イノシシフラッシュは絶好調です
淳史が奈津子から聞いた話だと、伝次郎が酔っぱらっていた時、亮をボクシングに誘ったのは、あの試合を見たからだと漏らしたそうだ。
翌日に改めて聞くと、(誘ったのは)何となくだ、と言われたそうだが、あの日以来、あきらかに変わった伝次郎を見れば、淳史でも分かることだった。
「亮はまだまだ強くなるよ」
リング上を見つめる伝次郎の独り言のようなつぶやきが聞こえてくる。
奈津子の「ラスト30!」の声に、ヤマさんの「ラストだ。行け!」の声が続いた。
その声に反応し、亮のギヤが一段上がった。強烈な左右の連打で前へと突進していく。相手も仮想竹山和人として選んでいる。素早いフットワークで距離をとっている。
ロープ際まで追い込んでも、サイドステップでかわして、リングを回るように足を使っている。
「ラスト10」
奈津子の声と同時に、亮の全身に力がみなぎったように見えた。
まだ、ギヤがあるのか。
淳史がそう思った瞬間、亮が大きく足を踏み込んだ。
相手の腰がガクッと沈み、よろけるように後ろへと体が流れた。
亮は、さらに左腕を振りかぶった。その瞬間、ゴングが鳴り、木槌を持つ奈津子から「時間です」の声が飛んだ。
亮が振り上げたグローブを下ろしている。
「よーし、今日はここまでだ! お疲れ」
伝次郎の大声が響いた。その声を聞いて、伝次郎の隣にいた靴屋の老店主が向きを変えた。
「そうか まだまだ強くなるか。楽しみだな」
淳史の横を通り過ぎる時、老店主はそんな言葉を発しながら、うれしそうに去っていた。
コーナーポストで息を整えている亮は、ヤマさんにグローブとマウスピースをはずしてもらっている。
淳史は激励のひと言でもかけてから帰ろうと、リングサイドに近づいていった。
亮は淳史に気付いたのか、ヘッドギアーをはずしながら、奥のコーナーからリング上を近づいてきた。でも、ちょっと待っていてくれ、といった感じで、軽く手をあげると、手前のコーナーで同じようにグローブとマウスピースをはずしてもらっているスパーリング相手に近づいていった。
淳史は何となくその姿を目で追い、耳も傾いていた。
「ありがとうございました」
亮が相手とそのトレーナーに頭を下げた。
「いやあ、さすがに凄いパンチと突進力だね」
相手選手が汗を拭いながら笑顔で言うと、横のトレーナーも笑顔で、
「本当。あの突進力はイノシシだね。最後の踏み込みなんて、瞬間移動したかと思ったよ。そこからの右のショートフックはまさに必殺〝イノシシフラッシュ〟だね」
「イノシシフラッシュ?」
「そう。今日はうちの永井が必殺イノシシフラッシュを決めさせていただくんで、よろしくお願いします、って。ほら、あそこのお嬢さんが練習前に楽しそうな顔で、右フックを出しながら言うから思わず吹き出しちゃったよ」
トレーナーが顔を向けた先に、淳史も顔も向けると、そこには後片付けをしている奈津子の姿がある。
思わず顔がにやけてくる。ネーミングが奈津子らしい。
確か、夏祭りのヒーローショーでも、へんてこな必殺技を叫んでいた。そうそう、必殺くまさーんヘッド。
まあ、ネーミングについては、置いとくとして、さっきの亮のパンチは本当に凄かった。
素人に毛がはえた程度の淳史だが、一瞬で間合いをつめて放たれたフックは衝撃だった。横殴りのパンチは、鎌で刈るようにあごを捉えていた。
パンチと踏み込みの速さは閃光――まさにフラッシュだ。ヘッドギヤーがなかったら、間違いなくダウンしていただろう。
「すいません。あいつがくだらない事を」
淳史が向き直ると、亮が苦笑いを浮かべて、そんなことを言っている。
その時、ガハハッと、決して上品とは言えない笑い声が聞こえてきた。
「こりゃいいや。イノシシフラッシュか」
リング下で、食い入るように見ていた男。30代後半くらいの彼は、小柄だが、がたいはしっかりしている。
スパーリングの途中から、ジムにやってきた淳史には、誰だか分からなかったが、亮に向かって、「あのパンチ、最高だったよ」と気軽な感じで声をかけている。
それに対し亮は、恐縮した様子で、「ありがとうございます」と頭を下げている。
男は相手選手やトレーナーにも声をかけ、その後、伝次郎のほうに近寄っていった。思わず、聞き耳を立ててしまう。
「今日はいいもの見せていただきました。ありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ。浦田さんが、わざわざ見に来ていただいて、うちの永井も気合いが入りました」
珍しく伝次郎が遠慮がちである。
誰なんだ、この人? 浦田……?――淳史は、ちらりと振り返り、その顔を確認した。
どこかで(名前を)聞いたような……(顔を)見たことあるような……いまいち、ピンとこない。
「じゃあ、すいませんが、これで失礼させていただきます」
そう言って歩き出した男に、お見送りするように、後に続いている。
そして、ドアの手前で、「永井君。楽しみにしてるぞ」と声をかけ、伝次郎とともに、ドアの向こうに消えていった。
いったい、誰なんだ。思えば、淳史以外は、いやに緊張感があった。スパーリングの最中や、その直後は存在を忘れているかのように、みんな夢中になっていたが、あの笑い声で、そうだという感じで、空気が変わっていた。
リング上も、今はほっとした雰囲気で、話し始めている。
「それにしても、あの子は」
トレーナーの視線の先を追うと、奈津子の姿がある。
「本気で君のことを応援しているんだな。ほら、真剣な顔をしてお前に」
トレーナーが相手選手に目を向けた。相手選手は軽くうなずくと亮を見つめ、
「言っていたよ。俺の目を真っ直ぐ見て本気で相手をしてやってくださいって。それで深々と頭を下げていたよ。なんだか凄く気持ちが伝わってきたよ。だから、永井君。今度の試合勝て! 俺らも応援しているよ」
「はい! ありがとうございます」
亮は力の入った返事をしている。
淳史はその気持ちの入った返事を聞いて、あえていうことなど何もないと感じた。だから、いつものように「じゃなぁ!」と大声で言い、その場を後にした。




