Chapter4:ぼくらはころしや⑧
暗闇の中に一瞬だけ光を反射して何か細長いものが線を描いた。直後、長谷田を振り返っていた視界が真っ白に染まる。長谷田を襲撃した何者かが懐中電灯を点けたのだ。
光の向こうに立っていたのは、無口で牛乳瓶底の眼鏡を掛けた緑川だ。僕に配慮してか彼は懐中電灯をすぐに下げてくれた。懐中電灯の光は、今度は地面にうずくまる長谷田の後頭部を照らし出す。
「なにやってんだ? こんなところで」
愛想が悪く根暗で店にいるのだかいないのだかわからない緑川は、いつもの姿からは想像も付かない恰好をしていた。黒いジャージにパーカーを羽織り、フードを目深に被っている。そして手には刃渡り一五センチはあろうかというナイフを握っていた。
「誰だ」
横島の太い声が突然の襲撃者を呼ぶ。
緑川は動揺もなく、言葉も返さず、しかしこれが答えだと言うようにナイフをくるりと指の中で回転させた。うずくまる長谷田に馬乗りになり、顎を支えて上を向けさせる。丁度喉が丸見えとなった状態だ。そこへ手持ちのナイフをあてがい、段ボールの封を開けるような手際で長谷田の首を捌いた。まるで先ほどの僕の嘔吐のように、長谷田の首はありったけの血を地面に吐き出した。どんぶりに溜めたくなるくらい恐ろしい量の出血で、懐中電灯で少し明るくなった地面がみるみるうちに赤黒くなっていく。再び長谷田の方に目を向けたときには恐らくもう絶命していた。
相手に抵抗の暇さえ与えない鮮やかな技だった。
「動くな!」
長谷田は手遅れであったが、これ以上の危険を回避するために横島は声を張り上げる。
座り込んだ僕の頭上にサーチライトのように懐中電灯の光が線を引く。まだ何が起きているのかを理解していない頭で見上げた緑川の姿は異様に大きく見えた。瓶底眼鏡が光を反射して夜に光る。その奥の目がいつものように濁っているのか、あるいは黒川と同じ種類の煌めきをたたえているのかはわからなかった。
「お前、何者だ。ここで何をしている」
映画などで良く聞く問いかけだ。振り返ると、懐中電灯と拳銃を構え横た島が緑川を睨んでいる。軽く前傾姿勢を取り、いつでも発砲できる構えだ。
睨み合いが数秒ほど続き、不意に緑川が笑った。彼と知り合って以来初めて見る感情の変化だった。唇を薄く広げた不気味な笑みを浮かべ、緑川は言葉なく懐中電灯を切った。辺りがわずかに暗さを増す。しかし依然として横島の懐中電灯に照らされているはずなのに、緑川の姿はまるで闇に染み込むかのようにして見えなくなった。
「どこだ、出てこい!」
獲物を見失った光がその姿を求めて闇を切って掻き分ける。同時に横島はあらゆる方向へ拳銃を向け、いつ自分に向かってくるとも知れない襲撃者を必死で狙った。
人の動く音はなく、横島の荒い息づかいと黒川の呑気な口笛、そして恐怖醒めやらぬ中に生まれた興奮がもたらす僕の鼓動だけだった。
ふと一瞬、黒一色に塗りつぶされた空間に、鈍色の光がチラリと舞った。そして次の瞬間には黒川の隣に立っていた男の一人が呻き声を上げて座り込む。何が起こったのかはわからない。恐らくは体のどこかにナイフが突き立てられたのだろう。
「長谷部!」
横島が叫んだのは倒れた方ではなく、まだ無事な方の名だったようだ。長谷部と呼ばれた一人は黒川に向けていた拳銃を外し、仲間を襲った緑川の姿を探した。
しかし黒川から意識を逸らしたのが徒となる。彼も幾度となく修羅場をくぐり生死の境を渡り歩いてきた殺し屋だ。一瞬の隙を逃すわけがない。
長谷部に飛びつくと、拳銃を持っていた手首を返して投げる。布を翻すように簡単
に彼の身体は宙に浮かび、地面へと転がされた。
「ざんねんでした」
黒川は投げる過程で奪い取った拳銃を長谷部の頭へと向けた。地面に仰向けになりどうしようもなくなった彼はゆっくりと両手を上げた。
