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後宮の華  作者: 山口悟
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黒 余月

「このたび、この後宮を閉めることとなった。皆、早々に荷物をまとめ数日中に退去するように」

 広場の中心で書状を手にした役人が声をはり上げてそう告げた。

 

 その言葉にこの場に集められていた妃や女官たちからざわめきが起こったが、そのざわめきを遮るように再び役人が、

「急いで仕度するように、いつまでも退去しないで残っている者は強制的に退去させていいとの許可も出ている」

 低い声でそのように口にすれば、皆、文句を言いながらも自分の暮らす宮へと戻って行く。

 

 幽閉されていた宮から出て広場へいくように命じられた時、ついにその時なのだろうと思ったが予想通りだった。

 

 散り散りに去っていく妃と女官たちを少し遠くから見つめながら、これからのことを考える。

 

 幼馴染曰く『これからはお前も自由に生きることができる。やりたいこと、好きなことをいくらでもできる』とのことだったが、自分が何をしたいのかわからない。

 

 どうしたらいいのだろうかとぼんやりしていると、一人の女性がこちらへ寄ってきた。


 よく知った顔だった。

 そんな彼女は私の傍に立ってこう言ったのだ。

「あの、もし行くところがないならうちに来ませんか?」








        


 時は、約三年ほど遡る。

「入るぞ」

「どうぞお入りください」

 そう許可を出すと、入ってきたのは久しぶりに見る幼馴染だったので、かぶっていた猫を脱ぎ捨てた。


「なんだお前か」

 良家の娘らしく見えるようきちんと座っていた足を盛大に崩してそう言うと、幼馴染、政繫生はくすりと笑っていった。


「おいおい、いくらなんでも気を抜きすぎじゃないか、余月」

 久しぶりに呼ばれた自分の名前に俺が目を細めて、

「普段はだいたい気をはってんだから、事情を知っているお前の前くらいでは気を抜くくらいさせろよ」

 そう返すと、それを聞いて繫生も、

「それはそうだな」

 そう頷いた。



 俺、黒 余月(こく よげつ)黒 華月(こく かげつ)のふりをし始めてから早三年が経とうとしている。


 そうして繫生(けいしょう)が手配してくれた数名の事情を知る者たち以外の前では、華月として振舞うため気をはっている。

 そのことは繫生もよくわかってくれている。


「それで久しぶりに訪ねてきて、なんの用もないってことはないんだろう。用件はなんだ?」

 俺がそう尋ねると、繫生は口の片方の端をあげて歪な笑みを作った。


「それが大変なことになりそうで相談にきた」

「大変なこと? まさか華月になんかあったんじゃあないだろうな?」

 俺が眉をあげてそう声を荒げると、繫生はすぐに首を横に振った。


「いや、華月は元気にやってる。また新しい機械を発明しているらしい」

「そうか」

 華月が元気にやっていることにほっとしつつ、

「それじゃあ、何が大変なんだ?」 

 そう改めて尋ねると繫生からは予想しなかった答えが返ってきた。


「それがな、俺、王になるかもしれん」

「はぁ⁉」

 思わずそんな声が出てしまった。


 だってこの幼馴染は王位からは遠いところにいたはずなのだ。

 だからこそ母親の生家であるこの黒家でなんの期待もされず、俺と同じように放置されて育てられてきたのだから。








 俺と繫生の出会いは、俺がようやく物心つきはじめた頃のことだ。

 当時の俺は物置小屋の片隅に薄い敷物を敷いて寝起きし、たまに与えられる食べ物と庭の実りを主食としていた。


 そんな俺が人気のなくなった薄暗い庭で木になった果実を取ろうとしてあやまって落ちかけたときに助けてくれたのが繫生だった。


「チビがこんなところで一人で何してんだ」

 そんな風に言った繫生自身もまだ十にも満たない子どもだったのだが、体格の良さと流暢なしゃべりに、その時の俺は彼をだいぶ年上の人間だと思った。


「果実を取ろうとしていた」

 素っ気なそう返すと、

「一人では危ないだろう。保護者はどうした?」

 と真剣な目を向けてきた繫生に俺はまた素っ気なく返した。


「そんなのいない。おれはやっかいものだから」

 そう大人からいつも言われていることを口にすると、繫生が眉間に深い皺を作った。

 

そして少し考えこみ、

「お前、名前は?」

 そう尋ねてきた。

「よげつ」

 ほとんど呼ばれることはないが、一応、教えられていた自分の名を名乗ると、繫生は眉間に皺を寄せたまま、

「そうか、お前が……」

 そう言って黙ってしまった。

 

 難しい顔をして黙ってしまった年上の人に、また自分は何か怒らせるようなことしてしまっただろうかと不安になった。

 

 なにせ俺を見るだけで眉をしかめるものはたくさんいる。

「やっかいもの」「じゃまもの」「ただめしぐらい」

 そんな言葉を投げかけられるのも日常茶飯事だったから。

 

 しかし、しばらくして口を開いた繫生はそのようなことは口にしなかった。

それどころか、

「よし、お前の身柄は俺が預かろう。どうせ碌な寝床も用意してもらっていないのだろう。これからは俺のところで寝起きしろ」

 そんなとんでもないことを言って俺を自分に与えられた部屋に連れていってくれた。

 

 何がなんだかわからず呆然としている間に、繫生の部屋のとなりに部屋が用意されて、綺麗な水で洗われて綺麗な衣服を着せられて、見たことのない美味そうな食事を与えられて、そこで生活することになった。


 その時は今まで食べたこともないちゃんとした食事にただただ感動したものだ。

 

 それから繫生の元で学ぶうちに色々なことを知ることができた。

 まず俺はこの黒家の当主が下級の使用人であった女に戯れに手を付け、その結果、生まれた子どもだということ。

 その女は身分は低いが、たいそう美しかったそうで、当主の正妻が女の妊娠に激怒してだいぶあたり散らしたらしい。


 そんな事情もあったせいか子どもを産んだ女は産後の肥立ちが悪く、しばらくして亡くなったそうだ。

 そうして女が亡くなると正妻は今度はその子どもである俺にあたるが、赤子にあたってもすっきりしなかったのか、乳母やその使用人にあたり散らし、結果的に要因である『俺』が疎まれるようになったようだ。


