高校2年のことです~旅立ち
いつしか、窓の向こうが明るくなってきていた。
亮と淳史は、病院のロビーにある長椅子に座っていた。何も会話をせず、ただ座っていた。心の中で祈りながら。
今、自分たちには、それしか出来ない。
ふと、亮は淳史に声をかけた。「ちょっと、見に行ってみようか」
なぜ、そのタイミングで声をかけたかは、自分でも分からない。なぜ、今だったのか。
淳史がうなずき、2人で病室に向かった。
病室から出てきた伝次郎が、「ちょっと、顔を洗ってくる」と重い足取りですれ違っていく。
病室に入っていくと、ベッドの横に奈津子の姿がある。両手を組んで、目を閉じている。きっと、祈り続けているのだろう。
亮は何も言わぬまま奈津子の横に立った。そして、淳史も挟むように奈津子の横に立った。
ばあちゃんがたくさんの計器に囲まれている。酸素マスクに顔を覆われたまま、目を閉じ続けている。
亮は心の中で何度も呼びかけた。
ばあちゃん。ばちゃん。
きっと、奈津子も淳史も同じ思いだろう。
無言のまま、3人で祈り続けていた。
突然、淳史が顔を亮に向けてきた。
亮も淳史に顔を向けていた。無言のまま、何かを問いかけてくる。きっと淳史も同じものを見たのだ。
奈津子は同じ姿で祈りつづけている。
亮は自分が目にしたものを確認するように、淳史に向かってうなずいて見せると、数度のうなずきとともに、「ばあちゃんの瞼、動いたよな」
淳史の声に奈津子の頭が動いた。
「うそ……」
淳史へと一瞬向かった視線が、ベッドへと向かった。
亮の視線も瞼へと向かう。
目がはっきりと開いたわけではないが、確かに瞼が震えるように動いた気がした。いや、うっすらとではあるが、開いたはずだ。
その時、淳史の声が、「ばあちゃんの口、動いていないか?」
亮は身を乗りだした。淡いグリーンの楕円に膨らんだマスクで、よく見ることが出来ない。でも、なんとなく……。
奈津子の腰も浮いている。ばあちゃんの目と鼻の先まで顔を寄せている。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
必死に呼びかけに応えるように、マスクの下で確かに動いている。いや、震えているといった感じで、微かに揺れている。
亮はベッドの後ろを回り込むようにして、枕元にあるナースコールを手にし、何度も押し続けた。
亮の向かいで呼びかけ続ける奈津子と淳史の後ろには、いつのまにか伝次郎が立っていた。茫然としたまま、ばあちゃんを見つめている。
すぐに看護師が駆け込んで来た。そして、声をかけ続ける奈津子にかわって、淳史が状況を伝えると、様子を確認して、飛び出して行った。
「ばあちゃん、何かを言おうとしているんだよ」
亮が言うと、奈津子はうなずき、マスクを少しずらした。すると、目を開くようにうっすらと口が開いた。
「おばあ――」
声を上げた奈津子の口が、淳史の手でふさがれた。
淳史は、もう一方の手の人差し指を立て、自分の口にあてると、ばあちゃんの口元に顔を近づけた。
亮も同じように顔を近づけ、奈津子も続いた。
微かではあるが、音が漏れ聞こえてくる。
「りょ……う……ちゃん、あり……がとう」
だんだんと声になり、言葉になっていく。
「ボクシング始めてくれて。がんばったね。おめでとう〝チャンピオン〟」
か細く、儚げな声ではあるが、いつものばあちゃんの優しい声。目を瞑り、無表情のままだけど、笑顔が浮かんで見える。
「あっくん、ありがとう。いつもみんなを笑顔にしてくれて。あっくんといると、ばあちゃんは楽しくて、うれしくて。ばあちゃんは頑張るあっくんが大好きよ」
淳史の両目から大粒の涙がこぼれている。
「おめでとう、なっちゃん。いつまでも――」
言葉を聞いた奈津子の目からも、とめどなく涙が溢れ出していた。
そんな姿が、亮の目には霞んで、ぼやけて見えていた。
ばあちゃんは朦朧とする意識の中で夢を見ているようで、数年後の3人に語りかけているようだった。
そして、うっすらと目を開け「伝次郎さん」呼びかけるような声を上げた。伝次郎が2人の間から、ばあちゃんに顔を寄せた。
それを待っていたかのように、ばあちゃんはひと言「ありがとう」と言って、今度は本当に微笑んだ。
伝次郎が「タエ」と言いながら、ばあちゃんの手を握った。
それが最後だった。
医者が来た時にはまた意識がなく、2日後にばあちゃんは旅立っていった。
それから奈津子の首にはいつもネックレスがある。ネックレスの先には、何の装飾もないシンプルな指輪がある。
伝次郎のばあちゃんへの思いであり、ばあちゃんが一番大事にし、いつも身につけていたものである。
シンプルではあるが〝最高の指輪〟が奈津子を見守っている。




