第63話:赤い雫
アルマはアルカンシェルの屋上の端に寄り掛かり、学院のある方向を頬杖をついてじっと眺めていた。
今頃シュルトとカンナはどうしているだろう、ちゃんとレディンに会えたのだろうか?
本当はこんな場所で惚けている時間など無いのだが、ここにいない3人の事が心配で何も手が付かない。
(考えが甘かったのかなぁ……)
状況を楽観していたつもりは無かったが、捜索を出す程切羽詰まっているとは思っていなかった。
正直、カンナが気にし過ぎているだけだと思っていたのだ。しかし、シュルトまでが心配して飛び出して行くなんて。
レディン一人に様子を見に行かせた事が失敗だったのだろうか……アルマは自分の至らなさに苦しくなり、ほうとため息を吐いた。
「アルマ?」
「え? ああ、あはは、何でも無いの」
慌てて振り返ってアーシェルに笑いかけてみたが、彼女は納得しないように褐色の無表情を少し傾けた。
いけない、不安を振りまいていてはリーダー失格だ。
アルマは風で乱れた髪を撫で付け「大丈夫だから」とアーシェルに頷く。
それで納得したかは分からないが、アーシェルも小さく頷き、再び作業に取りかかった。
「……ところで、アーシェル。さっきから何やってるの?」
彼女は露店で買い込んだ怪しげな材料を次々と愛用の小鍋に入れ、じりじりと火にかけている。
(料理……じゃないよね)
もうもうと煙を吐き出し始めた鍋の中身を覗こうとすると、アーシェルの顔がすっと上がった。
「アルマ」
「わっ、ごめんなさい。何も見てないから」
アーシェルは小さく首を振る。
別に覗き込んだ事をとがめてた訳ではないようだ。
じゃあ何だろうかと彼女に習って首を傾げてみる。
「アルマがそこにいてくれると、助かる」
「へ? ここって、屋上のこと?」
アーシェルはこくんと頷き、たき火の上で鍋をひと振りする。
「シュルトに言われたの。アルマを守って欲しいって」
「シュルトに……」
複雑な気持ちが胸を占める。
私はそこまで心配されるほど危なっかしいんだろうか?
確かに危険な状況だと言うのは分かる。だが、身長だけなら自分よりも小さなアーシェルに守るように頼むなんて、シュルトは一体何を考えているんだろうか。
しかし、頭はそう思っても、シュルトが気にかけてくれた事を、どうしようもなく嬉しく思ってしまう自分がいた。
好きだ――そう言われた事を思い出した途端、何故か立っていられなくなって、その場にしゃがみ込む。
(あー、もう! どういうつもりで言ったのよ。考えてみれば友達として好きって事もあるし……聞きたい事、いっぱいあったのに、シュルトに会うと何か話せないのよね)
アルマは胸に詰まった感情を溜息にして「はう」と吐き出した。
そう言えば、誤解で頬をぶった事すら謝っていなかった。
もっと、ゆっくりと話したかった――
「ダメじゃない! レディンの安全が掛かってるって言うのに、何考えてるのっ!」
パンパンと頬を打って立ち上がと、アーシェルの冷たい視線とぶつかった。
「なっ、なんでもないの……ちょっと、なんでかなぁって思って」
アルマは取り繕うように、しかし、事実気になっていた事を聞いてみる事にした。
「シュルトって、どうしてあんなにアグリフのやろうとする事がわかるのかなって。私、全然想像もつかなくて……今回だけじゃなくて、ほら、前に交渉した時だってそうでしょ?」
「……性善説、性悪説」
「へ? なにそれ」
聞き慣れない言葉にアルマが眉根を寄せると、アーシェルは小鍋を振りながらボソボソと答える。
「アルマとシュルトは、結論が似てても、そこまでの考え方が反対」
「それが、さっきのなんとか説?」
「違うけど、そう」
謎掛けのような答えにアルマが指を頭に当てて考え込む。
その様子がおかしかったのか、アーシェルが少し眼を細めた。
「つまり、アグリフはシュルトと同じ考え方。アルマはレディンと一緒。考え方の根っこが違うから、頭の中が分からない」
珍しくアーシェルは饒舌のようだ。
彼女の言っている事は酷く極端な気がしたが、アルマは思い当たる節もあると眉根を寄せて思い返した。
確かにレディンの言動はすぐに理解できる事が多いが、シュルトの場合は説明されても分からない事すらある。
今まであまり気にしてはいなかったが、根っこから違うと言われては不安になった。
それはつまり、自分はシュルトやアグリフを一生理解できないと言う事なのではないだろうか。