 しかし、そこまで嫌うならばさっさと他所へやるなり、捨てるなりすればよかったというのに、こうして家の隅に残されたのは、俺に双子の妹がいたからだったと教えてもらった。

 

 双子の妹の名は黒華月と言って、当主の子どもの中で唯一の女児だったそうだ。

 身分の低い使用人が産んだ子どもではあったが、これまで生まれなかった女児であったため、当主が自ら名を付け、丁重に育てられているのだそうだ。

 

 その唯一の女児の双子兄であるために、俺は一応、生かされ、ここに置かれていたという訳だ。


 これまで投げかけられた言葉、向けられた視線の意味がわかり俺はなんだかすっきりした。

 知ったからと言って俺の立場は何も変わらないが、それでもなぜあんな目を向けられて、あんなことを言われるのかわかったというのは大きかった。というか、俺にはなんの咎もねぇじゃなぇか。


 そんな風にさらりと思えたのも繫生がちゃんと説明してくれたからだ。

 今更ながら、繫生にはいくら感謝してもしたりない。そんな繫生ついても知った。

 最初こそずいぶん年上に見えたが、実は三つ上なだけだった。

 

 そして繫生はなんとこの国の王様の子どもだった。だが、すでに優秀な兄たちがたくさんおり、もう必要ない子どもとして母親が亡くなると、母の生家である黒家へ預けられたのだという。

 

 しかし、王家から預けられている身分として俺よりも大事にされてはいるが、基本は放置されているとのことだった。

 

 王族を放置っていいのかと学のない俺でも思ったが、なんでも現当主と従妹同士であった繫生の母は非常に仲が悪かったらしく、そのためだという。

 

 それを聞いた時、黒家の現当主、俺の父にあたる人物はそれは駄目な奴であると感じたのだが。

「そもそも現当主も俺と同じように当主からは遠い存在だったのが、何人もいた兄たちが偶然、亡くなって当主になったという経歴の持ち主なんで、色々とあるんだろう」

 そう言って教えてくれたのは繫生だ。


「突然、何人もいた兄たちが亡くなったって、それって……」

 と疑問を口にしようとしたら、繫生に口をふさがれた。そして言われた。

「それは皆、思ってはいるが決して口に出してはいけないことだ。命が惜しいならな」

 それを聞いて俺は大きく何度も頷いた。

 どうも黒家の現当主とやらはかなりやばい奴であるようだった。

 



 こうして色んなことを知り、また学問も武術も教えてもらいながら、繫生の使用人のような仕事もして、実に充実した日々を過ごししばらく経った頃、繫生が俺の元に一人の子どもを連れてきた。

 

「どうしてもお前に会いたいというものだから連れてきた。少し話してやってくれ」

 繫生はそういうと、彼の背に隠れていた子どもの背をおして俺の前に出してきた。

 

 子どもは俺と同じくらいの背丈だったが、頭巾を深くかぶっていて顔は見えなかった。

 顔は見えないが緊張している様子で一向に話し出さない子どもに俺はこちらから声をかけた。


「はじめまして、俺は余月っていうんだ」

「……あの、わたしは……」

 子どもが小さな声でぼそぼそとそんな風に言って、前に一歩出ようとしてそこでつまずいた。

 俺は慌てて子どもが倒れないように受け止めると、目の前の子どもの頭から頭巾が外れた。

 そして露わになった顔は―――俺にそっくりだった。

 

 これほど自分に似てる人間がいることに驚いたが、それと同時にこの子どもが誰だかわかった。

 こんなに俺に似ている人間はおそらく彼女しかいないはずだ。


「お前、華月か?」

 そう俺の双子の妹の名を口にすると、子どもの身体がびくりとなった。

 この反応、どうやら間違いなさそうだ。

 

 俺が繫生に連れてこられて、綺麗な水で洗われた日、泥が落ちた俺の顔を見た繫生が目を見開いてしばらく固まった後『この部屋から出る時は頭巾を深くかぶって顔を見せないように』と指示した意味が今、わかった。


 この指示をやっかいものと蔑まれた余月だとバレると、悪いからだと今までは思っていたが、そもそも泥に汚れて放置されていた俺の顔を知るものなどほとんどいないのだ。


 それなのに隠せと言ったのは俺の顔が双子の妹である華月と瓜二つだったからに他ならないだろう。

 

 顔だけじゃない。背丈も姿形、男女の双子だというのに俺たちは見事にそっくりだった。

 女同士ならまだしも、こんなに似ることあるのかどうなっているんだ。

 俺がそんなことを思いながら、じっと華月を見つめていると、その顔はどんどん歪んでいった。そして目の下が潤んできた。

 えっ、なんだどういうことだ!


「……うっうっ、余月兄さま、ごめんなさい。私、兄さまが大変だったこと全然、知らないで、自分ばっかりちゃんとしたご飯や着物をもらって過ごして……兄さまは元気にしているっていう大人たちの嘘を信じて、何もしてあげなくて……ごめんなさい」

 しゃくりあげながらそんな風に言って華月は目からぽろぽろと涙を流した。

 

 俺は何がなんだかわからなくて横で素知らぬ顔をして立っている繫生に目をやると、繫生は肩をすくめてこう話した。

「一族の会食の席で偶然、隣だったんだよ。それで俺がお前のこと知っているって話したら、すごく食いついてきてお前のことを教えて欲しいって言うんで、これまでのことを話したんだよ」

 要するに俺が物置の隅で残飯もらって暮らしていたことをこの妹である華月に話したということだな。

 

 正直、妹の方は俺のことなんか忘れて(あるいは知らないで)大事に育てられていると思っていた。

 それがそんなに俺を気にしていて、こんな風に泣いてしまうなんて、なんだか変な気分だ。

 

 そもそも今まで俺は華月のことなど気にしたことはなかった。

 大事に育てられているなら問題ないだろうと軽く考えていただけだ。

 

 目の前の華月は自分ばかりごめんと言ったが、そもそも俺はこの妹がいなければさっさと処分されていたかもしれない存在であり、華月に対してお前ばかりなんて気持ちはない。

 いや、もし俺が繫生に保護されずずっとひもじい思いをしていたならば、そんな風に思う日もあったかもしれないが。

 

