第4話 「傷跡」
遥が交通事故にあったという一報を受けて、明は飛び出すように会社を出て、病院に向かった。交通事故にあったと聞いて、頭が真っ白になってしまって、その後のことはあんまり思い出せない。
後になって考えてみると、よくあの状態で病院まで辿り着けたものだ、と明は思う。明は電話で遥の容態もろくに聞かず、もうパニックになりかけていた。相当な醜態をさらしていたような気もする。
記憶がはっきりしているのは、遥の病室に着いたあたりからである。気が付くといつのまにか明は病室にいた。遥は病室のベットで横になっていた。特に包帯を巻いていたりしているわけではなかったので、怪我もなさそうに見えた。思っていた以上に、容態は悪くなさそうだったので明はほっとした反面、さっきまで慌てふためいていた自分が少し恥ずかしくなった。
明は気遣うようにして声を掛けた。
「大丈夫かい? ひどい目にあったね。どこか痛いところはない?」
だが返事はなかった。遥は悲しそうな目で僕を見上げているだけ。
明は、事故にあったことがよほどショックだったのだろうかと思った。
「本当に大丈夫? しかし運転手のやろう許せないよ。遥にもしなにかあったら‥‥」
そういう明の言葉を途中で遮って、遥は意味ありげな視線を明に向けた。何か重大なことを明かそうとしているかのような顔。何を言い出そうとしているのだろうか、と明はつばを飲み込んだ。
遥は決意したように一人うなずいた。そして、額にかかっている前髪を右手ですっとすくい上げた。明はぎょっとした。髪で隠れていたので気が付いていなかったが、遥は額にひどい裂傷を負っていたのである。手術でついたと見える生々しい縫合の跡が残っていた。遥は重い口を開いた。
「事故でかなり頭を強く打ったんだけど、脳とかには異常はなかったらしいの。でも、こんなひどい傷跡じゃ、ミミズ腫れみたいになって、もしかしたら一生残ってしまうかもしれないわ。そんなことになったら私‥‥」
そう言い終わると、遥は掛け布団に顔をうずめて、しゃくりあげるようにして泣き出してしまった。だが、明にはどうすることもできなかった。前髪で隠れるとはいえ、あんな傷跡を若い女性が一生背負っていかないといけないとは。明はできることなら代わってあげたい気持ちで一杯になった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。今頃、俺達はテーブルを挟んで、今日あった面白いことなどを話しながら、夕食を食べていたはずなのに。
そのとき病室に、病院の先生らしき人物が入ってきた。先生は三十代後半くらいで、顔立ちは整っていてとても頭の切れそうな男だった。しかし、表情からは感情というものが抜け落ちてしまっているかのような妙な印象を受けた。まるで顔に能面を張りつけたような、作り物のような微笑を浮かべていた。
「はじめまして。私、遥さんの手術を担当させていただきました佐々木と申します。どうぞよろしく」
佐々木という先生は、ベッドで泣いている遙を特に気にもせず、明るい調子で明に話しかけてきた。この場の空気の読めていないこの男になんとなく嫌悪感を感じながらも、明は言った。
「はじめまして。私、斉藤明と申します。先生、どうもありがとうございました」
「いえいえ。ところで、遥さんの調子はどうですか?」
「どうやらひどいショックを受けてしまったようで‥‥」
「そうですか」
しかし、特に遥の様子が気になるというわけではないらしい。遥のいるほうには見向きもせず、佐々木は手に持っていた紙に何かを書き込んだ。明はとりあえず遥の額の傷について、この先生に相談してみることにした。
「あの、先生ちょっと相談したいことがあるんですが‥‥」
「何でしょうか?」
にこやかな様子で返事をする。
「いえ、ここじゃちょっと‥‥場所を変えていただけませんか?」
「ええ、わかりました」