一緒にいても、分かり合う事すら出来ないのだろうか。
「……ねえ、アーシェル。考え方が逆の人って、その、一緒にいてもつまらないのかな? 苦しくなっちゃうのかな?」
不安まじりの問いにアーシェルは吹き出した。
滅多に笑わないアーシェルが、声を上げて笑っているのだ。
(あ、相変わらずツボが分からないなぁ)
困惑するアルマの前で、アーシェルは小鍋の中身を火の中へ投げ捨てた。
そして、脇に置いてあった袋から慣れた手つきで怪しげな材料を取り出し、また鍋に投げ入れて木の棒でかき混ぜる。
「性質が違う物は、混ぜるのに手はかかるけど」
そう言う割には手際良くかき混ぜ、小鍋を再び火にくべた。
「でも、きっと、うまくいけば……」
その瞬間、ポフンと気の抜けた音と一緒にもうもうと煙が鍋から立ちのぼった。
呆然とするアルマの前でアーシェルは悠然と舌打ちするし、鍋の中身をふたたび火の中へ放り投げた。
「失敗、やり直し。それで、成功するまであきらめなかったら、成功」
何の事を言ったのか、アーシェルはそれきり黙々と作業に没頭してしまった。
だが、なんとなくアルマには分かった。
たぶん、彼女なりに励ましてくれたなのだろう。
「ありがと、アーシェル」
アルマはもう一度、屋上の端によりかかって学院を見た……と、妙な物が視界の端に止まる。
学院がある方角に、黒い柱のような物があったのだ。
当然、そんな物はさっきまではなかった。
「あれって、まさか……煙? でも、あんな量の煙なんて、いったいどれだけの火事が起これば――」
そう言った後、自分の言葉にゾクリと寒気がした。
いつ頃からだろうか、カンナはシュルトの手先だけに集中していた。
待ての合図で冷えたロウの様に固まっていたその手が、突然、走れの合図に変わる。
同時に走り出したシュルトの後を追って、カンナはひたすらに駆け出した。
(この人、本当に病み上がりなんですか?)
全力で走っても追いつかないその背中に悪態を吐きながら、なんとか足音だけは消すように走り続ける。
やがて、シュルトが茂みの傍に腰を落とし、そのすぐ脇にカンナもしゃがみ込んだ。
息を静かに整えていると、シュルトも流石に辛いのか肩を上下させており顔色もかなり悪そうだ。
そんなカンナの視線に気付いたのか、シュルトはすっと茂みの向こうを指差す。
視線を向け、カンナはそこに学院の一角が見えた事に驚愕した。
結局、誰にも気付かれる事無く学院の敷地へ到達してしまったようだ。
(信じられません……)
カンナは改めてシュルトの背中をまじまじと見つめた。
見張りは学院に近づくにつれ厳重になっていたはずだ。
学院の生徒達が素人という事もあったが、たとえ相手がプロの傭兵であったとしても気付かれなかったかもしれない――それほどシュルトの潜入は見事なものだった。
潜入する際にもっとも必要な事、それは集中力だ。
常に見つかる可能性を意識し、自分が見られる可能性のある位置を警戒しながら、次の隠れられるポイント探し、そこまでの危険をすべて予想し、安全になるタイミングを間違えないようにする。
カンナも暗殺者として気配を殺して屋敷に潜入した事はあったが、大抵は手引きあっての事だ。
果たして、人目を避ける生活をおくって来たせいなのか、復讐するその時だけの為に身につけたスキルなのか。
「カンナ、どうした?」
押し殺した声に、カンナは慌ててなんでもないと首を振った。
「なら気を抜くな。カンナ、レディンが捕まっているとすればアグリフはどこにやると思う?」
「ええと……たぶん、教員棟のどこかじゃないかと。あそこなら誰にも見つかりませんし、出入り口も一つだけですし」
「出入り口が一つ、となると潜入するのは厄介だな」
厄介とシュルトは言ったが、カンナには不可能としか考えられなかった。
なにせ、教員棟と言えばアグリフが根城にしているはずだ。おそらく一つしか無い門を何人もの見張りが待ち構えているはずだ。
いくらアルマが波風立てぬ事を望んでいるからと言って、これはどうする事もできない。
見張りが何人かは分からないが、ここからは力押しでいくしか無いだろう。
そう意見を言おうとした時だった。
「カンナ、俺がおとりになって門前の敵を引きつける。その隙にお前は中へ入って、状況を見てレディンを救え」
シュルトは迷わずそう言った。
どうしてだろうか、その言葉を聞いた時、驚きよりもむしろ安心が大きかった。