 俺はこうして繫生に保護されてよい暮らしを送れているのだから何も思わない。

 だから今、目の前でボロボロと涙を流す妹にただ戸惑うばかりだ。


 そもそも俺の世界は幼い頃俺を冷たい目で見てきた大人たちと、今は繫生とその使用人の大人たちだけで、同じ年の子どもにもほぼ初めて会ったので、どう接していいかわからない。


 途方にくれて繫生に視線をやれば、

「お前の気持ちを話してやればいいんじゃないか」

 とにやにやとして言ってきた。これは面白がっている顔な気がする。

 そんな繫生にムッとしつつ、とりあえずそれもいいかもしれないと口を開く。


「あのさ、俺はそんなに苦労してないから、え~と、確かにチビの頃に大変だったこともあったけど、今は繫生のところでよくしてもらってるからなんの問題もないんだ。だから、あんたが気にすることないから」

 そう言うと目に涙をいっぱい貯めた目がしっかり俺を捕え、ばちりと視線がかち合った。

 自分にそっくりな瞳なのに、なんだか綺麗だと思えた。


「本当に?」

 そう問うてきた華月に俺は、

「本当だ」

 と目を見てしっかり答えた。


 華月は安心したようなほっとした顔になった。

 これで泣き止んでくれるかと俺もほっとしたが、今度は、

「よかった、お兄さまが今、こうして元気にしていてよかった」

 そう言って泣き出してしまい。

 俺は本格的に途方にくれた。

 

 困り果てる俺を見て、繫生が肩を震わせていた。

 結局、華月は泣くだけ泣いて時間がきてしまったと帰っていった。

 

 なんて変なやつなんだ黒華月、黒家のお嬢様として何不自由なく育てられていると聞いていたので、もっとこう偉そうというか、身分高いみたいな感じかと思ったのだが、あれは完全に弱い小動物だった。

 あんなんでドロドロしたこの家の中でやっていけているのだろうかと少し心配になった。

 

 それでももう会うこともないだろうなと思っていたのだが、意外と小さな子どもに甘いところのある繫生の手引きもあり、あれから華月は時間の合間にちょいちょい俺のところへやってくるようになった。

 

 はじめは何を話していいかわからなかったが、次第に今日会った事なんかをぽつぽつと話すようになっていった。

 

 そして次第に華月という人物を知っていった。

 華月は見た目こそ(そこは俺もまったく同じなのだが)可憐な少女なのだが、ガサツでドジで、おまけに不器用だった。

 

 俺にお茶を入れるのだと言って盆をびちゃびちゃにして、土産に持ってきたという菓子を転んで自らの身体で潰してしまい泣きそうになるような少女だった。

 

 そんな姿を見ていると弱い小動物のようでつい世話しなければいけない気持ちになり、世話を焼くと、なんだか懐いてきて、それを可愛いと思うようになった。

 

 父といえるのかどうかわからない下級使用人の女に手をつけた男は、俺のことなど忘れているだろう。

 

 母といえるのかどうかわからない俺を産んだ女も、当主に『華月』と名付けられた娘に対して、息子に『余月』余りの月と付けたくらいなのだから、俺のことは娘の余りものとしか思っていなかったのだろう。

 

 そんな感じで家族なんてもんに縁のなかった俺を「お兄さま、お兄さま」と慕って懐いてくれる実の妹。

 そんな妹を可愛く思うなというほうが無理な話だ。

 

 繫生に言わせるところの『妹馬鹿』になってしまったのも必然なことだったのだ。

 

 そうしてちょこちょこ華月と会いつつ、それまでのように学問や武術を習って、繫生の手伝いをして時を過ごし、やがて繫生が成人の年を迎えた。

 







「よしこれで大手を振ってこの家を出られるようになった。計画していたとおり俺は王宮に上がって早急に官吏の試験を受け、官吏になり出世するぞ」

 それは何年も前から繫生が口にしていた計画だった。

 

 成人したら後見であるこの家から出て、官吏の試験を受け官吏になり出世する。そして、

「それで十分な権力を手にしたらこんな家、ぶっ潰してやる」

 繫生は物騒な笑みを浮かべていつもの台詞を吐いた。

 

 繫生は、いや俺も、この黒家が大嫌いだ。正確には黒家当主とその周りの人間が大嫌いだ。

 汚いことをして金と権力を集め、一族も皆、まるで手駒のように扱う奴らを好きになれるはずもない。

 

 特に表舞台に立つことが多い繫生は、当主に忌み嫌われており、嫌がらせや嫌味を散々と食らってきたため、当主への恨みも深い。

 よって『権力を付けたらこんな家、ぶっ潰してやる』と俺によく口にしていたのだ。

 その一歩が今始まろうとしているのだ。


「住むとこはもう決まっているんだったよな」

 俺の言葉に繫生は力強く頷いた。

「ああ、異母兄さんが準備してくれて、荷物もほとんど運んである」

 繫生のいう異母兄さんとは、繫生とだいぶ年の離れた母親が違う兄で、優秀で次の王候補とされている人物だ。

 

 繫生は幼い頃の王族の交流会でこの異母兄と縁を結び、交流をはかって懐いている。

 今回、繫生が家を出ることができるように計らってくれたのも、これまでこの家では放置されている繫生の力になってくれたのもこの異母兄だという。


 そんな繫生の異母兄に、俺はあったことはこそないが、何度か手紙で感謝を伝えたことがある。そんな子どもの手紙にも丁寧に自ら返事を書いてよこしてくれる人ような優しく大らかな人だ。


「しっかりやれよ。まず試験に落ちるなよ」

 俺がにやにやとそう言うと、繫生はむっとしたように、

「誰に言っているんだ。この俺が試験に落ちたりするはずないだろう」

 と返してきた。


 大した自信だと思うが、確かに繫生には実力があった。

 異母兄の手配で来てくれているという教師たちも絶賛するほどもの覚えもよく、頭の回転もはやく、武術の腕も素晴らしかった。

 俺も教師たちからはすごいと言われたが、年齢差を差し引いてもとても繫生にはかないそうになかった。


「信用できる人物も半分はこちらに置いていく。お前のことは頼んである。お前は引き続き、この家の動向を報告してくれ」

 繫生にそう言われて俺は黙って頷いたが、その顔がどうもうまく取り繕えていなかったらしい。

 繫生は俺の顔を見て苦笑した。


「そう寂しそうな顔するな。時々は様子を見に帰ってくるから」

 そう言って繫生はその昔よりだいぶ大きくなった手のひらで俺の頭を撫でた。

 いつもなら子ども扱いするなと跳ねのけるが、今日は抗うことなく撫でられておいた。

 

