第002幕 ――安全圏の驕りと泥臭い渇き――
冬麗の午後。 鉄紺のカーペットが、靴底の重みを音もなく吸い込んでいる。 分厚い防音ガラスの向こう、鈍色のビル群が冬空へ無数に突き刺さっていた。
何かの墓標のようにも見える。 微かなモーター音。 吹き出し口から二秒間隔で送られてくる二十四度の空気が、私の皮膚の表面温度を均等に均していく。
一気圧・酸素濃度二十一パーセント。 外の凍てつく風も、アスファルトを這う車の排気音も、この部屋の気密性には傷一つつけられない。
磨き上げられた大理石のテーブルの表面に、天井の白い蛍光灯が冷たく反射している。 重いマホガニーのドアが、低い振動を伝えてきた。 ドアの隙間から、ひそやかな音声の波形が空気を伝って鼓膜を撫でる。
「あの人の交渉術は……血も涙もない」 「ああ……就職氷河期から……経済危機すら利益へ……化け物だ」
声帯の震えがマホガニーの板を通り抜け、微細な空気の揺らぎとなって部屋の隅へ消える。 私は革張りの椅子に体重を預け、憲法色の深く黒ずんだ珈琲を喉に流し込んだ。
舌の裏側に、泥のような鋭い苦味がべったりと張り付く。 唾液腺が収縮する。
口内の粘膜がひどく乾き、顎の筋肉が微かに引き攣った。 喉仏が乾いた音を立てて上下する。
胃袋へ温かい液体が落ちていく感覚。
私はなぜ、わざわざ再びあの足利の陰気な蔵へ足を運ぼうとしているのか。 埋もれた真の才能を救済するため。 歴史的な価値を持つ芸術を保護し、正当な評価を与えるという、文化人としての崇高な使命。
……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。 あんな薄暗い場所で朽ち果てさせるには、あまりにも惜しい。
ブゥン。
微かな空調のモーター音が、脳内で無理やり構築しようとした論理の糸を無遠慮に断ち切った。
気管支の奥底に空いた穴を抜ける風の音が止まらない。 空調の人工的な風が皮膚を撫でるたび、その乾いた穴の縁がヒリヒリと擦れる。 思考の焦点がぼやけ、数字の羅列、為替の変動、紙の上に並んだインクの染みが脳裏をよぎる。
それらの視覚的残像が明滅するたび、口の中の苦味がざらつきを増していく。 美しい建前が空調のノイズによって千切られ、不快な摩擦へと塗り潰される中、私の右手はスーツのポケットの底へ沈み込んでいた。
布地の擦れる微かな音。 指先が、冷たく、そして滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀縁の鑑定用ルーペ。
親指の腹で、ガラスの表面を斜めに走る微小な亀裂の溝をなぞる。
カリッ。
爪の先が引っ掛かる。
カリッ、カリッ。
指先の皮膚が削れ、微かな熱を帯びる。 その摩擦の感覚が、足利の重い漆喰壁と、薄暗い土間の湿った匂いを網膜の裏側に引きずり出した。
半世紀の間、日の当たらない土間でカンバスに向かい続ける痩せこけた背中。 油と顔料のねっとりとした匂い。 柄が黒く炭化した豚毛の筆がカンバスを引っ掻く、硬い音。
ポケットの奥で、親指の爪がルーペの亀裂をさらに深く擦る。
カリッ、カリッ、カリッ。
あの分厚い顔料の重い塊を、この手で削り出し、分厚いガラスのショーケースに閉じ込め、無数の照明の下に晒す。 値札を貼る。
崇高な使命などではない。 ただ、あの男が半世紀をかけて築き上げた絶対的な不可侵の領域を、俗悪な資本の力で丸裸にし、私と同じこの冷え切った計算式の中へ引きずり下ろしてやりたいだけだ。
私が決して手に入れられない何かを彼が持っているという事実を、札束の重みで叩き潰せば、私の奥底で澱み続けているこの気管支のひりつくような渇きも、少しは癒えるのだろうか。
親指の腹が金属の縁を強く押し込み、指先の血流が白くせき止められる。 爪の裏側に走る鈍い痛み。
その痛みが、乾ききった口内に微かな唾液を分泌させた。 頬の筋肉が歪な角度で持ち上がり、奥歯がギリギリと音を立てて噛み合わさった。
マホガニーのドアの向こうで、再び微かな靴音が動く。 革靴が床を擦る音。
私はソーサーにカップを戻した。 陶器が重く硬い音を立てる。 立ち上がると、鉄紺のカーペットがわずかに沈み込んだ。
ネクタイの結び目を指で弾き、首元のわずかな圧迫感を直す。 足利へ向かう特急列車の時刻表の数字が、網膜の裏側でチカチカと明滅している。
ポケットの中の冷たい金属の重みが、歩き出す私の太ももを布越しに一定のリズムで叩き続けていた。




