。








【7月×日~大前信一・竹川厩舎入り4日目】


 仕事は問題なくこなしている。厩務員の仕事は基本的にはどこも同じなので特に問題はない。いや、ここはとんでもない。一日に2回(朝・夕)も引き運動をしているのだ。それも1時間以上かけて。

 こんなに時間をかけるところはめったにない。

 それを、あのおじいちゃん先生が毎日やっているのだ。先生の飼い猫であるウルルンちゃんとともに。

 ウルルンはちょっと歩くと、気ままにどこかに行き、先生が戻ってくるころに、ふらりと戻ってくるらしい。


 俺は先生が引き運動をしている間に、エサの準備や寝藁上げ、清掃をしている。そんなものすぐに終わってしまう。本来なら厩務員は数頭担当するのが普通で、1頭では時間を持て余してしまう。

 それではなんとも申し訳なく、引き運動もやりますと申し出てたのだが、にっこり笑って制されてしまった。


 今日も仕事を片付け、ぼんやりと厩舎で待っていた。


 目にとまるのは、寝藁もなくがらんと空いている馬房。ここに彼女を入れてあげたいのだが、そのためには馬主になってくれる人をなんとかしなくてはならない。

 だが、俺にはそういった人とのつながりがない。


 その時、先生の陽気な鼻歌が聞こえてきた。俺はいつものように外にでて、「お疲れ様です」と引き綱を受け取り、先生とウルルンを見送って馬房に引き入れる。

 ヒメは自分の居場所に戻れば、さっそくエサ桶に顔を突っ込んでいる。9歳でも食欲旺盛だ。

 そんな姿を見ながら、「そうだ。お前さんの馬主を紹介してくないか?」


 ヒメは顔を上げることなく、ご飯に夢中だ。


 今まで何度も話しかけたりしたが、声が返ってきたことはない。それが当然のことだ。彼女も他の人間とは会話ができないというし、俺も他の馬とは会話ができない。

 だから、俺と彼女は特別。なんだか、ちょっと嬉しくなる。


 だからこそ、なんとかしたい。


 ふと、自分のバカさ加減に気付いた。

 俺は誰に頼んでいるんだ。


「ごめんな。お前さんじゃないよな」


 ヒメにそう言い残し、馬房から飛び出した。

 先生に馬主を紹介してもらえばいいではないか!








【東京某所】


 ここは大井競馬場近くにある大和岡商会という加工海産物を扱う会社だ。川沿いの古びた4階建てビルで、1階と2階が倉庫らしく、3階のここが事務所のようだ。

 その事務所の奥へと通され、ソファーに座る俺の前には、同じくソファーに座る男性が2人。


 60代くらいの男性が社長だという。挨拶した時の語り口も柔らかで、紳士といった感じだ。

 もうひとりの30代か40代かの人は経理の人らしいが、眼鏡の向こうの目が鋭く神経質そうだ。馬のほうも担当しているという。


 サトミノヒメの馬主がこの会社だ。


 先生からもう一頭預かる許可はもらってきている。後は俺の交渉次第ということになる。

 その強い思いを胸に話をもちかけたのだが、


「社長。絶対ダメです」

 経理の彼にバッサリと切られた。


「でも、キラボシの子じゃないですか。なんか欲しくなっちゃいますよね」


 先生から聞いた話だと、この社長は昔からの大井競馬のファンらしい。会社が近いこともあって競馬場にもよく顔を見せるという。


 先生に入厩させたい馬(彼女)のことを話すと、社長さんはキラボシ(父馬)のことも知っているし、脈はあるかもと言ってくれていた。

 だから、先生に交渉をお願いするのではなく、期待を胸に自らここにやってきていた。


 しかし、


「社長。馬は金がかかるって身に染みて知ったじゃないですか。もう一頭買うなんてとんでもないです。毎月、サトミノヒメの預託料で赤字なんですよ。もう、引退させて乗馬クラブにでも譲渡しましょう」


「まあまあ、そう言わずに」、社長は柔らかな笑みで受け流し、「ヒメはまだまだ元気ですよね」


 俺のほうへと投げかけられた言葉に、力を込めてうなずいてみせ、「気になっていた肩回りの固さも解消し、そろそろ出走できそうです」


 社長は、そうですか、と本当に嬉しそうに微笑んだ。


「出走したところで、いつものようにしんがり負け(最後方)でしょ」


「それはやってみなければ、わからないんじゃないですか」

 聞こえてきた経理の彼の投げ捨てるような言い方に、つい挑むように言い返してしまった。


「そんなもんわかりますよ。ビリ、ビリ、ビリの連続ですからね。もうそれなら、毎週でも使って出走手当で預託料くらい稼いでくれればいいんですよ」


 鼻で笑ったような言い方は軽い冗談なのだろう。だが、メリーの姿が浮かんでしまい、

「あんた、馬をなんだと思ってんだよ!」

 怒鳴ってしまい、慌てて謝ったが後の祭り。


「もう、話しは終わりました。お帰りください」


 ああ、またやってしまった。最後の望みを託して社長へと目を向けたが、


「申しわけないですね。みんなで楽しもうと会社名義で馬主になったんですが、決して安くはない経費ですからね。この経理の岡谷君に全てを一任すると約束してあるんで」


 俺は力が抜け、がくりと頭も肩も落とした。


「困りましたね」、社長の声が聞こえ、しばしの沈黙の後、「では、こういうのはどうでしょうか」


 その言葉に顔を上げると、社長はどこか楽し気な笑みを浮かべ、「賭けをしませんか?」


 社長の提案はこうだ。

 もし、サトミノヒメが次走で掲示板(5着以内)にのったら、購入を検討し、掲示板外だったら、話はなかったことにするというものだった。


 これは厳しい。ヒメは元気いっぱいだといっても、しんがり続きの馬が掲示板というのはハードルが高い。


「何を言っているんですか。入着賞金程度じゃ、1カ月の預託料にもなりゃしませんよ。そうですね。勝ったなら購入を検討しようじゃありませんか」


 自分のお金でもないくせに何を偉そうに。にやりと憎たらしく笑った姿に思わず、

「わかりました。負けたならきっぱり諦めますよ」


 うわっ。言ってしまった。


 その時の俺は、サトミノヒメが年齢の問題ではない大きな弱点があることを知る由もなかった。そして、騎手という問題があることも……。

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