 物心ついてしばらくして繫生に保護してもらってから、いつもそばには繫生がいた。

 繫生は兄であり、友であるような特別な存在だった。ここからいなくなるというだけで、寂しくなってしまうのも仕方ないことだ。だが、

「別に無理して帰ってこなくても大丈夫だ。俺だっても十二になるんだ。ちゃんとできるさ。兄として華月のことだってみててやるよ」

 そんな風にわざとぶっきらぼうに言った。素直に寂しいと言うのが照れくさかったのだ。

 

 大人びた繫生ならきっと俺の気持ちなんでお見通しで苦笑を浮かべたりするかもしれないと思ったが、俺の予想に反して繫生は眉を寄せ厳しい顔をした。


「繫生?」

 不安になってそう声をかけると、繫生は一度、唇をぐっと噛みしめてから口を開いた。


「ずっとお前には言うなと口止めされていたから話さなかったが、俺がここからいなくなるにあたり、やはりお前に話しておかない訳にはいかないな」

「なんの話だ?」

 意味が分からず首を傾げる俺に繫生は眉間に皺を寄せたまま告げた。


「華月のことだ」

「華月がどうかしたのか? この間、会った時は俺がやった饅頭を満面の笑みで食べててすごく元気だったけど」

「……」

「繫生?」

 繫生はまた黙って唇を噛みしめ、しばしの沈黙の後、こういった。

「華月は虐待されている」

「はぁ⁉」

 思わずそんな声が出た。まったく意味がわからなかった。

 

 黒家当主に生まれたたった一人の女児で、大事にされているはずの華月が虐待されている?


「……繫生、お前、こんな時にまったく笑えない冗談を言うなよ。華月は黒家当主の一人娘で大事にされているって教えてくれたのはお前だろう。それにここに会いにくる華月はちゃんといい着物を着ているし、いつも笑顔だ。そんな訳ないだろう」

 俺は強い口調でそう言って、繫生が『冗談だった』と言ってくれるのを待った。


 だが本当はわかっていた繫生がこんな悪質な冗談をいう人物ではないことを。だからこの話はきっと。


「確かに華月は当主の一人娘で、表向きは大事にされている。当主にとって華月は大事な駒だからな」

 そうだ。当主がそのような人物であることはよくわかっていた。


「だから後に残るような傷はつけないようにされている。だが数日たてば消える傷はよしとされて、華月は日々、教師たちに皮の鞭で打ちつけられている」

 俺は口を引き結び繫生を見つめた。


「数年前、俺が対処して入れ替えを行う前は傍付きの使用人たちからもそのような扱いをされていた。いや、それはもっとひどいものだった。物置に長時間閉じ込めたり、泥や虫などを口に詰め込まれたりもしていた」

 幼い少女にあまりの仕打ちだった。放置されていた俺だって、そこまでのことはされたことがない。


「……な、なんでそんなこと、あいつは大事な一人娘なんじゃないのか……」

 口から出た声は震えていた。身体も同じように震えている。


「母親の身分が低いからというのと、正妻からの指示もあるようだ。傷を残さない程度に痛めつけろとでも言われているんだろう。今は俺の手の者をあいつの傍付きに回しているから、そんなことはなくなった。だが当主から直々に依頼されている教師までは俺の力では変えることができず、奴らは今も、あいつが芸事が苦手なのを知っていて無理難題を出して、できなかった罰だと鞭でうちつけている」

「…………そんな」

 わけないと言いたかった。ここへくる華月はいつも笑顔で楽しそうで、そのような扱いを受けている素振りなんて少しも見せなかった。


 いや、果たして本当にそうだっただろうか。

 

 華月は暑い季節でもいつも袖が長い服を着ていて決して肌を見せなかった。おそらくそこには鞭でつけられた傷はあったのだろう。

 

 そしてふいに触れるとびくりと身体を揺らすことがあった。あれは鞭で打たれていた身体の痛みか、それとも長年に渡る虐待の影響だったのかもしれない。

 思い返せば、何かおかしいと思うことはあったのだ。


 だが俺はそれらをあえて気に留めなかった。華月は大事にされているのだ、何かあるはずがないと。

 そこには俺が真実を知ってもどうにもしてやれないという思考があったのかもしれない。

 現にこの話を知っても俺はどうすることもできず唇を噛みしめて立ち尽くすだけだ。



「今、ちょうど華月は芸事の教師に指導を受けている。覗いてみるか?」

 繫生のこの問いかけに俺はゆっくり頷いた。


 

 そして繫生の後に続いて、華月の部屋が見えるというところへ向かった。

 そこは俺が繫生に保護されたあの庭だった。その庭の木の影に身を潜め、繫生に示された窓の中に目をやると―――恐ろしい形相をした年配の女が物凄い勢いで腕をあげ振り下ろしているのが見えた。


 その手には鞭のようなものが握られており、それが振り下ろされ打ち付けられているのは俺の妹、華月の身体だった。


 その光景を目にして俺の身体は自然と前に出た。助けに行かなくてはいかない。妹がひどいめに遭わされている。

そんな俺を止めたのは繫生の腕だった。

「今ここでお前が入って止めると、後でもっとひどい折檻をされてしまうのだ。俺の時がそうだった」

 思い声音でそう言った繫生に、俺はぐっと衝動を押し込めた。



「この愚鈍、こんなこともできないなんてお前は本当に愚図だ! 薄汚い血交じりのゴミが!」

 鬼のような形相で女が叫ぶ大きな声が、窓の外のこの場所まで聞こえてきた。耳をふさぎたくなる。

 

