幼稚園児だって男なんです
試合が1週間後に迫り、ジム内は益々活気づいている。張り詰めた空気の中、激しい声が飛び、切れのいいミット音が響いている。
亮は通気性の悪いスポーツウェアを着こんで、ヤマさんのミットめがけて、パンチを叩きこんでいた。
連日の絞り込みで、さすがに出る汗は減ってきている。もともと減量には、それほど苦労するタイプではないが、さすがに絞り切られた体からは、あと500gであってもなかなか落ちない。
「よーし、今日はここまで」
伝次郎の声とともに激も音も止み、ジム内にホッとした空気が広がった。
亮はタオルで汗を拭いながら、黙って練習を見つめていた子供たちと美貴へと近づいていった。
毎週末ジムに通い、はしゃぎあっているユイと拓也だが、試合が決まってからは張り詰めたジムの空気を感じ、練習中は黙って食い入るように見ているようになっていた。
そんな2人も練習が終わったと同時に動き出した。
ユイが「タッくん、パンチパンチしよう」と言い、サンドバッグのほうへ駆け出していき、拓也が嬉しそうに後を追いかけていった。
駈け出す2人を微笑みながら見送った亮は美貴に、「美貴さん、今日も送りますから」と声をかけた。
美貴も毎週末、拓也の付き添いをするうちに、すっかりジムになじんでいる。また、ちょくちょく顔を出してくれる商店街の人たちとも、楽し気に話しをかわしていた。
いつしかみんなの呼び方も〝植村さん〟から〝美貴さん〟に変わっていた。
「いつも悪いわね、亮くん。練習で疲れているのに……」
「悪くなんて、全然。むしろ好きでやっているんですから。ほら、美貴さんやタッくんと歩きながら話していると楽しいし、いい気分転換になるんですよ」
「それならよかった」
美貴は亮へと顔を向けて微笑んだ。
「キャー!」
突然、ユイの甲高い悲鳴が響き渡った。
「どうした?」
亮が声を張り上げると、ユイは棚にある2人専用のかわいいグローブの上を指差し、「クモ……クモがいる」と涙声で言った。
いつもは拓也の前を立ち進んで何でもするユイが、この時は小さな拓也の後ろで縮こまっている。
「タックくん! ユイちゃん、クモがダメだからどかしてあげて」
亮が声をかけたが、拓也はクモを見つめ固まっている。
「タッくんも虫だめなの」美貴は苦笑いしながら言うと、2人の元に――亮は美貴の腕を掴んだ。
美貴が振り向き、視線を向けてくると、前を見つめたまま、首を横に振った。
亮の視線の先には、目に涙を浮かべながらも歯をくいしばり、一歩前へと進みでる拓也の横顔がある。
拓也はグローブを掴もうと手を出すが、直前で止まり、なかなか掴むことが出来ないでいる。
美貴が再び歩きだそうとするが、亮は腕を放さなかった。美貴は一瞬、振り返ったが、黙って視線を戻した。
後片付けをしていた奈津子も、ひと息ついていたはずのヤマさんも、ジムの奥へと行こうとしていた伝次郎も動きを止めている。
息をつめながら見守っているのか、物音ひとつ聞えてこない。
恐怖と緊張からか、体を強張らせている拓也が、必死に腕を伸ばしている。
もう少しだ!――亮は胸の中で叫んだ。
拓也の腕がいっぱいに伸び、そして、グローブを掴み上げた。少し震えて見えるその手をユイから遠ざけ、上から下へと振り下ろした。
床に落ちた黒く小さな物体が、サササッと逃げていく。
クモにとったら、その方向が悪かった。
ヤマさんが、素早い足さばきで踏みつぶした。
「ユイちゃん、大丈夫?」
ユイに向けた拓也の顔は、涙で目を潤ませながらも誇らしい〝男〟の顔になっている。
「ありがとう」
笑顔でお礼を言うユイに、拓也はうなずきで応えた。
その顔はいつもの笑顔に変わっていた。それを見たみんながほほを緩めて動き出している。
「タッくん、すごいじゃないか」
亮が声をかけると、
「だって、あっくんがいってたもん。おんなのこは〝やさしく〟まもってあげなくちゃだめだって」
拓也が胸を張っている。
「あの子……あんなに成長しているんだ。親子2人だからどうしても甘やかしちゃって、すぐに何でもしてあげちゃってた。本当に甘えん坊で……でも、ちゃんと成長している。強くて優しい子になってる」
涙で少しにじんだ目で見つめながら、美貴が言葉をもらしている。
そして、亮へと顔を向け、
「本当はボクシングって恐いし、危ないし、見るだけならいいけど、あの子がジムに行きたいって言った時には心配で、内心不安でいっぱいだったの。でも、よかった。みなさんのおかげです。本当にありがとう」
「やめてください。俺たちのほうこそ、美貴さんとタッくんが来てくれて楽しいんです」
もっと言いたいこともあったが、何だか恥ずかしくなってきてしまった。
だから、亮は「着替えてきますんで」と言いながら、奥へと向かおうとした。
その時、背後から聞こえてきた言葉が、胸を打った。
「私も、あなたにワクワクさせてもらっています」




