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最終話 「診察記録」

 その日の夜。

 診察時間が過ぎて、佐々木病院の待合室には誰もいなくなった。看護婦たちも帰宅して、病院内は静まり返っている。


 佐々木は全ての診察を終え、明と話をしていた資料室で、今日の出来事をいつものようにノートに書き付けていた。佐々木は脳内整形を始めるようになってから、このノートに、手術で気が付いたことや、反省点などを書くことを習慣にしている。五年間でノートは何十冊にもなった。これは佐々木にとっての宝のようなものだ。


 そして佐々木は、先ほどの斉藤明のことについてペンを動かしていた。ノートには次のようなことを書いていた。



 ‥‥全く昨日の脳内整形手術では、とんだミスをしたものだ。斉藤明に施した脳内整形は完璧だと思っていたのだが。


 斉藤明に行った手術のミスの原因はわかっている。


 昨日、交通事故で脳内出血により死亡した遥という女性の傷跡を考慮に入れなかったことだ。


 まあ、彼女はこの病院に運ばれなかったのだから、仕方ないといえばそれまでのことだ。実際に、交通事故にあった遥の手術をしたのは、佐々木病院ではなく、全く別の病院だったのだから。私は遥の顔さえも見た事はない。それがミスの原因だ。とにかく、今回のことは、今後の脳内手術の注意点とすべきだろう。


 斉藤明は昨日の夜、佐々木病院に駆け込んできて脳内手術を希望した。どうやら、別の病院で遥の死体を見て、その病院からそのまま大急ぎで来たらしい。彼は心神喪失状態で、遥を失った悲しみでぼろぼろになっていた。彼は以前、知り合いから当院の特殊整形のことを耳にしていたそうだ。それを思い出して、彼は佐々木病院へやってきた。彼は泣きながら訴えた。彼女がいなければもう生きていけない。なんとかして、彼女をもう一度甦らせてくれ、と。


 彼が希望した脳内整形のポイントは三つ。

 1.当院で手術を受けた記憶、また当院について事前に知っていた記憶を全て抹消すること。

 2.遥が交通事故で死亡したという記憶を全て抹消すること。

 3.今も遥が生きていると思えるように、斉藤明にしか見えない遥の幻影を作り出すこと。


 手術自体は成功だった。斉藤明が当院の病室で意識を取り戻したとき、彼は手術を受けた記憶を一切失って、私の顔さえも覚えていなかった。そして病室で、私は聞いてみた。「遥さんの調子はどうですか?」と。すると、彼は誰も寝ていない空のベットのほうを見て、

「どうやらひどいショックを受けてしまったようで‥‥」と言った。

 私には何も見えなかったが、彼だけには遥の幻影を見えていたようだ。


 だが、ミスはあった。

 明は突然、遥の額の傷が、と言い出した。初めは意味がわからなかったが、しばらく考えてようやく思いついた。斉藤明が手術を希望してやってきたとき、泣きながら話していた内容を思い出したのだ。脳内手術を施す前に、明はこんなことを言っていた。


 ちょっと見ただけでは、遥が死んでいるなんて信じられなかった。額の大きな傷以外に外傷は全く無かった、と。


 それで私は気がついた。

 彼が今、目にしている遥の幻影の姿は、最後に遥を見た姿であるということに。つまり交通事故にあって霊安室に横たわっていた遥の姿だ。その遥の死体には、バイクに轢かれたときについてしまった額の傷があったに違いない。遥の脳に致命傷を与えた額の傷が。つまり、その額に傷の付いた遥の死体と同じ姿の幻影が、明には見えているという事になる。それに加えて、明の記憶の表面からは脳内手術によって消えてしまってはいるが、潜在意識に刻まれた遥の死というマイナス要素が、額の傷を負って悲しんでいる遥という幻影を作り出してしまったのだ。


 全く脳の働きというものは面白い。


 そこで、今日私は、脳内整形の素晴らしさを改めて彼に説き、今度は額に傷のない遥の幻影を作り出すために、なんとか彼にもう一度、脳内整形を受けさせようと試みた。

下手にショックを与えないために、今見えている遥はただの幻影であるという事を教えないように気をつけながら。だが、説得は失敗に終わった。どうやら彼の怒りの琴線に触れてしまったらしい。

 明は診察室を飛び出して、誰もいないベッドから遥の幻影を連れ出して、病院を駆け出していってしまった‥‥



 

