54. 十七歳のお母ちゃまに会った日
アッシュクロフト領で、アリスの温かな記憶を私は聞いた。
それは、私の温かな記憶と奇妙に共鳴していた。
頭の隅で、何が起きたのか、私は分かり始めようとしている。でも、全てが理解できたわけではない。
『——隣に住む子爵を訪ねてきた子爵の姪っ子に教えたんですよ。そしたら、彼、まだ小さいのに雲の形を兎の形に変えたんです——』
目の前のアリスのエメラルドの瞳を見た瞬間、私は四歳の夏を思い出した。
アリスは子爵の姪っ子に教えたのに、『彼』が雲の形を兎の形にしたと話した。
姪っ子が私で、彼が一緒にいたアダム兄様だったからだ。
私は過去に、この瞳の女の子に出会ったことがある。アッシュクロフト領でもない、別の場所で。
——隣の屋敷から、トロイメライが聞こえていた。
***四歳の夏***
トロイメライのピアノの音が鳴る。
隣の家だ。走って、隣の家の敷地に入ろうとして、相棒の長椅子を呼んだ。
長椅子に乗って、隣の屋敷の二階の窓から覗いた。
黒髪の女の子が熱心にピアノを弾いていた。ルイ兄様と同じくらいか少し下に見える。
アダム兄様が、向かいの窓から、私を指している。
「お父様に言いつけるぞ!外で長椅子乗っちゃだめって言われただろ!」と叫んでいる。
お母様の具合が悪くて、私とアダム兄様はお母様の実家に一緒に帰ってきていた。
ピアノの音がやんだ。
「どうしたの?」
窓が開いて、黒髪の女の子が私を家に入れてくれようとした。私は長椅子を外に浮かべたまま、女の子の家の窓から入ろうとして、落ちた。
「きゃっ!」
悲鳴が起きて、私は長椅子を呼ぼうとした。
だが、四歳の私は、長椅子を呼ぶのが間に合わなかった。
窓の下は石畳だったはずなのに、落ちたのは池だった。
水面から顔を出すと、母の実家だったはずの隣の敷地の庭に、見覚えのないブランコがあった。
黒髪の女の子の家から見た隣は、母の実家だ。それなのに、さっきまで無かったはずのブランコがあったのだ。
私のドレスを掴んだ女の子もそのまま池に落ちていた。私と黒髪の女の子は、やっとの思いで、池から這い上がった。女の子が必死に私を岸に引っ張り上げたのだ。
私たちが池に落ちた音が聞こえたのか、隣の屋敷から、ブルネットの髪にブラウンの瞳の十七歳前後の若いレディが出てきた。
私はようやく呼んだ飛ぶ長椅子に黒髪の女の子を乗せて、空に浮かび上がっていた。
——ブルネットの髪にブラウンの瞳……。
——この人は……!