いや、ひょっとしたら安心した理由は分かっているが、認めたくないだけなのかも知れない。
カンナは肩に入っていた力を抜いて首を振った。
「いえ、おとりはカンナがやります」
「お前がやる、だと?」
「はい。だってカンナじゃ、中に入った後どうして良いか分かりません。どうやってレディンさんを逃がして良いかも」
カンナは初めてシュルトの手を取り、そのゴツゴツとした手に額を付けるようにして、願った。
「だから、お願いします。レディンさんを助けて下さい」
「……だが、それでは」
何をためらっているのかシュルトは困った顔を浮かべて承諾しようとしない。
何故ためらうのだろうか。その方がシュルトだって安全だろうに。
二人のじりじりと焦げ付くような沈黙があった後だった。
「おい! 何だよあれはっ!」
突如、学院のどこからか悲鳴のような声が上がった。
シュルトとカンナはハッと身をすくめると周囲の様子を確認しーーそして眼を見開いた。
巨大な黒い柱が天へと立ち上っていたのだ。
同時に学院の至る所から緊迫した叫び声が飛び交う。
「やばいぞ、あれ煙じゃないのか!」
「そんな、あの方角って畑じゃない!」
「ふざけるな。あの煙、いったいどれだけの畑が燃えてるって言うんだよ!」
「とにかく急げっ! 少しでも消し止めるんだ!」
やがて、ざわめきは煙の立ち上る方向へと移動していった。
カンナ達の隠れていた場所からも、数人の男女がわたわたと走って行くのが垣間見える。
「ど、どうしましょう。畑が燃えてるって言ってますよシュルトさん」
思わぬ出来事にシュルトの裾をくいくいと引っ張ってみるが、シュルトは呆然としたように動かない。
あまりの事に放心したのかと顔を覗き込むと……手で口を押さえたあと、クツクツと堪えきれないと言うように笑い始めた。
「シュルト、さん?」
「そうだった。あいつが関わるといつだってこうだった。くっくっく」
あの膨大な煙の一体どこに笑える要素があると言うのだろうか。
相変わらずこの人のツボは分からないとカンナは首を傾げた。
一方のシュルトは、笑いを落ち着かせるように一つ息を入れると頷いた。
「よし、そろそろ頃合いだろう。行くぞ」
「行くぞって、カンナまで行ったらおとりはどうするんですか……あっ!」
カンナが口に手を当てると、シュルトは巨大な黒煙をあごで指して言った。
「そうだ。おとりはあの煙がしてくれるらしい。今のうちにあのお人好しを助けて、さっさと帰るぞ」
何でも無い事のように行った後、シュルトは最後にもう一度だけ立ち上る煙を睨み上げた。
「あれが誰の仕業なのか、考えるのはその後だ」
「おい、起きろ」
低い声の後、レディンは頬を遠慮なく叩かれた。
朦朧とする意識がクリアになっていくにつれ、体中を痛みが浸食していく。心臓がひとつ鼓動を打つたびに、胸や肩、足、そして指先が悲鳴を上げ、頭の中が焼け付くようだ。
椅子に座って寝ていたのか、そんな考えがようやく出来るようになった頃だった。
「起きろっつてんだろうがっ!」
怒声と同時に胸を蹴り飛ばされ、床の上に転がる。
手で体を支えようとしたが、椅子の後ろに縛られているので、そのまま頭や肩をしたたかに打ち付けた。
胸を蹴られたせいで呼吸も狂ってしまい、床に転がったまま咳き込む。
「ゲホゲホうるせえよ、砂漠のゴミが」
呼吸を落ち着ける間もなく、髪を掴んで椅子ごと引き上げられる。
痛みで涙ぐみながら、腫れ上がった目蓋を開けると、ひげ面の男が苛立たし気にこちらを見ていた。
「てめえのせいで俺は留守番だぜ。畑が燃えてるって言うのに、てめえのお守りだぜ? これで畑が全滅でもしてみろ。まずはてめえの肉を喰ってやるからなぁ。当然、生きたままだぜ。ぎゃははは!」
わざとなのだろうか、悪臭のする息を吐き付けながらメシャクは笑った。
「何故、こんな事を、するん、ですか……」
「はぁん?」
レディンが漏らした切れ切れの質問に、メシャクは心から驚いたように目を見開いた。
「てめえ頭が膿んでるんじゃねえのか?」
掴んでいた髪をぐりぐりと回し、言い聞かせる。
「何を聞いても僕は話せません――で、許されるとでも思ってんのか、この坊ちゃんはよう、ああん?」
苛立ちまじりに髪をわっしと掴んで頭を引き下げられる。
凄まじい力と痛みで抵抗などみじんも出来ない。
「なあ、もう楽になりたいだろ?」
うつむいたレディンの頭上から、メシャクがささやきかける。