 そこまでノートに書いて、佐々木は顔を上げた。


 そもそも、明は遥の幻影などではなく、遥の存在自体を忘れるように手術したほうが良かったのだ、と佐々木は思った。明に手術を受ける前に何度もそうすることを勧めたが、彼は聞く耳を持たなかった。遥のことを忘れたくはないと言い張った。愛というものはもう佐々木には理解できないものになっているので、当然彼の気持ちも理解できなかった。

 あるいは、記憶は保ちながらも、感情を失くしてしまえば良かったのかもしれない。


 佐々木の隣では映写機が回っている。そして、壁には今日、斉藤明に見せた、人参を食べる少年が映っている。それを見ながら、珍しく佐々木は昔のことを思い出した。


 この人参を食べる少年を脳内整形したのはもう五年も前のことだ。彼は脳内整形の第一番目の被験者だった。そして、これまでの脳内整形のキャリアの中で、唯一の大失敗であった。

 それまで猿などを使って脳内整形の実験を繰り返してはきたが、どうしても人間の脳を使ってみなければ脳内整形の正しい効果はわからなかった。

 そこで、この少年を選んだ。他に脳内手術を行うことのできる被験者はいなかった。手術後、彼は人参嫌いがなくなり、人参が大好きになった。手術は成功だと思った。


 だが、異変はすぐに現れた。手術の際に神経細胞を深くえぐりすぎてしまったのだろう。彼は、人参しか受け付けない体になってしまったのだ。人参以外の食品を食べさせようとしても見向きもしない。無理やり食べさせようとしても吐き出す。水分さえもとらない。人参しか食べようとしないので、当然少年は衰弱していき、最後には餓死してしまった。


 本当にひどい失敗だった。佐々木は自分が心底恐ろしくなった。自分は神に逆らうとんでもないことをしてしまったのではないかと。一日中泣き伏した。もう気も狂わんばかりだった。


 当然といえば当然だ。人参を食べていたあの少年は、佐々木の実の息子だったのだから。息子の死後、佐々木は苦しんだ。もう気も狂いそうだった。当時、佐々木は研究に没頭しすぎて、妻に愛想を付かされ、彼女は別の男と逃げてしまっていた。息子は母親から置いてきぼりをくらってしまっていた。そんなことも知らずに、母親はいつか帰ってくるものと信じて、無邪気な顔で佐々木になついていた息子を実験材料にしてしまったことを、後悔し続けた。


 そして、息子の死から一週間がたち、この苦しみから逃れることのできる唯一の方法があることに気が付いた。


 佐々木は頭頂部をなでてみた。わずかに五年前の手術痕が残っているのがわかる。


 そう、自分で自分の脳を整形したのだ。息子を失った悲しみと罪悪感から逃れるために。手術は局部麻酔を使い、鏡を見ながら行った。特に問題はなかった。手術後、意識がはっきりし始めると、あれほど心にのしかかっていた悲しみを、まったくといっていいほど感じていないことに気が付いた。完全に爽快な気分。息子の死も、これから多くの人々が救われることを考えれば、大事の前の小事と割り切れるようになった。

 今では、たくさんの患者達が脳内整形を受けることを希望している。佐々木はこの世の悲しみ、苦しみ、コンプレックスを解放することができるのだ。悩みを抱えている全ての人達の救世主となったのだ。

 

 佐々木は脳内整形について研究していた頃から、ずっとそうなることを望んできた。だが、もうそんなことはどうでもいいことだ。佐々木は、もう苦しむことも喜ぶことさえもなくなってしまったのだから。

 

 佐々木はもう一度、映写機から映し出されている映像を見た。なおも彼の息子は人参を食べ続けている。見ていても何の感情も湧いてはこない。彼は自分が殺したようなものなのに。

 資料室に置かれている鏡を見た。そこには、何の意味もない微笑をたたえた佐々木が映っている。

 まるで生気を感じない。

 この鏡に映っている男は本当に生きているのだろうか?佐々木は疑わしくなった。試しに昔、息子の死で苦しんだときの自分の泣き顔をまねしてみた。


 だが、佐々木にはできの悪い人形のような表情しか、作ることができなかった。




 


このお話はこれでおしまいです。よろしければ感想評価などよろしくお願いいたします。

最終話を読んだら、改めて第1話を読み返してみてください。本来第1話はエピローグ的な位置づけになっています。そして、読んでいただければ、第1話の最後の一文の意味が分かっていただけると思います。


最後まで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!

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