「エレナ、あなたへの手紙が届いたそうよ」
窓からレディの母親と思われる女性が声をかけた。宙に浮かぶ長椅子をぽかんと見上げたレディは、振り返った。
——お母ちゃま。
「お母ちゃまっ!?」
私は思わず、飛ぶ長椅子の上から、呼びかけた。
十七歳の母だった。
——お母ちゃまが亡くなる、一年前の夏だ。私は十七歳のお母ちゃまに会っていた。
「あたし、ロミィ!なんで、お母ちゃまはそんなに若くなったの?ご病気したから?」
私は聞いた。
「どちらのお子さん?ずぶ濡れだけれど、あなたたち大丈夫?」
若くなった母は、私に聞いた。
その後、そこで、若い母と私と黒髪の女の子は三人で遊んだ。
若い母の母……つまり、祖母が着替えのドレスを貸してくれた。
隣のブレンジャー子爵の家には造園業者が来ていて、池はもうすぐ埋め立てられるんだと教えてもらった。
楽しかった。おやつももらって、一緒に食べた。
夕暮れになって、私は飛ぶ長椅子で「おうちに帰った」。
黒髪の女の子と一緒に。
黒髪の女の子の名前は……確か……アリスだ。
私の温かい記憶と、アリスの温かい記憶は、きっと同じタイミングの記憶だ。
——今から思えば、エミリアに窓から突き落とされた時、地面に落下するはずだったのに、水が出現して衝撃を防いだのと、全く同じ現象が四歳で起きたことになる。
エミリアの時は未来へ。四歳の時は、明らかに過去へ。
母の実家のエーレンフェルト子爵家の隣は、代々王立魔術博物館長の家だと教えられていた。
その後、隣の屋敷にいたアリスに呪文を教わって、雲の形を兎の形に変えたのは、兄のアダムだ。
私が教わったのは……ずっと幸せに生きようね、という温かい言葉の呪文。
ブレンジャー子爵邸の窓の下が石畳になった世界に戻った私は、「あれは、ご病気になる前のお母ちゃまだった」と、アリスにそっと耳打ちした。
アリスとは、「またここで会ったら、遊ぼう」と約束してその日別れた。
トロイメライのピアノが合図だと私に言って、アリスは笑った。
病気で寝込んでいた母のベッドの脇に行くと、私が着ているドレスを見て、母は涙を流して笑った。
「あぁ、あの時の四歳のロミィって、やっぱりあなただったのね」
母は抱きしめてくれた。
「会いにきてくれてありがとう。あなたの名前、だからロミィにしたのよ。あの日はとても楽しかったわ」
母は私にアリスと同じことを囁いた。
「あなたたち、ずっと幸せに生きるのよ。これはお母ちゃまからの秘密の呪文よ」
私はアダムがアリスに教わった呪文を、間違えて覚えたようだ。雲をウサギの形に全然変えられなかった。
だけど、母の言葉を違う術式に埋め込んだ。
ヴェイン家の別邸で、ジュリアンの引くトロイメライのピアノを聞いた。
アリスにその曲を弾いてもらったら、もう一度、あの日のことを彼女は思い出すかもしれない。
私は目の前にいるアリス・スペンサー伯爵夫人を見つめた。
アリス・スペンサー伯爵夫人は、艶のある黒絹のドレスをまとっている。身体に沿う立ち襟のボディスは黒ベルベットで仕立てられ、細く絞られた腰の後ろには、たっぷりと布を重ねたバッスルが張り出している。黒いオーバースカートが歩みに合わせて揺れるたび、その下から、芽吹いたばかりの若葉を思わせるモアレ絹がのぞいた。襟と袖口にも同じ色の細い縁取りが施され、スカートにはシダと若葉が暗い金糸で刺繍されている。
黒と若草色。
アリスが元々好きだった色使い。
豊かな黒髪は高く結い上げられていたが、今は激しく振り解けている。
喉元を飾る小さなエメラルドよりも、夫人自身の瞳の方が、はるかに深く鮮やかな緑色をしていた。
あの日、トロイメライのピアノを弾いていた女の子と同じように。
——彼女はとても弱っているわ。
彼女は、預けた物を返してもらいに来たと言った。私の目には、彼女はアリス・ブレンジャー子爵令嬢が二十数年、歳を取ったように見える。
エミリアの七十年は、奪われたものだった。だから対の呪文で戻せた。
けれど、この人は——生きてしまっている。
結婚して、姪を可愛がって、病に伏せって。
——その二十四年の中に、ディアーナ姉様がいる。
教授は、王立魔術博物館の館長の銀の紋章を狙っていた。
最近、アリスに近づいたとしたら、館長代理の銀の紋章。
けれど、当時、子供だったアリスに近づいたとしたら——それは、館長の銀の紋章。
アリス、まさか、あなた。
あの日、トロイメライを弾いていたあなたは、もう。
——あの曲を教授から教わったなんて、言わないでちょうだい。




