銀の月の誓い
小説家・朝凪すずの“筆がノる”という状態は、世間が想像するような優雅なものではない
机に向かい、コーヒーを淹れて、静かに言葉を選ぶーーそういう芸術家的な風景とは正反対だ。朝凪がノる時は、まず生活が壊れる
睡眠が削られ、食事は後回しになり、カーテンを開ける余裕すら消える。言葉が脳内に溢れ出し、彼女はそれを書かずには居られなくなる。もはや発作に近い
ーーあの夜、ホストクラブ「Nightingale」で出会った2人
まるで、小夜鳴鳥のような吸血姫
そして、その吸血姫の前で優しく笑うホスト
(あれは……書く。絶対書く。いや、書かないという選択肢がない)
人間は、運命的な出会いをすると胸が高鳴る
しかし朝凪は違う。運命的な出会いをすると、物語にしたくなるのだ
朝凪は今もパソコンに向かい、キーボードを打ちまくる
タイトルは迷わなかったーー「銀の月の誓い」
それは、銀の月の下で交わされる誓いの物語
夜の世界で生きる男と、小夜鳴鳥のような吸血姫
2人の幼い恋、強制的な別れ、再会、そして2人だけの結婚式ーー
朝凪はエレオノール達の名前を隠し、場所をぼかし、ディティールを変えた
だが、核だけは残した
“表面的な美しさ”ではなく、“血の通った美しさ”
“暴力的な快楽”ではなく、“静かで清らかな愛”
“夜の獣”ではなく、“誇りを持った夜の貴族”
キーボードを打つ指が止まらない。目が乾く、肩が痛い、胃が鳴る
それでも、止まれない
1日目に、骨組みができた
2日目に、肉がついた
3日目に、血が通った
3日目の昼、朝凪は最後の一文を打ち終え、パソコンの画面の前で長いこと固まった
ーー書けた。いや、“書いてしまった”
朝凪はすぐに印刷した
束になった原稿を抱えた瞬間、お腹が鳴る。そういえば食事をとっていない
彼女はふらりと立ち上がり、冷蔵庫を開けた
中には牛乳とヨーグルトしか入っていない
「………そういや、最後に買い物に行ったのっていつだっけ?」
独り言を言いながら、彼女はヨーグルトに蜂蜜をかけて食べた
そして、そのまま靴を履いて玄関を出た
朝凪がやってきたのは、スズキ文庫。小さな出版社だ
大手のような大きなビルではなく、慎ましい雑居ビルの一室。朝凪は割とここが好きだった
大きい会社には“論理”があるが、小さい会社には“人間”がある
朝凪すずという作家を、ただの売れ筋商品ではなくて“変わり者の朝凪”として扱ってくれる場所
先ほど朝凪から連絡を受けた編集長の中村は、原稿の束を見た瞬間、顔色を変えた
「……朝凪さん、またやったでしょ」
「そうですね、やっちゃいましたね」
「またって……前の締め切り終わったばかりだよ!?」
「終わったら、次が始まるんですよ」
「理屈が怖い!」
中村は嘆きながらも原稿を受け取った。嘆いていてもどこか嬉しそうだ
朝凪の“発作”は、出版社にとっては災害であり恵みでもある
「タイトルは……“銀の月の誓い”?」
「人間の男と吸血鬼の姫のラブストーリーです」
「ふーん……」
中村は席に座り、ページをめくった
最初の数行を読んだ瞬間、彼の表情が変わった
彼も編集者だ。新人の青臭い文章も、売れ筋商品も、天才の危うい原稿も、全部見てきた
だからわかる。“これは当たる”という匂いがある
中村は読むスピードを上げた。ページをめくる音が部屋に響く
朝凪はその横で、パイプ椅子に行儀よく座っていた。自分の原稿が読まれるのはやっぱり緊張する。普段は世界を解剖するくせに、自分の世界を覗かれると途端に弱い
そしてーー中村の目は潤んだ
「……え、ちょ、待って。ここ………」
中村は笑いながら泣いた。情緒が忙しい
涙を拭こうとして、上手く拭けず、結局メガネがズレた
「朝凪さん……これ反則だよ」
「反則ですか?」
「……切なくて甘くて、最高に美しいじゃん……!」
