第000幕 ――泥蝕(でいしょく)――
防音ガラスに守られた二十四度の完璧な日常は、舌の裏に張り付いた泥のような鋭い苦味と共に、突如として理不尽な崩壊を始めた。
彼を圧倒的な資本で支配し、盤石な安全圏から見下ろすはずだった私は、五十年の沈黙を破った天才の狂気に巻き込まれ、重い泥の濁流へと沈んでいく。
気管を灼くこの熱波と泥の味を共有できるのは、もはや日常には戻れない、狂気に魅入られたお前と私だけだ。
春の昼下がり。 分厚い漆喰壁の前に立ち、重い木扉を両手で押し開いた。
外界の乾いた春の空気は完全に遮断され、三十七度前後のねっとりとした生温かい大気が、衣服の隙間から首筋にべったりとまとわりついてくる。 鼻腔の奥に、パレットの上で錆色に変色しかけた顔料の匂いと、腐りかけた肉の甘ったるい微粒子がこびりつく。 右手の掌の奥で、火傷の痕が心拍に合わせてズキリ、ズキリと鈍い熱を発した。
カチッ。
スイッチを押し込む硬い感触。 赤い録音ランプが、闇の中で規則的な点滅を始める。
「先生。プロモーション用の資料をまとめたいのです」 薄暗がりの中、キャンバスに向かう丸めた背中へ声をかけ、持参した黒檀のボイスレコーダーを古い文机に置いた。 真実の記録など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。
私はただ、この蔵の底で私を圧倒し続ける狂気と五十年の重みを、この薄っぺらい黒檀の機械の中に吸い込ませ、安いデジタルデータへと還元してやりたいだけなのだ。
得体の知れない熱量で私を脅かすこの男の人生を、私の支配できる無機質な音声ファイルに閉じ込め、安全圏から見下ろさなければ、私の自我がこの生温かい大気に押し潰されてしまいそうだからだ。
師匠は振り返ることなく、柄が黒く炭化した豚毛の絵筆をゆっくりと置いた。 「……話すような過去など、私にはないよ」
ひび割れた声帯の震えが、埃っぽい空気を伝って私の鼓膜を撫でる。 赤いランプは点滅を続けているが、機械は蔵の中に反響する微小な環境音しか拾っていない。 五十年前の出来事。その部分だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
沈黙。
蔵の中に淀む生温かい大気が、突如として鉛のような質量を持ち、私の鼓膜を内側へ向かって強く圧迫し始めた。 腐肉の匂いの粒子が、濃度を増して鼻腔の粘膜を覆い尽くす。
私は右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。 冷たく滑らかな金属の感触。銀鼠の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。
チッ、チッ。
爪とガラスが擦れる微小な音。 火傷の鈍い痛覚と、金属の冷気。 局所的な温度差が指先の感覚を麻痺させていく。 他人の口から語られる五十年分の時間の重みが、私の網膜の裏側で桁の多い白黒の数字の羅列となってチカチカと明滅し始める。
チッ、チッ、チッ。
爪で亀裂を引っ掻く速度が上がる。 火照った掌の肉に金属の縁が深く食い込み、血流がせき止められる。 右手の親指がルーペの亀裂を執拗にこする。 左胸のポケット越しに、桜色の紙片の硬さが心臓の拍動を布越しに伝えてくる。 師匠の背中は動かない。
ポトリ。
炭化した絵筆の毛先から、錆色の泥が床へ落ちる鈍い音が鳴った。 私は赤いランプの一定の点滅と泥の悪臭に気道を塞がれながら、右手の爪がガラスを削る微細な振動だけを、この密閉された暗熱の底でただひたすらに感じ続けていた。
……ことの始まりは、あの冬ざれの午後、分厚い強化ガラスに隔てられた二十四度の無菌の部屋からだった。




