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初夏の約束

六月。


窓の外で、アスファルトが陽炎を立てている。

まだ梅雨も明けきらないというのに、空気はもう逃げ場を失ったように重たい。


リビングにこもる熱は、じわじわと肌にまとわりつく。

エアコンは、わけあって付けられない。


桐灰華はソファに寝転び、溶けかけたアイスを口に運ぶ。

甘さより先に、冷たさが喉を落ちる。

それでも汗は止まらない。


扇風機の風が、髪を揺らす。

しかし、生ぬるい。


『今年も各地で三十度を観測し——』


テレビの向こうでは、明るい声のアナウンサー。

他人事のように、夏を告げている。


『——九州・天上市で、市長が児童をはねる事故が——』

「……」


また堅いニュースだ、と。

華はため息をついて、リモコンを取る。


ピッ、と音がして、画面がバラエティに切り替わる。


どうでもいい。


暑さとアイスの方が、ずっと重要だ。

すると背後から、足音が近づいてくる。


「ごめん、シロップ切らしてた」

「えー、まじぃ?」


戻ってきたのは富谷冷だった。


黒のキャミソールにショートパンツ。

首元にかかる汗を拭いながら、ポニーテールを揺らす。


「外、息できないよね」

「アスファルト溶けてない?」

「溶けてたらニュースになってる」


華はソファに転がったまま、天井を見上げる。


「海とか行きたいよねー」

「まだ海開きしてない。プールも改装中って昨日有線放送で言ってたよ」

「えぇー……」

この猛暑からの逃げ場が、ない。


窓を開けても入ってくるのは熱風。

クーラーは先日室外機が突然動かなくなり故障中。

扇風機はただ空気をかき混ぜるだけ。


溶けたアイスが、皿の縁を伝う。


「……そういえば、クリスチャントは?」

「コーヒー豆の調達。ハワイ」

「ハワイ?!」

「五日くらいで帰るわ」

「いいなぁ、涼しそう」


華の隣に座る冷は、少しだけ笑う。


「向こうも暑いと思うけど」


華はスプーンを咥えたまま黙る。


逃げ場がある人と、ない人。


――何の話でもない。はずだった。


「ん? なにこれ?」


華はテーブルの端に置かれた回覧板を引き寄せた。

紙の端が、汗ばんだ指先に少し貼りつく。


「さっきお隣さんから回ってきたの。あとで回さなきゃ」


ぱらり、とめくる。


工事のお知らせ。

ゴミ回収日の変更。

町内清掃の案内。

お悔み。


どれも、いつも通りの紙切れ。

その中に、色のついた一枚が混ざっていた。


夜空に咲く、丸い光。


「青崎花火大会……八月一日、海岸通り」


華の声が、わずかに弾む。


外では、陽炎が揺れている。

この熱が、まだ二か月も続くのかと考えると、少しうんざりする。


でも。


「毎年やってるわよ。前の日から屋台も出るし、結構人も集まる」


冷はそう言いながら、華の手元を覗き込む。


紙面に描かれた小さな花火のイラスト。

黒い夜空を切り裂く光の線。


「へぇ……」


華はしばらくそれを見つめる。

暑さも、汗も、今だけは少し遠のいた。


「一緒に見に行きたいね!」


ぽつりと、何気ない調子で華は言う。


けれど。

冷の呼吸が、ほんのわずかに止まる。

胸の奥が、きゅっと縮むような感覚。


今まで、誰かと“約束”をすることは、あまりなかった。


ましてや、こんなふうに当たり前みたいに誘われることなんて。


視線を逸らし、唇を噛む。

鼓動が、ひとつ強く鳴る。


「……いこう」


声が少しだけ掠れた。


華はにかっと笑う。


「やったね! たのしみ!」


その笑顔は、太陽よりもずっと眩しい。窓の外では、熱風が街を包んでいる。


それでも。

八月の夜空には、きっと冷たい風が吹く。その光の下で笑っていられたらいい、と。


—その時だった。


華の手が、止まる。スプーンが、わずかに揺れたまま空中で止まる。

視線が、どこでもない一点へ向く。

笑顔は消える。

部屋の空気が、ひやりとした気がした。


「……華?」


冷が顔を覗き込む。

反応が、遅い。


数秒の沈黙。


やがて、華が小さく息を吐く。


「……感じた」


声の温度が、さっきまでと違う。


「まさか——影喰?」


華はうなずく。

その動きは、さっき花火を見ていた少女とは別人のようだった。


人差し指をこめかみに当て、目を閉じる。

街のざわめきの中から、ひとつだけ歪んだ感情を探る。


「……遠くない」


華の声が、少し低くなる。


眉が寄る。


「でも……場所が、ぼやけてる」


目を閉じたまま、呼吸が浅くなる。視界の奥に、白く滲んだ光景。

波の音が、遠くで砕ける。

潮の匂い。


「海……向こう側……」


言葉が途切れるず、映像は定まらない。


誰かの背中。

制服。

白いシャツ。

笑い声。


——その中に、ひとつだけ沈んだ色。


冷はすでにスマートフォンを開いている。地図アプリを立ち上げ、指を構える。


「建物……人が、たくさんいる……」


華のこめかみに、汗が伝う。


「……日本っぽい」


冷の指が滑る。

学校、公共施設、会社、候補がいくつか浮かび上がる。


だが、華の表情がさらに歪む。


「……違う」

「違う?」

「何か……おかしい……」


映像が、ぶれる。

視界の端に、何処かの建物の形が浮かぶ。

三角と、鋭い影、石の塊。


「……三角……」

「三角?」

「大きい……石……空に向かって……」


冷の指が止まる。

一拍。


「ピラミッド、みたいな?」


華の呼吸が止まる。

ゆっくりとうなずく。


「……うん」


冷の視線が、画面に吸い込まれる。

スクロールが止まる。指が、ある地点を拡大する。


「……あった」


冷の声は低い。

それは確信でもあった。




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