 鞭うたれる華月の表情が見えた。こんなことをされてあの泣き虫はきっと泣いている。

 そう思ったのだが、華月の顔に涙はなかった。

 その顔はただ口を引き結び顔をこわばらせ、痛みに耐えていた。


「……なんで、あいつ、あんなに泣き虫なのに……」

 思わず漏れた声に繫生が答えた。

「あいつが泣くのはお前の前だけだ。この部屋で華月はどんなことをされてもただ黙って口を引き結んで耐えている。悲鳴も上げない。これまでに涙や悲鳴を上げたことでもっと痛めつけられてきたようだ。うめき声ひとつもらさない」

 

『お兄さま、お兄さま』と笑顔で寄ってくる華月、転んで饅頭がつぶれたと涙を浮かべる華月、くるくる表情の変わる可愛い妹。

 だけど、今ここから見える華月はまるで知らない者のようだ。鞭でうたれてもうめくこともせず、ただ口を引き結んで耐える少女。

それは俺の見たことのない華月の姿だった。



「……なんでこんなことになっているって、教えてくれなかったんだ?」

 俺は繫生に向けて震える声で問いかけた。

「華月にずっと口止めされていたんだ」

「華月に?」

「ああ、お前に心配をかけたくないから黙っておいてくれとな」

「あいつ、あんなに泣き主でドジで頼りないのに……」

「華月は確かに要領も悪いドジな娘だが、決して弱いやつじゃない。あいつはお前に似て根性があってこうと決めたら曲げない頑固者で、強い人間だ」

 繫生から語られたのは俺の知らなかった妹の一面だった。

 

 こんなにひどい虐待を何年も受けながら兄に心配をかけまいと、いつも笑顔でこんなことをされている気配など出すことはない。

 

 そう思えば確かに俺の妹は根性がある強い人間なのかもしれない。だが、

「こんな状況を知ってしまって、知らないふりで見守ることなんでできない。繫生、華月を助けてくれ」

 今の俺には何もできない、縋るような気持ちでそう言って繫生を見るが、その顔は苦しそうに歪んでいた。


「俺もこのことを知った時から、ずっと助けたいと思っている。だが、異母兄に頼んでも黒家の当主直々に動いているものに介入できなかった。使用人を入れ替えるのがやっとで、教師までは無理だったんだ。華月は黒家の当主にとって重要な駒で、まだ今の俺の力では助けてやれないんだ」

 

 ああ、繫生もすでに動いてくれていたんだ。それはそうだよな。

 俺のことを『妹馬鹿』と揶揄う繫生自身も華月を実の妹のように可愛がっているのはわかっていた。

 それでも繫生が頼れる最大の力である異母兄の存在を持ってしても、どうにもできないならば、もう手はないのだ。



「この愚図、こんな簡単なこともできないなんて」

 また鬼の形相の女の叫びが聞こえてきた。


 例え華月が強い人間だとしても得意不得意がある。華月は頭はいいのだ。学問、歴史も得意だ。ただ芸事の才能が少しないだけで。そこまで考えて俺ははっとした。


 「華月は芸事が苦手だからあのようにされてしまうんだろう。ならば華月の代わりに芸事の得意な娘に入れ替わってもらえばいいんじゃないか、それなら教師に鞭うたれることなく過ごせる」

 俺のその言葉に繫生は呆れた顔になっていった。


「教師はもう何年も同じ者で華月の顔は把握している。入れ替えるなんて不可能だ」

「でも、よく似ている娘なら」

 俺がさらに言いつのると繫生は深く息を吐いた。


「お前は身内であるからよくわかっていないかもしれないが、華月は中身はともかく姿は本国一の美少女と言われるほどに美しい。よく似た娘などそう探しだせるわけがない」

 そうだった。繫生の言う通り華月は黒家の秘宝と他家に言われるくらいに美しい娘だった。

 しかし、じゃあどうすればいいんだ。

 

 俺は再び華月の方へ目を移した。必死で耐え続ける華月、このままにしておけるはずがない。

 なのに、俺はなんて無力なんだと唇を噛みしめたその時、窓にはめられた硝子にふと自分の顔が映っていることに気付いた。

 

 見慣れた自分の顔、十二になっても少しも男らしくなることなく、声変わりもほとんどせず喉ぼとけなんてないに等しい。繫生には声変わりさえ気づいてもらえなかった。

 男に見えない女顔、年月が経っても妹とそっくりなままの姿。

 なんだ答えは実に簡単だった。

 

 『黒余月』という存在はもう数年前に繫生が死んだと偽装してくれたため、この世に存在しない。そして皆、余月の顔を知らない。

 ああ、俺の声がほとんど変わらなかったのも、喉ほとけが出ていないのも、きっとこのためだったのだ。



「繫生」

「なんだ?」

「俺が華月になる」

「はっ⁉」

「俺がこれから黒華月として生きる。だから華月を黒家の手の届かないところへ逃がしてやってくれないか」

 真っすぐ繫生の目を見ながらそう告げると、繫生は眉をしかめた。


「……お前、本気か?」

「ああ、俺はこの通り華月にそっくりだ。声変わりしても声はほぼ変わらなかった。喉仏も出ていない。華月の服を着ていればあいつそのものになれる。服を脱げばさすがにバレるが、そういう身近な世話はお前の手のかかった者がしてくれるんだろう。それなら問題なく華月になれる」

「お前は、芸事なんて習ったことないだろう」

「そうだけど、俺はかなり器用だから少し練習すればできるようになる。あのババアたちも文句のつけようのない出来に仕上げて見せる」

「確かにお前はなんでもそつなくこなすが……」

 口ごもって眉を寄せ考え始める繫生に俺はさらに続ける。


「お願いだ、繫生、俺はあの状態の華月を黙って見ていられる性格じゃない。このままなら乗り込んで暴れてしまうかもしれない。ならばここで俺が華月になって生活した方が丸く収まる。そうさせてくれ」

 繫生はしばらくただ黙って考えこみ、やがて華月を再び見て、そして俺に視線を移し、

「………わかった」

 重く深い声色でそう言ってくれた。

 

 こうして俺は、十二の年から『黒華月』として生きることとなった。


 

 

 それから数日、華月としての振舞をしっかり学んだのち、繫生の手配で華月と入れ替わった。

 

