本物の家族へ
アパートの廊下は静かだった
街の喧騒を背にして帰ってくると、いつもこの静けさが“現実”として胸に落ちる
――守るものがある現実
――帰る場所がある現実
紫苑は鍵を回す手に、わずかな震えが残っているのを自覚していた
舞と亮を投げ飛ばした感触ではない
自分の過去と真正面からぶつかった余韻だ
「……ただいま」
扉を開けると、部屋の奥から小さな足音がした
パタパタと急いで、それでも途中で止まる
浅葱が玄関にやってきて、紫苑の顔を見上げている
以前なら、玄関に駆けてきたあとで“叱られるかもしれない”と気づき、慌てて引っ込んだだろう
でも今は、浅葱はそこで待っていた
そして、確かめるように言う
「……しおん、おかえり」
「ただいま、浅葱」
紫苑が靴を脱ぐと、浅葱はほんの少しだけ近づいて、また止まった
近づいていいのか、抱きついていいのか、まだ身体が覚えていない
紫苑は優しく浅葱の頭を撫で、一緒にリビングへ向かった
リビングのテーブルには、温かいスープとサンドイッチ。エレオノールは食事の準備をしながら、紫苑の顔色を見た
「お帰りなさい、紫苑」
「ただいま、エレオノール」
「……あなた、疲れていらっしゃる?」
「……少し」
浅葱がすぐに不安そうな目をする
“疲れている=怒られる”の連想がまだ残っている
紫苑は浅葱の前にしゃがみ、はっきり言った
「疲れてるけど、怒ってない。浅葱のせいじゃないよ」
浅葱の肩から力が抜けた
「……うん」
その“うん”が、紫苑には宝物みたいに聞こえた
ーーーーーーー
3人で食卓を囲む
それだけのことが、浅葱にとってはまだ“特別”だ
浅葱は椅子に座る前、紫苑とエレオノールを見た
「……すわって、いい?」
「うん、浅葱の席だからね」
エレオノールも微笑む
「あなたの席が、ここにありますわ」
浅葱はそっと座り、手を膝の上に置いた
エレオノールが言う
「いただきます」
「……いただきます」
浅葱の言葉はもう、ちゃんと声になっていた
紫苑はその成長が嬉しくて、しかし同時に胸が痛んだ
“普通”を覚えることが、浅葱にとってどれほど遠い道だったかを思い出すから
食べながら、浅葱がぽつりと言う
「……きょう、こわいこと、あった?」
紫苑の手が一瞬止まった
浅葱は見ていないはずなのに、察している
大人の声の温度や、帰宅後の空気の匂いで
紫苑は隠すのをやめた
ただし、怖がらせない言い方を選ぶ
「……ちょっとだけ。浅葱を使って、悪いことをしようとする人が来たんだ」
浅葱の目が揺れる
「……ぼく、わるいこと……?」
「違う」
紫苑は即答した
「悪いのは、使おうとした方だよ」
「浅葱は守られるべき子ですわ。……あなたを道具するなんて、あってはいけません」
エレオノールは丁寧に付け足した
浅葱は言葉を飲み込み、スープを一口飲んだ
そして、小さく聞く
「……また、くる?」
紫苑は嘘をつかなかった
「来るかもしれない」
浅葱の顔が青くなる前に、紫苑は続ける
「でも、来ても大丈夫にする。……そのために、明日、役所に行く」
ーーーーーーー
食後、紫苑は棚から紙を1.枚持ってきた
メモ帳でも、契約書でもない
ただの白い紙。浅葱が“わからない言葉”を整理できるように
「浅葱。役所っていうのは、皆の“暮らし”を守る場所だ」
浅葱は首を傾げる
「……まもる?」
「家に住むとか、学校に行くとか、名字とか。そういうのを、ちゃんと形にする場所……かな」
エレオノールが浅葱の前に温かいミルクを置く
「難しく感じたら、今は全部覚えなくても大丈夫ですわ」
浅葱はミルクを両手で持つ
その仕草がまだ小動物みたいで、紫苑の胸が締め付けられる
「明日、浅葱を“うちの子”にする手続きをする」
浅葱が瞬きをする
「……うちの、こ」
「そう。養子っていう」
浅葱が言葉を転がす
「……ようし」
「俺とエレオノールの子になるってことだ」
浅葱は、嬉しさより先に恐怖が出た顔をした
