妖猫 第十二話
他の選択など思い浮かばず、俺はブイアンの言葉に乗った。自分の力だけでダイアから逃れる術など有り得ないと思った。
いや、それよりもダイアへの恐怖が脳裏に焼きついて離れないのが決め手だろう。とにかくいまはダイアから少しでも距離を取りたかったのだ。
俺の手を取ったブイアンは「準備は出来ている」と言った。今なら皆寝静まり、そしてダイアもまさかこんなにすぐに逃亡を協力するような者は現れないと思っているだろうからとのこと。
「一つだけ頼みがある。」
ブイアンは真っ直ぐ俺の目を見ていた。その目には一切の冗談など含まれない真剣さが見て取れた。
「なんだ?」
「転移出来るんだろ?だが転移で逃げないでくれ。いや、転移で逃げても構わないんだが、転移するんならナターシャも連れて行ってほしい。」
「……どういうことだ?」
「ナターシャは俺にとって妹みたいな存在だ。何が何でも生き延びて欲しいんだ。それにナターシャには魔女なんかよりお前みたいな存在と生きて欲しいからな。」
俺のなにを知っているんだとも思ったが、それを口にするのはやめた。
転移すれば妖精の国へ連れて行くことになってしまう。さすがにそれは出来ない。
「ナターシャを連れて転移するわけにはいかない。」
「……そうか。それが最も安全な方法だと思ったんだがな。ならせめてナターシャと手を繋いでいてくれ。転移を阻止してるわけじゃない。もし戦闘になれば俺はナターシャまで気を回せないだろう。その時はナターシャを連れて逃げてくれ。そして安全な所までで良いから、ナターシャをお前に守ってもらいたい。」
「わかった。」
ブイアンの後をついていく。左手にはナターシャの手が添えられ、右手にはブイアンに借りたナイフがある。
洞窟の通路を進んでいく。小部屋の扉から松明による光が漏れていたが皆寝静まっているようで、自分の息遣いだけが妙に目立っている気がした。
しかしそれも気のせいであったようで洞窟からの逃亡は何事も無く進んでいき、やがて出口から射し込む月明かりが見えてきた。
出口を出るとひんやりとした空気が気持ち良くて、それだけで自由が如何に素晴らしいものかと感動する。
まだ洞窟の目の前なのだが。
「くそ。……………見張りがいねぇなんて初めてだぞ。おい、何が何でもナターシャの手を離すなよ。」
ブイアンは明らかに狼狽えていた。嫌な汗を拭い周囲を警戒している。
確かにこの森で見張りも無しなんて不自然すぎる。
「一時でしたが……自由の素晴らしさを感じられましたか?」
警戒していた。それなのに気付けなかった。
背後から聞こえた絶望の声に体が強張り、ぎこちなく振り返る。
するとそこには、微笑を浮かべたダイアがいた。
「走れぇぇ!!!!」
腰に差した剣を抜き出しブイアンが叫んだ。
僅かに生まれた逡巡。それを見たブイアンは戸惑うこと無くダイアに向かって走り出した。
ブイアンを見捨てる覚悟が未だに出来ていなかった。それが致命的なまでに俺の足を止めた。
どうしたらいいのかと脳をフル回転させ、俺は渋々ナターシャの手を引いて走り出す。しかし、ナターシャが走り出す事は無かった。
「私は行けません。」
そう言うとナターシャは俺の顔面を全力で殴り付けた。
折れたであろう鼻を押さえ痛みにのたうち回る。何が自分の身に起きたのか理解出来なかった。
そして気付けばブイアンとナターシャが俺を見下ろし、ブイアンが俺の頭を掴み持ち上げた。
「こんな単純な生き物が金の塊かと思うと笑えるな!」
「ブイアン様、頭を潰さないで下さいね?」
頭がクラクラした。俺は謀られたのだ。いや、謀られたなんてまともなものではない。単に惨めに弄ばれただけだったのだ。
「クハハッ!!そんなヘマするわけねぇだろ。悪かったな猫。妖精を逃がされたのが悔しかったみてぇでどうしてもコケにしないと気が済まねぇみたいでよ。ナターシャがな!」
「主な管理は私でしたから。たまたま非番の時にこれですから。でも少しだけスッキリしたー!!」
ずっと自信が無さそうな顔をしていたナターシャだったが、今はそんなものを微塵も感じさせない表情で背伸びをしていた。こっちが本来の姿なのだろう。
「……騙したのか。」
「つまんねぇ質問だなぁ。そんな立派なもんじゃねぇよ。」
「ぶっ。確かにそうですね。こんなお遊びでコロッと騙されるなんてこっちだって想定外ですよ。ご愁傷様ですー。」
ようやく俺は、野生動物や魔物にはない純粋な悪意を認識した。こんなにも腐りきった人間をあっさりと信用してしまうなんて愚かにも程がある。
「離せぇっ!!」
爪を剥き出しにして、俺の頭を握るブイアンの腕を全力で薙ぐ。だが鉄を引っ掻いたような感触に腕を見れば傷一つついていなかった。
「離すわけがねぇだろ。それに、1回は1回だぜ?」
ブイアンは腕を軽く引き、俺の腹をヘラヘラした顔のまま殴った。踏ん張りもせず振り抜かれた拳だったが、まるで鈍器で殴られたような痛みが腹部を襲う。
「二人とも、あんまり虐めては可哀想ですよ。地獄はこれからなのですから。」
ダイアが杖を向ける。魔法で拘束でもするつもりなのだろうか。
ブイアンは未だ頭を掴んでいる。メリメリと肉を押し潰し骨を直接摑まれているような感覚だ。それに腹どころか背中まで痛い。
もう少し強く頭を握られたらすぐにでも意識を飛ばせる自信がある。
三対一。
ブイアンの拘束から逃れ、ナターシャとダイアから逃げ出す。そんなことが可能なのか。可能性なんて皆無だ。賭けにすらならない。
関わりたくない。視界にすら入れたくない。もう魔法で拷問なんか嫌だ。
どうにも出来ない。恐怖が体を支配する。思い出してしまった。恐怖を。
あぁ、この世界はなんて恐ろしいんだ。
「がぁぁぁっ!!!!」
「ブイアン!!」
大きく口を開け叫ぶ俺をみてダイアが叫んだ。だがもう遅い。ブイアンが反応するよりも早く、俺は舌をかみ切った。
「こ、こいつやりやがったな!!」
流れ出る血に咽せて咳き込み、血飛沫がブイアンに迫る。そして血を嫌ったブイアンが思わず手を離した。
この時を待っていた。
完全に拘束から逃れる瞬間を。