 身近な世話係は繫生の手の者であり、騙すのは教師たちが主なのでそこではより気をはって過ごしたが、実にうまくいきまったくばれることはなかった。

 

 ただ華月の方が俺との入れ替わりに是と言わなかったようで(これは華月の性格を考えれば予想できたことだが)最終的に眠らせて連れ出したとのことだ。

 

 そしてその後、繫生が、

「なぜか俺が物凄く罵倒され、親の仇のように憎まれているのだが、お前、手紙を書いてなだめてくれ」

と泣きついてきたので手紙を書いた。

 

 のちに繫生が返事を持ってきてくれて、実に怒ってはいたが、暮らしぶりは問題ないようで安心した。

 

 繫生も、

「俺がすぐに出世してこの家をぶっ潰してやるから、それまで待ってろ」

と言って王宮へ行ったが、ちょいちょい様子を見に帰ってきて世話を焼いてくれていた。


 そんな経緯もあり、繫生と俺はすっかり恋仲扱いになってしまったが、繫生曰く、

 「変なちょっかいをかけられなくて丁度いい」

 とのことで俺もあえて否定せず、『お慕いしています』みたいな雰囲気を出しておいた。

 

 そして芸事も宣言どおりあっという間に上達した。それこそ教師も文句を付けられないで歯噛みするくらいになった。

 そのせいでちょいちょい色んなところに呼ばれて披露するうちに黒華月の評判はどんどんと上がっていった。

 


 そうして気づけば俺ももうすぐ十五の成人を迎える頃になって、繫生が、

「それがな、俺、王になるかもしれない」

 などと言い出したわけだ。

 

 俺は驚き声をあげた後、問うた。

「なんでお前が王になるなんてことに? 数年前にお前の大好きな異母兄が王位についてどんどん改革をしている最中じゃないか」

 そう繫生が慕って官吏になっていずれ右腕として働くと意気込んでいた異母兄が数年前に王位についたのだ。繫生の喜びようは凄かったし、俺も嬉しかった。


 繫生もあと数年で自らの実力でもって兄の近くの役職へ上がってみせると笑顔で語っていた。

 そして新しい王はよくない因習をどんどん改革していき、素晴らしいのだとよくここに来た時に話していた。この間来た時もそのように話して帰っていったというのに。


「……異母兄上の体調がここしばらく芳しくないのだ」

 繫生がひどく固い表情になり、そう言った。

「病か?」

「おそらくそうだろうと」

「おそらく?」

「異母兄上は、このたびの改革で古狸のじじぃどもにひどく嫌われた。これまで健康には問題なかったのが突然、過ぎるため、何かされたのかもしれん」

「そんな……」

「ただ証拠はなく、いまのところただの病とされて病状も公にはされていなかった。だが、今日、異母兄上の部屋に呼ばれたんだ」

 繫生はそう言って目を伏せ、唇を噛みしめた。


 俺は黙って繫生が続きを話すのを待った。しばらくして繫生が口を開く。

「正直、寝台から起きるのもきついほど弱っていた。そして、この王宮で真に信頼できるのはお前だけだから、次の王にお前を指名したと言われた」

 それで繫生は王になるかもしれないと。


「異母兄上にお前に重荷を背を背負わせてすまないと言われた。本当なら異母兄上の息子があと数年で成人するので、その子が異母兄上の妻の助けを借りて継げれば一番いいのだが、そこまで異母兄上の身体が持ちそうにない。だから俺はそれまでの間、王位を継ごうと思う」

「つまり中継ぎの王になるということか? そんなうま味のない王位、お前の後見をいまだに名乗っている黒家が許すか」

 俺がそう率直な意見を述べると繫生の顔は眉をあげて言った。


「そのへんはもちろん考えている。この際なので黒家はこの中継ぎ王位の間に潰してしまおうと思っている」

「ははは、そうかついに動くのか」

 強気な幼馴染にそう返すと、繫生はにっと口の先を引き上げた。


「ああ、ついに長年の悲願の達成だ。皆で自由になってやろうじゃないか」

「そうか、楽しみに待ってる。というかそこまで決まっているなら相談ってなんだ?」

 最初に繫生が言っていたことを思い出してそう聞いてみると、


「相談というか頼みごとなのだが、お前も俺と一緒に王宮にきて欲しいんだ」

 繫生がまたわけのわからんことを言ったので俺は再び、

「はぁ⁉ 何言ってんだ。俺がここから出られるはずないだろう」

 と声をあげてしまった。


 俺は今、黒華月として生きている。黒家の秘宝のお嬢様だ。王宮について行けるわけがない。


「いや、むしろ喜んで送り出されると思うぞ」

「どういうことだよ?」

「余月、お前、俺の嫁になってくれないか?」

「はぁ⁉ お前の嫁、なんで俺が‼ 俺はこんな格好をしているが男だぞ。そして繫生、お前にはとても感謝しているが、残念ながら俺は男に恋情を持てる性格ではないんだ」

 俺が必死にそう言って首をブンブンと振ると繫生は腹を抱えて笑いだした。

 


 そしてその後、ちゃんと説明をしてくれた。

 繫生が王になるにあたり、おそらく後宮が開かれ多くの官吏や高位な家から妃を娶るように言われるであろうこと。

 そして今の繫生の立場ではそれを完全に阻止するのは難しいこと。

しかし、そんな場に行って押し付けられた妃の元へ向かえば、何をされるかわからない。

 だが、まったく通わないとしても何を言われるかわからない。

 

 よって自分の味方である仮初の妃として俺に後宮に来て欲しいということだった。

 すでに俺、黒華月と政繫生は恋仲として世間に知られているため、繫生は『自分は華月だけを愛している』と俺の元だけに通うようにしたいらしい。


 そんな話を聞いて俺は納得し、そして二つ返事で話を受けたのだが、繫生は、

「受けてもらいとてもありがたいが、また面倒な場所で性別を偽り続けてもらわなくてはいけなくなり、おまけにもしかしたら命を狙う者が出るかもしれない。それでもいいのか? 嫌なら嫌と言ってくれていい、強要するつもりはない」

 真剣な顔でそう問うてきた。

 

