第001幕 ――不完全なる静謐と亀裂――
冬ざれの午後。 分厚い強化ガラスの向こう、白群の空がひび割れたように広がっている。
眼下には、凍てつくような銀鼠のビル群が、コンクリートの墓標のように連なっていた。 室温は二十四度、湿度は五十パーセント。
空気清浄機が二秒おきに、チ、チ、と規則的な電子音を鼓膜の奥へと撃ち込み続けている。
一気圧・酸素二十一パーセントに固定された空間。 風の音も、アスファルトを這う群衆の靴音も、この部屋には一切届かない。
ただ極度に乾燥した空気が、皮膚の表面の水分を均等に舐め取っていく。 私は窓際で腕を組み、遥か下方を蠢く黒い点を見下ろしていた。
無数の点が、コンクリートの網目を這うように動いている。 ガラスの表面に指先を這わせる。 ひどく冷たく、そして滑らかだ。
外界との間を隔てるこの透明な壁は、指の腹を押し当てても一寸のたわみも生じない。
舌の根元を動かし、唾液を飲み込む。
喉仏が乾いた音を立てて上下する。
数十分前に流し込んだ深煎りの珈琲の、黒橡のような泥臭い苦味が、未だに舌の奥にべったりとへばりついている。
私はなぜ、わざわざあの足利という場所へ戻ろうとしているのか。 芸術の保護。 歴史的価値の再発見。
……社会的な建前としては、そうだ。 あんな薄暗い蔵の底で腐らせておくには、あまりにも惜しい才能だから。
チ、チ。
空気清浄機の無機質な電子音が、脳内で無理やり構築しようとした論理の糸をあっさりと断ち切った。
思考の焦点がぼやける。 デスク上のモニターが、白と黒の数字の羅列を等間隔で明滅させ、私の網膜をチカチカと刺激し続けていた。
光の明滅が、脳の奥で単調なリズムを刻む。 数字が増殖し、列が入れ替わる。
それらの光の信号が、美しい大義名分を不快なノイズで塗り潰していく中、私は右手の親指をスーツのポケットの奥深くへと滑り込ませた。
布地の底。 冷たく、重い金属の感触。 亀裂の入った、銀縁の鑑定用ルーペ。
親指の腹で、金属の滑らかな縁をなぞる。 そして、ガラスの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に、爪の先を引っ掛けた。
カリッ、カリッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる微小な音が鳴る。
カリッ、カリッ、カリッ。
指先の反復動作が止まらない。 亀裂の鋭利な断面が親指の腹を薄く削り、微かな熱と痛みが走る。
その痛みが、乾いた脳の奥底に、決して見たくない映像を引きずり出してくる。
栃木県足利市。 分厚い漆喰壁。 日の当たらない土間の、湿った土と古い木の匂い。
柄が黒く炭化した豚毛の絵筆を握りしめる、痩せさらばえた男の背中。 カンバスに塗りたくられた、油と顔料のねっとりとした重い塊。
ポケットの中でルーペの亀裂をなぞる私の親指の動きが、さらに速度を上げる。
カリッ、カリッ。
爪が削れる感触が、脳髄の奥で響く。
あの分厚い顔料の層を、この手で削り出し、分厚いガラスのショーケースに閉じ込め、無数の照明の下に晒す。 値札を貼る。
偉大な芸術を世に問うためではない。 ただ、あの男が築き上げた神聖な不可侵の領域を、俗悪な数字の羅列で汚し、私と同じ一気圧の泥水の中へ引きずり下ろしてやりたいだけだ。
高尚な狂気に酔いしれるあの背中を、札束の重みで叩き潰せば、私の奥底で澱み続けているこの得体の知れない劣等感も、少しは薄れるのだろうか。
親指の爪が亀裂の最深部に食い込み、鋭い痛みが皮膚を突き破った。
空気清浄機が、再びチ、という電子音を鳴らした。
空調の吹き出し口から、人工的な微風が降りてくる。 その風が顔に当たった瞬間、首に巻き付いたシルクのネクタイが、頸動脈をじわりと締め付けた。
気管支の奥底、肺の粘膜に、ひどく場違いな、微小な粒子のザラつきが張り付いた。
鉄錆の匂い。
金属が酸化し、ゆっくりと崩れ落ちていくような、重く生温かい匂いの粒子。 それが一瞬だけ、乾燥した酸素に混じって鼻腔を通り抜けた。
私は、ゆっくりと息を吐き出した。
強化ガラスの表面に、室内の照明を反射した男の顔が薄く張り付いている。 口の端が歪に持ち上がり、頬の筋肉が引き攣ったままの顔。
私は右手にさらに力を込め、ポケットの中のルーペを握りしめた。 冷たい銀縁が、火照った掌の肉に深く食い込む。
足利へ向かう特急列車の時刻表の数字が、モニターの明滅と重なるように、網膜の裏側にチカチカと浮かび上がっていた。




