切ないです
奈津子は、あの時のことを思い、涙がこぼれそうだった。亮も同じ思いなのか、目が潤んでいる。
「あの時、俺は決めたんだ。今、やっているラグビーを一生懸命やろうって。そして、やりきったらボクシングを始めようって。だから突然でもなかったんだよ」
「じゃあ、おばあちゃんの夢を……」
奈津子の目から、ひと粒の涙がこぼれ落ちた。手は胸の上を握りしめている。服の下の指輪の感触がしっかりと伝わってくる。
「今じゃ、俺の夢でもあるけどな」
亮は照れ臭かったのか、奈津子に背を向けた。
そんな背中に胸の中で声をかける。
ありがとう。亮がボクシングを始めてくれたおかげで、おじいちゃんも救われた。そして、今は……みんなの夢だよ。
と突然、ドタドタという音とともにドアが開き、段ボールを抱えた大きな体が入ってきた。
段ボールの上から楽し気な淳史の顔が覗いている。
その顔が不安げな表情に変わり、「どうした?」
涙ぐむ2人に、驚き、戸惑っているようだ。
奈津子は「ちょっと昔話をしただけよ」と軽い調子で言って微笑んだ。そして、続けて「ねぇ、この前、なんとなくトランペット始めたって言っていたけど、何でトランペットだったの?」と言葉をかけた。
「何でって、ばあちゃんに貰ったのがあったし、亮も頑張っているからそれで、なんとなく」
そう言うと淳史はゆっくり歩きだし、そして、視線を上げて止まった。
そこには笑顔いっぱいのばあちゃんの姿がある。
「いや、なんとなくじゃないな。2人とも覚えてるか? ばあちゃんがベッドの上で最後に夢を見ているように言った、俺たちのことを」
その言葉に、奈津子は亮と思わず顔を見合わせた。まさに、ついさっき自分たちが話していたことだ。
「あの時、ばあちゃん言っていたろう。俺の頑張っている姿が好きだって。それで、亮が頑張っている姿を見て思ったんだ。俺は何を頑張っているんだろう、って。ばあちゃんは俺と一緒の時、何が楽しくて、うれしかったんだろう、って。それでいつも浮かんでくるのは【卒業生を送る会】の時に見たばあちゃんの満面の笑顔だったんだよ。あれから、胸の奥底に、吹けなかった自分が引っかかっていたんだ。それでトランペットをもう一回やろう、って」
淳史は話したことが照れ臭かったのか、振り返ると段ボールを持ち上げるようにして、顔を隠して近づいていきた。
そして、それを押しつけるように「奈津子がデザインしたヤツを付けた、新しい〝ハッピ〟出来たから」と話題を変えた。
「ありがとう! 間に合ったんだ」
奈津子は段ボールを受け取って、下に置くと中を開け、新しい青いハッピを取り出し持ち上げた。
「これ、これ。さすが、おじさん。完璧」
ハッピの胸元にあるデザインを見て言った。そこには、奈津子デザインのワッペンが綺麗に縫い付けられている。
早速、青いハッピを着て「どーお、似合う?」とポーズを取った。
「バッチリだ」
淳史のうれしそうな声に亮もうなずいている。
「本当にありがとう」と言うと、「俺は手伝っただけで、親父が頑張ってくれたから」
淳史は遠慮がちに微笑んだ。
「ちょっと、おじいちゃんにも見せてくるね」
奈津子はジムの奥へと向かった。
2階に上がり、伝次郎の部屋の前で、ドアをノックした。
反応が返ってこないので、そっと開けると、部屋の中は電気が付いていて明るかった。でも、伝次郎は布団にもぐりこんでいる。
声をかけても、背を向けて横になったままだ。
奈津子は仕方なく電気を消して、ドアを閉めた。
何だか胸の中がゾワゾワする。気のせいかもしれないが、伝次郎は起きていて、慌てて布団にもぐりこんだ気がする。
部屋の空気が動いている、そんな雰囲気がしていた。
そんなことを思いながら階段を下りていると、声が聞えてきた。