 頭もよく腕も経つ繫生、俺とそして大切な妹の恩人でもある繫生が『手伝え』と言い切れば、俺は頷かざるを得ないだろうが、彼は決してそんなことはしない。

 そんな繫生だからこそ助けたいと思ってしまうのだ。


「性別を偽るのはもうすっかり慣れてるし、お前の手の者に武術の訓練も続けてもらっているから、俺も自分の身くらい守れる。だからお前の嫁になって後宮に入ってやるよ」

 そう言ってにっと歯を見せて笑うと、繫生はなんだか安心したようなふにゃりとした笑みを浮かべた。

 


 そのような経緯を得て入った後宮だったが、想像以上に居心地が悪かった。

 華月として振舞うのはいつも通りだが、屋敷にいた時、以上に嫌がらせがひどかった。


 ゴミを宮にまかれるのは日常茶飯事であるし、時には動物に死骸や腐って匂いがひどいものなど投げ込まれ、正直、うんざりしてきていた。

 

 悪口や茶会で足を引っかけられるくらいならいいんだが、ゴミとかは始末も大変だからやめて欲しいものだ。というか本来の俺の性格上、こういうのはやり返したいのだが、繫生に駄目だと禁じられてぐっと我慢するしかなく、それが一番、気を参らせていた。



 ある日、そんな日ごろの鬱憤を晴らすために頭巾を深くかぶり、女官の服を着て気分転換に出た。

 

 さすが後宮、庭園は広く一人になれる場所もありそこで久しぶりにぼーっとした。

 

 繫生は狸たちと上手く渡り合い、なんとか異母兄の息子が成人したら王位を譲ることができるように今から水面下で動いている。俺もこの後宮で官吏や高位の家の情報を集め、繫生に渡している。

繫生は嬉しそうに、


『これが行けば、俺たちは皆、自由になれるぞ。やりたいことを考えておけよ』

 なんて言っているが、思い浮かばない。

 

 幼い頃は生きることに必死で、繫生に保護されてからは繫生の役に立つことに必死で、華月と入れ替わってからは、うまく華月としていきるのに必死でやってきた。

 

 繫生は王を辞めた後、どうするのだろうか? 官吏もやめてしまうのか、ならばもう俺が手伝えることはなくなるかもしれない。

 華月は遠い土地で機械いじりにはまって、商品を生み出して手堅くやっているようで、俺の助けはいらないだろう。

 

 俺はどうやって生きればいいのか、昔のように誰も俺のことを必要としなくなったら……余月(この名のように)余りものに戻るのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていると、突然、隣の茂みががさりと音をたてた。


 慌ててそちらに目をやると、頭を葉っぱまみれにした女が立っていた。

「あの~、ここってどこら辺なんでしょうか? 庭が広すぎて迷ってしまって」

 そう言って女は頭をかいた。


 よく日に焼けた肌に健康そうな身体、生命力の塊みたいな女だった。

 

 黒華月のことは有名だ。こんなところに一人でいるとバレると大変なことになる。

 

 俺は正体に気付かれないように、頭巾で顔を隠したままここから女の宮への道を教えた。


「ああ、そのように行けばいいのですね。ありがとうございます。本当に助かりました」

 女はそう言って頭を下げ、歯を見せて笑った。

 

 なんだかすごくその笑顔に魅せられてぼーっとなっていると、名を聞かれ、思わず、

「余月」

 そう本当の名を口走っていた。

 

 正直、この名はあまり好きではない。華月の余りと俺を産んだ女がつけた名だからだ。


 それでも今、華月として生きる俺にとって、俺である証は今、この名だけだ。そんな名をなぜか今あったばかりの目の前の女に口にしてしまったことは自分でも驚きだった。


 俺のそんな複雑な気持ちなど知りもしない女は、目をぱちりと見開き、こう言った。

「ああ、あの物語の主人公の名ですね」

「物語の主人公?」

 俺が訝し気に聞き返すと女はすらすらと話し始めた。


「私の地方、南部の端の方なんですけど、そこでよく子どもに話す物語なんですけど――」

 そういって彼女が簡単に話してくれたのは、余月という名の少年が一人育った土地を離れ、色んな所を旅して、やがて理想郷を見つけて幸せに暮らすという物語だった。

「このお話にちなんで子どもに『余月』と名付ける人も多いんですよ。子どもが幸せを掴めるようにと願いをこめて」

 彼女はその話が終わるともう一度、丁寧にお礼を言って去っていったが、俺はしばらくその場から動けなかった。

 

 俺を産んだ女、母の出身の地方については繫生に教えてもらったことがあったので知っていた。

だが俺を疎んだだろう女について知ろうとしたことなどなかった。

 だが、今は知りたいと思えた。

 母と同じ地方出身の彼女が語ってくれた物語。

『子どもが幸せを掴めるようにと願いをこめて余月と名付ける』

 それが本当なら、母はちゃんと俺のことを思ってくれていた。俺はあまりものなどではなかったのだ。

 気づけば、なぜか俺の目からははらはらと涙が流れ落ちていた。

 そしてその涙が止まる頃にはなんだか身体が軽くなった気がした。



 その後、与えられた宮に戻ってから俺はあの時の女について調べた。

 名は『緑春花』緑家本家の娘で、農業が好きらしく後宮の土地を借りて自ら持ちこんだ野菜を育てているという後宮内ではなかなか有名な変わり者だった。

 ただ穏やかな気質からか彼女を慕う者も多く、後宮内で実に楽しく過ごしているという。

 

 たった少しだけの出会い、それでも彼女のことが気にかかり、それからこっそりと彼女を盗み見る日々が始まった。

 

 彼女は噂で聞いた通り、日々、それは楽しそうに農業をしていた。見ているだけでささくれていた俺の心も落ち着く気がした。

 

 そんな中、高位の官吏の策略で開かれた花見の席で、俺が得意の舞を披露した後、なんとはじめて彼女と目があったのだ。

 