「正直、面倒なんだよ。もう剥がす爪もねえ、焼き印を押すのも飽きたんだよ」
逃がしてくれるのだろうか、そんな甘い期待が頭に浮かぶが、そうでない事も頭の片隅で理解していた。
「さっさとここに来た理由を話せよ。あの砦に非国民のヤロウが行ったってのはもう知ってるんだ。あの貧民が何かやらかすつもりなんだろう? 言え、言ったらすぐに殺してやるぞ」
なるほど、やはりアグリフはシュルトやアルマの事を怖れているのだろう。
なんとおかしいのだろう。
シュルトやアルマだってアグリフが何かするのではないかと怖くて、だからレディンはここに来たのだ。
怖がって、信じられなくなって、何かある前に命を奪い合う。
なんとおかしくて、悲しいのだろう。
「チッ、だんまりかよ」
舌打ちしてレディンを離したメシャクは、部屋にあるもう一つの椅子にどっかと腰を下ろした。
不機嫌そうに腕を組んでユサユサと足を揺らしている。
そう、彼とてアグリフに命じられてこんな事をしているのだ。
「あなたも、こんな事は、したくは、ないんでしょう?」
その言葉に弾かれたようにメシャクは立ち上がり、腰に差してあった剣を抜こうとして……はあと特大のため息を吐いてまた座った。
「てめえが男だからつまらねえだけだ。てめえがおん……」
そこまで言って、メシャクは何かを思い出しニヤリと唇をつり上げた。
「そうそう、てめえが女だったら楽しめたのによ。前にやった貧民の時みたいにな」
「――えっ?」
レディンは驚ろきを隠せず、すっとんきょうな声を上げた。
確かにメシャクの話は驚愕に値する事だったが、それ以上に、音も無く扉から忍び込んだ人物に驚いたのだ。
(シュルトさん!?)
シュルトは人差し指を口に当て、ゆっくりと部屋のほぼ中心にいるメシャクへと近づいて行く。
一方のメシャクはレディンの反応があまりにも大きかったせいか、愉快そうにゲハハと笑い嫌らしい笑みを浮かべた。
「そうだよ。今じゃてめえら野良猫のボス気取りのあの貧民も、俺がさんざん遊んでやったのよ」
にじり寄るシュルトの顔に掛かっていた影が、少し濃くなった気がした。
手にしていた木刀を引き絞るように振り上げていく。
「ガキ臭かったが、それなりに楽しめたぜ。泣いて許しを乞う声なんて傑作だったぜ!」
「な、なんて、バカな事を……」
「あああん? 俺様がバカだって?」
メシャクが腰を少し浮かしたその瞬間、シュルトの木刀が振り下ろされた。
ゴッと鈍い音の後、メシャクの巨体がドサリと倒れる。
それとほぼ同時に、部屋にもう一つの影が飛び込んで、鈍く光る刀を抜き放つ。
「やめろ、カンナ」
「だ、だって! この人が!」
「さっきのは嘘だ。ビスキムが無事と言っていたからな」
カンナは納得いかないように刀をおさめると、急に目に涙を浮かべて飛びついて来た。
「レディンさん! よかった、無事だった!」
「イタタタ、痛いです! 痛い!」
おそらく鎖骨が折れていたのだろう。抱きしめられただけで激痛が走った。
その様子や爪のはがれた手、腕や首に残された焼き印の後などを見て、カンナはおさめた刀を再び抜き放つ。
「レディンさんにこんな事をするなんて……」
「カンナさん」
振り返るカンナにレディンは静かに首を振った。
止めるように懇願しているのだ、カンナは信じられないと言うように歯を食いしばったが、やがてがっくりと肩を落とした。
「このメシャクっていう人は本当にどうしようもない男なんですよ」
ブツブツといいながら刀を納めたカンナにレディンは無言で微笑みを浮かべた。
その間、シュルトはナイフを取り出しレディンを椅子に拘束していたロープを全て切った。
久しぶりに開放され、そこでようやく助かったのだと実感が湧いて来る。
声を出すのも辛かったが、なんとか礼を言おうとして息を吸い込んだ時だった。
「アグリフ様の読みは当たったな」
固い女の声がした後、中途半端に開いていた扉が開放された。
「ほう、非国民と赤い死神か。久しぶりだな」
つかつかと入って来た女は、一件男のように短く髪を切っており、その手には既に抜き身の剣がある。
禍々しい柄が特徴的な剣で、その刃はカンナの持っている剣よりも深紅に染まっていた。
「ルア……さん」
カンナが震えた声で呟くと、ルアの持っていた剣から赤い雫がぼたりと尾を引きながら落ちた。
レディンを支えていたシュルトの手が、それを見た途端、ぶるりと震えた。