「恐縮です」
すると、社長の鈴木が様子を見に来た
「どうした中村……って、なんで泣いてんの」
「社長……!朝凪さんがまたやらかしました………!」
それを聞いた社長は、神妙な顔で原稿を受け取り、数ページ読んだ
数ページで、眉間のシワが消えた
さらに読み進めて、口元が震えた
そして、最後にーー泣いた
「な、なんだこれは……!」
社長は涙を堪えようとしたが、無理だった。50の男が静かにガチ泣きする
朝凪は、そんな2人のリアクションを見て、心でガッツポーズをした
「社長、これ……出しましょう」
「……出す。いや、出すしかない」
「初版、強気でいきません?」
「……いや、強気すぎると在庫が」
「でも、これ……きますよ」
「……くるな。これはくる」
2人の男が、泣きながら意思決定をしている光景は、だいぶ異様だった
だか、朝凪はそれを“いい場面”だと思った。人が本気になる瞬間は、美しい
「朝凪さん、うちを、大きくしてくれ」
社長にそう言われ、朝凪は戸惑った
「え、会社経営はわからないんですけど……」
「いい。わからなくていい。もっと書いてくれればいい」
「はい!喜んで!」
こうして出版が決まった
発売日。スズキ文庫のオフィスは妙にそわそわしていた
担当者はSNSを開いた
最初は静かだった。しかし、昼頃から風向きが変わった
“銀の月の誓い、読んだ……泣いた……”
“吸血鬼ものってこんなんだっけ!?尊すぎる”
“主人公のホストが、吸血姫の前でだけ弱くなるの、ズルい”
“夜の街が舞台なのに、こんなに清い恋ってある?”
言葉が増える。引用が増える。感想の連鎖が起きる
やがて、“バズり”は“社会現象”になった
書店の棚から本が消え、電子書籍のランキングが跳ね、タイトルがトレンドに入る
誰かの感想が、誰かの涙を呼び、さらに誰かが買う
スズキ文庫は小さな出版社だ。印刷部数も流通も、大手に比べれば細い
だからこそ、勢いがついた時の伸び方が尋常じゃない
社内には、お祭りと修羅場が一緒にやってきた
「重版!重版!!」
「印刷所を抑えろ!」
「営業車、追加で出すぞ!」
「朝凪さんに連絡!いや、今寝てるの!?起きてるの!?」
「どっちでも怖い!」
全員が走り回りながら、時々正気を失ったように笑った
そして、世間は言う
“スズキ文庫ってどこだっけ?”
“最近急成長した出版社になってない?”
“朝凪すず、やっぱり天才だな”
ーー小さな出版社だったスズキ文庫は、一気に大手へとのし上がった
スズキ文庫にとって「銀の月の誓い」は看板になった
……その結果、スズキ文庫の社内の片隅に、なぜか神棚が設置された
神棚には、お札と、塩と、酒。そしてーー朝凪すずの写真
写真の朝凪はメガネをかけ、真面目そうな顔をしている
だが、手を合わせるスズキ文庫の社員たちは真剣そのものだった
「朝凪先生……次もお願いします」
「どうか締め切りに送れませんように(先生が)」
「胃を壊しませんように(先生が)」
「そしてまた、当ててください」
もはや信仰である
当の本人は、そんなこと知らない
いや、知ったらどうするんだろう
たぶん、真顔できっとこう言う
「ネタになるかな?」
朝凪はそういう女だ
ーーーーーーー
「銀の月の誓い」がバズった数日後、ホストクラブ「Nightingale」では、紫苑がSNSを見ていた
そこには、誰かの感想が書かれていた
“この誓い、嘘じゃない気がする”
紫苑は小さく息を吐いた
エレオノールが隣で静かに微笑む
「………朝凪さん、やりましたわね」
「そうだね……厄介だ」
「優しい厄介さですわ」
「……ほんとにね」
夜の街に、物語が増えた
誰かの心を救う物語が
そして、スズキ文庫の神棚には、今日も朝凪すずの写真が鎮座している
なぜか少し、誇らしげに