 ずっと隠れて見つめていただけだったので、その目が自分の姿をとらえてくれたのが、あまりに嬉しくて思わずにやりとしてしまった。


 しかもその後、なぜか彼女から文がきて、嬉しくて返事を書くと、そのまま手紙は続き文のやりとりをする仲にもなれた。


 実に嬉しい、彼女が望むので『舞いをしましょう』と言えば、大きな舞台を手配してくれた。

 そして彼女はその後、俺の愛好会を発足した。


 正直、照れ臭かったが彼女からの声援を聞けるのは非常に嬉しいことでもあった。


 そうして彼女の要望に応える日々を過ごしているうちに、いつの間にか他の高位の妃にもどんどんと愛好会が出来ていき、妃たちもその活動に夢中になり、嫌がらせもなどしている暇がなくなったようで、最初の頃のギスギスした雰囲気はすっかりなくなっていた。


 黒華月のことを愛好会の皆が『後宮の華』などと言っているが、俺にすれば彼女、緑春花こそ、空気の悪かった後宮を変えるほどの力を持った強く美しい『後宮の華』だと思えた。


「とそのように思う訳だ」

 そう春花について思ったことを宮を訪れた繫生に話すと、繫生は大きな口をあけて笑って言った。

「そうか、ついにお前にもそんな風に思う相手が出来たのか」

「はぁ! 何、言ってんだよ! 思う相手なんて! 春花のことはそんなじゃなくて、こう友人というか身内みたいな感じなんだよ」

 俺がすぐそうやって否定したが、繫生はにやにやするばかりだ。


 俺はむっとしてお返をしてやった。

「そういう繫生こそ、そういう相手はいないのか? 入った頃こそ妃は皆、危険だと思っていたが、今となっては権力に興味のない気立てのよい娘も多くいると知ったぞ。よければ紹介してやろうか?」

 俺がにやにやとそう言うと間一髪いれず繫生は、

「結構だ」

 と返してきた。

 

その返しがあまりにはやかったので、ふと気にかかり、

「繫生、お前、もしかしてすでに気になる相手がいるのか?」

 そう問いかけると、繫生の顔がぴくりと少し動いた。

 長い付き合いから、あっ、これは図星だなと思った俺はさらに続けて尋ねた。


「誰なんだよ。俺が知っている奴か?」

 じっと繫生の目を見てそう問うと、繫生は眉をぎゅっと寄せ、

「そうだ」

 と小さく頷いた。


「本当か! えっ、俺の知っている奴っていうと、愛好会の妃か、いや、それとも」

 俺が必死に考えていると、繫生は小さな声でぼそりと、

「この後宮にはいない」

 そう言った。

「えっ」

 この後宮にいなくて俺が知っている女なんて限られてくる。


「一族の誰かってことか、でもお前は一族の人間のことは嫌って……」

 そこまで言って俺はふと思い出した。

 繫生とは長い付き合いであるが、今まで彼が心から褒める女は一人しかいないこと思い出したのだ。


 『あいつは強い』『あいつの発想力はすごい』

 繫生はあいつの話になるといつも顔を緩ませてそんな風に言っていた。


「……もしかして、華月か?」

 俺の問いかけに繫生は静かに、だがしっかりと頷いた。そして、

「もちろん無理強いをするつもりもない。まだ思いも伝えていない。ただすべてが終わったらこの思いを伝えたいと思っている」

 真剣な目で俺を見ながらそう宣言してきた。

 

 そんな様子を目にして俺は繫生は本気なのだと悟った。

 この美しく強く賢く、この後宮のどんな美妃も選び放題な幼馴染は、本気で俺の妹のことが好きなのだ。


「俺はこれからも常に華月の味方だが、それでも華月が望めばお前が弟になるのも許してやろう」

 俺があえてそんな風に返すと、繫生も顔を緩め言った。

「ああ、もし華月が俺の手を取ってくれたのなら、よろしく頼む」

 そうしてその晩は、繫生の華月の思いを聞きながら、話し込み夜を明かした。






 そんな日からしばらくして、王位の譲渡の日も近づいてきて、繫生はついに長年の悲願である黒家退治に乗り出した。

 

 計画は上手くいき、長きにわたり俺たちを苦しめていた黒家はなくなった。

 俺のほうは、黒家処罰の朗報を聞きつけたのち、繫生の計画通りに後宮の離れに幽閉されることとなり、後宮の閉められる日を待った。



 そしてついにその日がきて、すべてが終わりを迎えた。後宮が閉められることになったのだ。


 慌ただしく去って行く妃や女官たち、その中を潜り抜けこちらに近づいてきた彼女、緑春花が、

「あの、もし行くところがないならうちに来ませんか?」

 そう言ってこちらをうかがう顔を目にした時、身体に雷が走ったような気がした。

 まるで今まで知らなかった何かが身体に降りてきたようなそんな感覚だった。

 

 ああ、俺はこの人が、緑春花に恋情を抱いているのだ。

 唐突にその思いに気付いた。



 繫生に揶揄われた時は違うと思った。

 俺のこの緑春花への思いは、そういうものとは違うものだと。親しみ、家族への思いのようなものだと思っていた。

 

 だがそうではなかった。

 繫生の言ったとおり、俺はこの目の前に立つ生命力にあふれた可愛らしい女を恋慕っているのだ。


 「いいのですか? ありがとうございます。ぜひよろしくお願いいたします」

そんな風に笑顔で返しながら、心の中では『この目の前の女が欲しい』と強く思ってしまっていた。


「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」

 と頭をさげた春花のつむじをみながら、俺はこの女を必ず手に入れようと誓った。

 

 

 先ほどまでこの先、どう生きようか途方にくれていたというのに、今では絶対に達成したい目標ができた。そのせいか身体もこころなし軽い。

 


 支度をするため宮に戻りながら、俺はこの後のことを考える。口の端が自然と上がってくる。

 自分でしたいことを見つけて行動するのはもしかして初めてかもしれない。

 ギスギスした後宮だけでなく、俺という人間すら変えていく緑春花は、まさに『後宮の華』と呼ばれるにふさわしい人物だ。

 

 そんなことを考えながら、俺は鼻歌交じりで支度をはじめる。

 これからの日々を楽しみに―――。


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余月Side!!! ゜+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゜ 繫生(けいしょう)は、人と人の縁や絆を繋ぐ人……春花視点だけだと、遠い人過ぎて良くわからない中継ぎ王だったけど、こちらの事情を知ると中々の苦労人……華月…
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