1-1 女子大生のマジ泣き
仲村剣術場には、朝から竹刀の乾いた音が響いていた。
板張りの道場に、門下生たちの掛け声が重なる。
ここは剣術場といっても、単純に剣だけを教えているわけではない。
剣術の基本はもちろん剣だが、実戦においては、腕に小さな刃が刺さっただけでも致命傷になりかねない。足を斬られれば尚の事だ。
つま先から頭のてっぺんまで、使えるものは何でも使う。
それが仲村流だった。
「せいっ!」
鋭い気合いとともに竹刀が振り下ろされる。
「せやっ!」
剣一が一歩踏み込み、相手の竹刀を弾くと同時に足を払った。鈍い音が道場に響く。打ち合っていた若い門下生が、なんとか倒れはしなかったが大きく体勢を崩した。
「ありがとうございました!」
「悪くない、ただ左の踵が着いていたな」
剣一は門下生の足元を指差した。
「それでは踏み出しが一瞬遅れる」
「はい!」
「まずは基本を大事にすることだ」
「はい!」
門下生が真剣な顔で頷く。剣一は小さく息を吐いた。
教えること自体は嫌いではない。むしろ好きだった。自分が身につけてきたものを伝え、それが相手の中で形になっていく――それを見るのは、単純に楽しい。
ただし、剣一には一つだけ致命的な欠点があった。
「……師範代」
「ん?」
門下生の一人が、少し言いにくそうに口を開いた。
「怒ってます?」
「あ?」
「いや……」
門下生はほんの少し視線を逸らし、それからチラッと剣一の顔を見た。
「怒ってるように見えたので」
「怒ってないけど」
「そうですか」
「あぁ」
「……怖いです」
「なんでだよ!」
剣一は本気で分からなかった。自分では普通に会話しているつもりだった。しかし相手から見れば、そうではないらしい。
今年で23歳、身長は185センチ。吊り上がった眉に鋭い目。下がった口角。父親から色濃く受け継いだ、立派な悪人顔。まだ若いので父のように眉間に皺はない。
それでも十分すぎるほど怖い。しかも本人に悪意がまったくない、素の顔がこれなのだ。これが一番困る。
「剣一」
道場の入口から声がした。
振り返ると、父の友和が立っていた。身長は192センチ。巨躯。広い肩。鋭い目。吊り上がった眉。深く刻まれた眉間の皺。下がった口角。――剣一の顔をさらに濃くしたような男である。
門下生たちの姿勢が一瞬で正しくなった。
「師範、おはようございますっ!」
「おう」
友和は低い声で短く答える。それだけで門下生たちの背筋がさらに伸びた。
剣一は父親を見て思う。
――怖さで言えば俺の2ランク上だな。
よく母さんはこの顔を「かっこいい」と言えるものだ。剣一には、その感覚がいまだによく分からなかった。
「剣一」
「はい」
「合気道場、ちょっと手伝ってこい」
「分かった」
剣一は竹刀を置いた。
隣の仲村合気道場では、母の百恵が女性門下生たちを指導していた。
「はい、そうそう。力を入れすぎなくていいのよ」
百恵の声は柔らかい。同じ家に住む人間とは思えないほど、顔つきも穏やかだ。丸みを帯びた眉。少し下がった目尻。自然に上がった口角。柔らかそうな頬。剣一とは正反対である。
その隣には弟の綾斗がいた。21歳、身長は181センチ。母親の遺伝子を見事に受け継いだ、いわゆるイケメン俳優顔。兄弟なのに、並んで立つとこうも違うものかと実感させられる。
「あっ、お兄ちゃん」
「ん?」
綾斗が軽く手招きする。
「お願いがあるんだけどさ」
「なに」
「今日入った大学生の子、いるじゃん」
「あぁ」
「あの子に護身術の実戦練習してほしいんだって。お兄ちゃん、暴漢役よろしく」
「俺が?」
「うん、暴漢役」
剣一は何の疑問も持たずに頷いた。自分にとっては、いつもの稽古の延長でしかない。相手を傷つけないよう手加減しながら、実際に襲われたときの恐怖を体験してもらう。それくらいの認識だった。
この時点では。
まさか、その「暴漢役」が自分の人生を大きく変えることになるとは、思ってもいなかった。
数分後。
「では、実際にやってみましょうね」
百恵が説明する。女子大生が緊張した面持ちで剣一を見た。
剣一は少し離れた場所に立っていた。もちろん竹刀など持っていない。ただの素手だ。
なるべく怖く見えないようにしよう、と考えていた。
――どうすれば怖く見えないんだ?
剣一には、それが分からなかった。とりあえずニヤリと笑ってみる。口角を上げた、その瞬間。
女子大生の顔が強張った。
――まずい。
剣一はすぐに笑うのをやめた。すると今度は普通の顔に戻る。女子大生の顔が、さらに強張った。
――普通でも駄目なのか、仕方ない。
とりあえず演技に入る。
「金を出せ」
低い声で言った。ただそれだけだった。
だが、
「…………」
女子大生が固まった。剣一も固まる。
「……?」
数秒後、女子大生の目に涙が浮かんだ。
「え?」
剣一は一歩近づこうとした、その瞬間。
「いやあああああああっ!」
悲鳴が上がった。女子大生は百恵の後ろへ逃げ込んだ。
「怖いっ!」
「え?」
「怖いです!」
「いや、俺は何も――」
「怖いっ!!」
「……」
剣一は言葉を失った。今まで何度も言われてきた言葉だった。だが、まさか本当に泣かれるとは思っていなかった。
「あぅ……ご、ごめんなさい……」
女子大生は涙を拭いながら頭を下げる。
「いや、謝らなくていいから……」
剣一の声が自然と小さくなる。自分が悪いわけではない。しかし目の前で本気で泣かれると、どうにも居心地が悪い。
百恵が困ったように笑った。
「剣一、少し離れましょうか」
「……はい」
剣一は素直に後ろへ下がった。その後ろで、綾斗が肩を震わせている。
「綾斗」
「ごめん、お兄ちゃん」
「笑ってるだろ」
「笑ってない」
「笑ってる」
「ちょっとだけ」
「お前な……」
剣一はため息をついた。
始めました。
天狗、土蜘蛛、人ならざる者が出てくるのはもうちょっと先です。
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