第92話 年明け。
みやびとの話し合いも終わり、1月中には離婚届を出すことになった。
正直、あの時、セックスしたかったという後悔はある。
何年も俺を拒み続けた女が、股を開いて俺の全部を受け入れると言ってくれるのだ。あの妖艶な肉体を好きにして、支配したかったというのも、本音だ。
でも、踏みとどまれてよかった。
りんごからすれば、みやびは最悪な浮気相手だろう。一旦、踏み越えてしまえば、たぶん、一生、許してくれない。本当にりんごとの時間が終わってしまう。
だから、キッチンに立つリンゴを後ろから抱きしめた。
りんごはビックリして振り返る。
「ちょっと……、どうしたんですか?」
りんごからフワッと甘い香りがした。
香水とは違う、安心する陽だまりの匂い。
「いや、急に抱きしめたくなっただけ」
「もう。甘えん坊なんだから」
りんごはソファーに座り、太ももの辺りをパンパンと叩いた。どうやら、膝枕をしてくれるらしい。
俺が、りんごの膝に頭を乗せると、上から覗き込んでくる。ほんとお母さんによく似ている。下からみても、隙のない美貌だ。
「郁人さん。がんばったね」
「え。なんのこと?」
「わかんないけど。頑張った人の顔をしてる」
りんごは俺の頭を撫でた。
そして、少し音量を抑えたハスキーな声色で続けた。
「えらいえらい。わたしは分かってるから」
りんごに離婚の話をした時、りんごは喜ばなかった。それよりも、悲しい顔になって「ごめんね」と言われた。
なんの『ごめん』なのかは分からない。
だけれど、あえて確認する必要はないように思えた。
喪中ということもあり、今年のお正月は家で過ごすことにした。
お正月にな、さくらやカレンもきて挨拶された。まるでお父さんみたいな気分だな。
そして、離婚届を出す日になった。
役所はかなり混んでいた。俺は窓口で受付票をもらい、順番をまつ。
1月って、離婚のシーズンなのか?
すると、幸せそうなカップルが2人で婚姻届を書いていた。
なるほど。結婚のシーズンなのか。
おれは昔を思い出しながら、順番をまつ。
ふと、スマホを見ると、りんごから何十回も着信が入ってたことに気づいた。りんごにすぐに電話をかける。
すると、りんごは鼻をすすり、泣いているようだった。
「郁人さん。つ、つ、つ、つむぎちゃんが!!」
なんとか、りんごをなだめて事情を聞きだす。
すると、つむぎが起きてこないと思って、りんごが起こしにいくと、つむぎは顔面蒼白で返事をしなかった、とのことだった。
つむぎは、すでに救急車で病院に運ばれているとのことだった。りんごにはタクシーで直行するように言い、おれも直接に向かうことになった。
病院につき、エントランスを走る。
つむぎは、まだ意識がなく、無菌室にいるとのことだった。
つか、またこの病院か。
九条が亡くなった病院。
本当になんなんだよ!
都内には幾らでも病院があるのに、なんでいつもここなんだよ。
クリーンルームの前につくと、カーテンが開いていて、室内の様子が見えた。
中の様子は外から見られるようになっているようになっており、つむぎの小さな身体に、様々な機器が取り付けられている。
その物々しい姿をみて、おれには絶望的な予感しかしなかった。
すでに、入口の辺りにはリンゴがいて、その肩をたたくと、俺は医師にくいかかった。
「つむぎは。うちの娘に何があったんですか?」
それによると、精密検査の結果はまだだが、つむぎは、医師の所見から急性骨髄性白血病が疑われるとのことだった。
医師が俺に尋ねた。
「娘さんが強い頭痛や貧血で気を失ったことはありませんでしたか? ここまで進行するには、それなりの兆候と期間があったと思いますが」
「元気な様子でしたが」
そういえば、少し前に貧血を起こしたことがあった。つむぎは「女の子の日なのじゃから、詮索するな」と笑ったが、そんな気軽なことではなかったじゃないか。
話を聞いていると、みやびが到着した。
すぐに担当医と掛け合ってくれた。
「わたしは、この子の母親です。医師です。現在の状況を教えてくれませんか」
専門用語が飛び交っている。
話がひと段落すると、みやびが状況を説明してくれた。
自分も泣きたいハズなのに、気丈な女性だ。
「急性骨髄性白血病だった場合、数日〜数週間で一気に進行してしまうこともある」
俺は話が全く頭に入ってこず、自分でもどんな顔をしているか分からないくらいだった。
みやびが俺の頬を叩いた。
「しっかりなさい!! 抗がん剤が効果を示さない場合、治る確率はかなり低いの」
「で、でも。骨髄移植とかあるんだろ?」
「骨髄……白血球の型が適合する確率は、兄弟で25%、親で3%程度」
「でも、もしかしたら。お前が適合するかもしれないじゃないか」
「わたしは、昔、大怪我をして輸血を受けたことがあってドナーにはなれないの」
「じゃあ、おれは? 血縁関係がない場合は?」
「数万人に1人って言われてるわ。バンクから
提供がないと、ほとんどありえない確率なのよ」
でも、つむぎは急性だろ?
順番を待てるとは思えない。
つむぎは?
このまま死んでしまうのか?
俺は、みやびの顔が滲んで見えなくなるのを感じた。りんごが手を握ってくれる。
みやびは、深呼吸をすると言葉を続けた。
「このまま目を覚さないということはないと思う。いずれにせよ、検査結果を見てからね。それに、責任を感じるべきは、貴方よりも、わたしよ。医師なのに、気づかなかった」
みやびも目に涙をいっぱい溜めている。
そうなのだ。辛いのは俺だけではない。
でも。
もし、俺が肉親だったら?
無精子なんかじゃなくて、兄妹をつくっていたら?
きっと、兄妹が何人かいたら、1人くらい白血球の型が適合したのではないか?
であれば、全部、全部。
俺のせいではないか。
視界が真っ暗になって、激しい吐き気を感じた。その真っ暗な視界の中を、お日様のように笑ったツムギが何度も現れては消えていく。




