第3話 「事故」
それからの毎日は明にとって本当に充実したものだった。
遥の誕生日のために、遥が喜ぶ姿を想像しながらプレゼントを選ぶときの楽しさ。
恋愛の駆け引きなど関係なく、自分の思ったことを素直に語り合うことのできる喜び。
初めて遥を家によんだ夜には、体だけでなく心が繋がるという感覚を初めて味わった。
好きな人がいるというだけでこんなに世界が変わるものなのか、と明は驚いた。なんだか他の人にもこの幸せな気分を分けてあげたくなる。明は昔の恋愛に関して自分勝手だった自分を恥じるようになった。そして、遥に出会えたことに感謝した。
初めのうちは明はこの気持ちもいつか冷めていくのではないかと思っていたが、その後も遥と出会ったときの新鮮な気持ちを失うことは全くなかった。もう最近では、彼女と結婚しようと思い始めていた。間違いなく彼女となら幸せな家庭が築ける。明はそう確信している。
‥‥そんな昔のことを思い出しながら、帰宅の準備の手が止まっていることに気づき、明ははっとした。時計を見るともう九時近い。遥もすっかりお腹をすかせているに違いない。もしかしたら機嫌を損ねているかもしれないぞ。感傷に浸っている場合じゃないな。明は改めて書類の整理を始めた。
しかし、今日の夕飯は一体なんだろう。お世辞にもおいしいとはいえない遥の料理の出来を明はいつも冷やかしているが、実は回を重ねるごとにちょっとずつおいしくなっていることに気が付いていた。どうやら密かに料理を勉強しているようだ。俺なんかのために料理を練習してくれている。味うんぬんよりも、明にはそのことがなによりも嬉しかった。
明は遥が料理に悪戦苦闘している姿を想像して、一人にやけそうになる表情をこらえた。
そして、明が帰り支度を終えて席を立とうとした、そのときだった。
突然、明の携帯電話が鳴った。
遥が待ちくたびれて電話してきたのかと思ったが、その番号は登録されているものではなく、見覚えのない番号からかかってきたものだった。
一体誰からだろう?
遥を待たせているし、英会話スクールとかの勧誘の電話だったりしたら面倒だから出ないでおこうか。明はそうも思ったが、十回以上もコールし続けてもなお鳴りつづけているので、仕方なく電話に出ることにした。
「はい、もしもし。」
遥が家で待っているという幸せな想像は、その電話によって壊されることになった。
それは、遥が交通事故にあったという病院からの連絡だった。
遥が事故にあったのは近所のスーパーで買い物をした帰り道だった。
スーパーで買った夕飯の具材をビニール袋に一杯に詰めて、遥は明の家に向かっていた。
遥はその日の夕飯の献立はカレーライスにする予定だった。
時間も遅くなり始めていたので、会社から帰ってきた明を待たせないように、急ぎ足で明のアパートに向かっていた。まだ夕方なので普通の人ならまだ余裕な時間だろうが、遥は料理が下手なので普通の人の倍は時間がかかってしまうからだ。
今日はうまく作れるかな。この間作ったコロッケはちょっと焦げすぎちゃったし。
明は笑いながら、「なんだよこれー。こんな色のコロッケ見たことないよ。ほんとにこれ食べれるの?」などと言っていたが、その大盛りのコロッケを残さず食べてくれる明の優しさを私はよく知ってる。
でも、「おいしい」って明に言ってもらえるようになりたいな。そのためには頑張らなくっちゃ。
遥がそんな決意を固めながら、横断歩道を渡っていたときだった。猛スピードでバイクが遥のほうに突っ込んできたのだ。信号は青だったにもかかわらず。バイクの運転手はあわててブレーキをかける。
「あっ!」
遥はバイクが迫っていることに気が付き、叫び声をあげた。耳をつんざくようなブレーキ音が辺りに響く。遥が手に提げていたビニール袋が宙に舞い、ジャガイモや玉ねぎなどが辺り一面に散らばった。間一髪で、遥はバイクとの正面衝突は避けることができた。
しかし、遥はバイクのミラーの辺りに右肩を当ててしまい、その衝撃で激しく転倒した。その際に、額部分を思いっきり地面のアスファルトに打ちつけてしまった。
「う‥うう‥‥」
遥はうめき声を漏らす。頭が割れそうに痛い。まともに声も出せない。
遥をはねてしまった運転手は、バイクにまたがったまま、倒れている遥の姿を呆然と見つめ、ただ立ち尽くしていた。気が動転しているためか呼吸もままならないようで、激しく肩を上下させていた。
その時、彼の心の中では天使と悪魔が激しく戦っていた。
『何をしている。早く病院に通報するんだ。』と天使は必死に訴える。悪魔は『早く逃げてしまえ。ばれやしないさ。』と囁いてくる。運転手の心は良心と保身の間で揺れ動いていたが、数秒後、とうとう彼の心の中では悪魔が勝ってしまったようだった。そして、運転手は「俺のせいじゃない‥‥」と呟いて、倒れている遥を一瞥し、走り去っていった。
人通りの少ない道路だったため事故の目撃者はいなかったが、バイクが走り去ってすぐに、先ほどのブレーキ音を聞きつけた四十代後半くらいの女性が家から飛び出してきた。
「ち、ちょっとあんた!しっかりして!大丈夫?」
女性は倒れている遥を見て、狼狽しながらもなんとか心を落ち着けようと深呼吸をした。それから、意識があるのかないのかはっきりしない遥に伝わるように大きめの声で言った。
「あんた!今すぐ救急車呼んであげるからね!待ってて!」
遥は返事をしたかったが、顎をわずかに縦に動かすのが精一杯だった。
家の玄関へ駆けだしていく女性の背中を視界に捕らえながらも、遥は自分の意識が遠のいていくのを感じた。
次話あたりから話が本筋に入ってきます。どんな展開になっていくのか‥‥それは読んでからのお楽しみということで♪
この話の感想評価などいただけたら、思わずガッツポーズしてしまうほど喜びます(笑)
この話の続きもよろしければお付き合い下さい。