僅かに遅れて黒川の行動に気がついた横島は拳銃と懐中電灯とを慌ててそちらへ向けた。
しかし音もなく彼の背後に緑川が忍び寄り、流れるような動作で手にしていたものを地面へと落とした。まるで影のように横島の背後にくっついた彼はナイフをその丸太のごとき太首へと突き付けた。
「お前ら……」
横島の歯ぎしりが鉄鋸をすり合わせるように聞こえる。
「あ、緑川君まだ殺しちゃダメだよ。彼とはもう少し楽しみたいと思ってるんだから」
「楽しみたい、だと?」
「そうだよ。楽しくやりたい」
地面の長谷部から目と銃口を逸らさずに黒川は言った。懐中電灯がそこかしこに転がってしまい辺りが再び暗くなったので、僕は自らの持っていたもののスイッチを入れた。弱々しい安物のライトに照らされた黒川の顔はこれまで見たこともないほどに恍惚とした笑みを浮かべている。
鳥肌が二の腕辺りに沸き立ち、背中を冷気が流れていったのは決して寒さのせいではない。
「っと。その前に長谷部くんだっけ? 君を何とかしないと」
黒川は喜々とした表情でしゃがみ込み、銃口を長谷川の喉へ押し込んだ。
「動かないでね。うっかり引き金引かれたら困るでしょ?」
むせ返った長谷部に、黒川は冷徹なのか温和なのかわからない口調で注意した。
長谷部もまた、先ほど僕を抑え込んでいた長谷田と変わらない屈強な男だったが、今は構内に銃口をねじ込まれ見る影もない。普段なら獰猛な肉食獣と言ったところだろうが、今は小型犬が関の山だ。
「死にたくない?」
黒川は問いかけた。
長谷部は言葉にならない声で頻りに叫んだ。恐らくは黒川の問いかけを肯定しているのだろう。
「何言ってるか分からないよー」
地面の砂利を手で掬い、彼は長谷部の口へ流し込む。途端にむせ返るが、黒川は意に介さない。
「さあ答えよう! 死にたくない? このまま口の中に銃弾を撃ち込まれるのが怖い?」
口に砂利と銃口を押し込まれ、長谷部の声は単なる雑音としてしか聞き取れなかった。
「もーちゃんと喋ってよ」
無理とわかっていながら、容赦なく楽しそうに黒川は彼の口へ砂利を流し込んだ。
長谷部は言葉で返すのを諦め、口の端から砂利を溢しながら小さく何度も首を縦に振った。
「そっか。怖いのか。だよね。僕もさっき銃を向けられたときは凄く怖かった」
僕には黒川の言葉が嘘とは思えなかったが、本気とも思えなかった。つい数分前まで三つの銃口に狙われていた黒川が抱いていたのは、決して恐怖という感情ではない。
「ところで長谷部くん。君、小説は読むかい?」
小さく頷きが返ってきた。黒川は満足したように頷き返すと、続けて訊ねた。
「チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズは知ってる?」
長谷部は首を振った。
「そうか。それは残念だね。読んだ方が良いよ」
落胆とともに一層深く拳銃を押し込むと、長谷部は激しくえづいた。
「ドンシューイットアットピープル。アンレスユーゲットアットアベターショット」
中学生よりも酷い発音で黒川は唐突に英語を口にする。
「マーロウシリーズの第一作目で彼はこう言ったんだよ。『撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ』って」
その言葉を聞いた長谷部の顔がみるみるうちに引きつっていくのがはっきりとわかった。そして対照的に黒川の顔は玩具で遊ぶ子どものように無邪気な笑みを浮かべた。
引き金を引く音は、闇夜の静けさにあって明確に僕の耳へ届いた。銃声はハッキリとした遅れをもって空に響く。懐中電灯の先で砂利が爆ぜ、真っ赤な血が地面へ放射状に散った。だくだくと血は砂利を染め上げ、引ん剥かれた眼球は怒りとも恐怖とも懇願ともとれる感情を黒川に向けていた。彼はそこに目を合わせようとはせず、ただ恍惚とした表情でくゆる硝煙の流れに魅入っていた。