「なぁ、亮。ばあちゃんが奈津子に最後に言ったこと覚えているだろ。いつまでも亮ちゃんと一緒に、って言葉。あれは、ばあちゃんが夢を見ていたんだよ。奈津子と亮が……」
奈津子の足はジムを前にして止まっていた。
「でも、奈津子のことは淳史が……」
「奈津子のことなら、とっくにあきらめてる。ボクシングをする亮をうれしそうに、楽しそうに応援しているのを見た時から。いや、そのずーっと前から奈津子の気持ちは分かっていたんだ」
淳史の声が大きくなってきている。
奈津子は身を隠すように、壁に体を寄せ、ジムへと視線を向けた。
「でも、今でも奈津子のこと……」
「亮! 俺はあきらめたんだ! もう奈津子が寂しそうに亮を見ているのが堪らないんだ。お前の気持ちがはっきりしないと、奈津子は先に進めない。奈津子の気持ちは分かっているんだろ?」
淳史が真剣な目で亮にせまっている。
亮の視線は躊躇いを表すように、下に落ちた。
奈津子は飛び出していって、話しを終わらせたかった。先を聞くのが恐かった。でも、体が動かない。
「分かっている」
亮がつぶやくように声を漏らした。そして、言葉は続いていく。
「でも、自分の気持ちが分からないんだ。はじめは大事な幼馴染でそれだけだった。淳史が好きなことも知っていたし、応援もしていた。だから、俺は他の人と付き合ったりもした。でも、ずっと気になっていた」
「亮! それは好きだってことだろ」
淳史の言葉に亮は顔を上げた。
「そうかもしれない。でもそれは大事な幼馴染に対する感情のようなものかもしれない。それにボクシングを始めてからは、チャンピオンになること目指して、がむしゃらにやってきて、そのことに目を向けてなかったから」
「それじゃー、奈津子が……」
淳史が言葉を噛みしめるようにしている。
「淳史。今度の試合が終わった時、俺の本当の気持ちが見えてくる気がするんだ。だからその時は……」
真剣な2人の目がぶつかり合っている。張り詰めた空気の中、無言の会話をするように、視線をぶつけ合っている。
胸が苦しい。見ていられなくなり、奈津子は視線をそらした。
どれくらい経っただろうか?
「分かった」と言う淳史の声が聞えてきた。
その声に引きつけられるように、目を向けると、淳史は納得したような微笑みを浮かべていた。
亮の顔にも、同じような表情が浮かび始めている。
淳史が突然、こちらに視線を向けてきた。
奈津子は慌てて身を引き、壁に張り付いた。
ジムの奥は暗がりになっているから、姿は見られていないと思うのだが……。
「奈津子、あれあったけ!」
淳史の大声が響き渡った。
奈津子は壁沿いを後ずさりし、もう一度と声が聞こえてくるのを待った。そして、淳史の呼ぶ声が聞こえてくると、深呼吸してから「あれってなーに?」と言いながら、ジムへと出て行った。
ジムの中にほんわかとした空気が流れている。
何を思ったか、淳史の突然の丸刈り宣言。
「俺も木下ジムの一員だ」
言っときますけど、うちのジムは坊主が決まりじゃないからね!
奈津子の言葉など聞き流して、亮は楽し気に、伝次郎愛用のバリカンを手にしている。そして――
「似合う、似合う」奈津子が笑いを堪えながら言うと、亮はバリカンを片手に「おぅ、うまくいった」と言った。
顔がピクピクと動いているのは、笑いを堪えているからだろう。
2人の目の前には丸椅子に腰掛ける淳史が座っている。その頭は一目瞭然のトラガリ頭――もう我慢出来ずについに吹き出した。
「奈津子! カ・ガ・ミ」
顔を真っ赤にして怒鳴る淳史の声が弾けた。
奈津子は、いつもの感じになっていることに、ほっとしていた。
せめて、試合が終わるまではこのままでいい。
このままが……いい。