期待して裏切られるのが怖いのだ
「……でも、ぼく、……また、いらないって……」
紫苑は浅葱の手に自分の手を重ねた
「言わない。絶対に」
浅葱の目が揺れる
紫苑ははっきり続ける
「書類にする。……“言葉”じゃなくて“形”にする。そうしたら、浅葱はどこにも行かなくていい」
エレオノールが静かに言う
「あなたが怖いのは、“いつか捨てられるかもしれない”という未来でしょう?」
浅葱は小さく頷く
「……うん」
「なら、未来を変えましょう。……わたくし達は、あなたを選びますわ」
“選ぶ”
浅葱はその言葉を聞くと、鼻先が赤くなった
泣きそうなのに、泣くのがまだ少し怖い
紫苑は浅葱の頭を撫でる
「浅葱。選ばれるのは、怖いことじゃない。……嬉しいことだ」
浅葱は声を絞り出す
「……ぼく、えらい?」
紫苑は即答した
「えらい。……生きてここまで来た時点で、えらい」
浅葱の涙が、1滴落ちた
今度は袖で拭わない
エレオノールが差し出したティッシュを受け取り、丁寧に目元を拭いた
ーーーーーーー
夜。浅葱は布団に入ったのに、目が冴えていた
不安が浮かぶ夜は、浅葱にとって危険な夜だった
紫苑は枕元に座る
エレオノールは反対側に座り、浅葱の手を握る
浅葱は小さく息を吐いて、やっと言えた
「……あした、いくとこ、こわい?」
「怖くないよ」
紫苑は言う
「でも、浅葱が怖いなら、俺が一緒に怖がるから」
「……いっしょに?」
「うん。一緒に行こう、手を繋いで。……もし、途中で嫌になったら言って。一緒に休もう」
エレオノールも言う
「浅葱、あなたは“嫌”と言っていいのですわ」
浅葱はまだ信じられない顔で、でも頷いた
「……ぼく……いやって、いっても、すてられない?」
紫苑の喉が詰まった
浅葱はこれまで、“嫌”を言う権利すら奪われてきた
紫苑は、ゆっくり、確実に言葉を置く
「捨てない。嫌って言えたら、むしろ偉い。……自分を守れるから」
浅葱の手が、紫苑の指をぎゅっと握った
「……しおん」
「ん?」
「……あした、……うちのこ?」
紫苑は笑って頷いた
「明日から、もっとちゃんとうちの子だ」
エレオノールが、子守歌みたいに囁く
「今夜も、もう“家族”ですわ。……明日はそれを紙に書くだけです」
浅葱の瞼が、少しずつ重くなる
眠りに落ちる直前、浅葱がかすれた声で言った
「……ぼく……しあわせ……?」
紫苑は胸が熱くなり、言った
「そうだ。……幸せだ」
エレオノールが、浅葱の額に軽く口づける
「おやすみなさい、浅葱。……わたくし達の子」
浅葱の呼吸が深くなり、眠りが訪れる
紫苑はその寝顔を見つめながら、心の中で誓う
――舞に浅葱を触れさせない
――過去に支配させない
――“家族”を守り抜く
寝室を出ると、リビングの灯りが淡く揺れていた
紫苑はポケットから、朝凪鈴にもらったボイスレコーダーを取り出す
小さな機械の冷たさが、現実を思い出させる
「……これで終わらせる」
紫苑が呟くと、エレオノールが隣で頷いた
「終わらせましょう。……あなたはもう、あの人の子どもではありませんわ」
紫苑はエレオノールの手を握る
「……ああ。俺はーー“浅葱の父親”になる」
その言葉に、紫苑自身が少し驚いた
父親を知らない紫苑が、“父親になる”と口にした
でも、それは恐怖ではなく希望だった
窓の外、夜は静かに更けていく
そして明日
役所へ行く朝が来る
浅葱色の目の少年が、正式に“家族”になる朝が
3人の暮らしは、ここから本当に始まる
ーーーーーーー
浅葱色の目をした少年は
優しい花と鳥に心を許します
少年は笑いながら言いました
「あなたたちといっしょにくらしたい」と……
これで3章は終了です!次回から4章に参ります!!
舞と亮の末路は、番外編でしっかり書かせていただきますので、お楽しみに!
もしよろしければ、リアクションや感想をお願い致します。リアクションを頂けると、作者は歌います