部屋を出る前に遥に声を掛けた。
「じゃ、ちょっと先生と話してくるから。また戻ってくるからね」
しかし、遥は布団に顔を押し付けたまま、泣いたままだった。その姿を見ると、明は遥の悲しみがまるで自分のことのように感じられ、ひどく胸が痛んだ。こんな状態の遥を病室に置いていくのも忍びなかったが、遥は独りになりたいのかもしれないと思い、佐々木と廊下に出た。佐々木は遥の病室から三つ隣の部屋のドアを開けた。
「こちらへどうぞ。診察室ですが、もう診療時間も終わりましたので、お気になさらずに。」
「はい」
佐々木は椅子を勧めたので座って向かい合わせになった。
「ところで相談というのは一体なんでしょうか?」
「先生もお分かりのことと思いますが‥‥遥の額の傷のことなんです」
「傷ですか?」
意外と言った調子で佐々木は聞き返した。わかっているくせにまるで初耳といった感じ。明はちょっと苛立ちを覚えた。
「額の傷ですよ、遥の」
「額に傷跡?一体‥‥」
佐々木は何かぶつぶつ言い出し、そのまま腕を組んで考え込んでしまった。そうして二十秒くらいの時間が過ぎた。明はどうしていいのかわからず、考え込んでいる医者の顔を眺めていることしかできなかった。そして、佐々木はようやく口を開いたと思ったら、また独り言を言い出した。
「そうか、そういうことか‥‥私としたことが、うかつだったな」
佐々木は一瞬明がいることなど忘れてしまったかのように、また独り言を言っていた。明はこんな男が遥の手術をしたことがなんだか不安に思い始めた。佐々木はなおも一人でぶつぶつ何かを言っていたので、明は声を掛けた。
「先生、ちゃんと聞いてくれてますか?」
佐々木ははっと我に返った様子で、「え? ああ、すいません。で、遥さんの傷はどんな感じですか?」と言った。
自分で手術を執刀しておきながら何を言うのだ、この男は?
「額部分に大きな五センチくらいの傷跡が残ってしまっていたでしょう?先生、忘れたんですか?」
「ああ、やっぱりあの傷のことか‥‥はい、わかりました」
どうも話がかみ合っていない気がする。ちゃんと通じているのだろうか。気にしても仕方がなさそうなので、明は無視することにした。
「先生、あの傷何とか消すことはできないんでしょうか? あれだけ深い傷だと、きっと跡が残ってしまうでしょ。あのままじゃ彼女が不憫で。あんな傷を一生背負っていくなんて‥‥何とかしていただけないんでしょうか?もしよろしければ、腕のいい美容整形外科などを紹介していただけたら、ありがたいのですが」
佐々木はなぜか一瞬黙り込んだ。完全な無表情ではあったが、何か思案している様子だ。だが、すぐにもとの作り物のようなにこやかな笑顔に戻り、言った。
「ご心配なさらず。当院では美容整形のようなものもやっております。それに、傷は元通りにすることができますよ」
明はその言葉を聞いて、思わず喜びで飛び上がりそうになった。遥の傷が治る! あれほど深そうな傷なら跡が残ってしまうはずだと、半ば諦めかけていたのに予想外の回答に、興奮を抑え切れなかった。
「本当ですか、先生! お願いします! 遥の傷を治してやってください」
「まかせてください。当院の整形は世界でも唯一の方法をとっている画期的な方法を用いているのです」
「いったいどうやるのですか?」
「それはまた次にいらしたときにお話しましょう。少々長くなってしまいますのでね」
「わかりました。明日にでも伺ってよろしいでしょうか?」
「もちろん、結構ですよ」
明はお礼を言って、診察室を出た。帰り際に遥の病室をのぞいていったが、遥は泣き疲れてしまったのか、すうすうと寝息を立てていた。明日、傷が治ると遥に教えてあげたらどんな顔をするのだろう。それを思うと、帰り道の足取りも軽かった。
ようやくこのあたりから話が動き始めます。もしよろしければ、この話の続きもお付き合い下さい。




