Interlude ~蒼氷の地獄~
この世に地獄があるならば、きっとここがそうなのだ。
ルリジス海に隣接する沿岸国家であるアニズ国は、南方領土の中でも有数の肥沃地として知られていた。近代化とは無縁の牧歌的な国として、戦争が勃発する以前は名の知れた観光地として人々の関心を集めていた。
茅葺き屋根の合掌造りが面並び、そこに住む人々が麦藁の三角帽子を被って稲作に取り組む様は、都会生まれにも根源的な郷愁を呼び起こす原風景。
家先に揃えられた藁草履、蛙の通り道と化した畦道、倉庫の中で日に日に錆びていく古い農機具。古来より人々が育んできた農耕生活は、時が止まったかのように、このまま永遠に受け継がれていくものだと誰もが思っていた。
あの日――メース軍による武力侵攻を受けるまでは。
呆れかえるほどに穏やかだったアニズ国は、突如として侵攻を開始したメース軍によって戦地へと変えられ、あれほど牧歌的だった田園風景も今や業火を巻き上がらせる地獄へと変貌している。
国中に響き渡る叫喚、絶叫、哀哭。何の原罪も持たない彼ら国民は、理不尽な武力行使によって慈悲無き制裁を受けていた。
……メース国がこの国へ軍事力を行使したのには、当然理由がある。
アニズ国はシロガラ国の隣国であり、豊富な金銀と引き換えに手厚い糧食支援を行っていたのだ。シロガラ国の戦闘糧食はアニズ国の支援により飛躍的な改善が行われ、兵士の士気向上に著しく貢献した。
それに対しメース国は、アニズ国に対して警告を発令。即刻糧食支援を停止しなければシロガラ国の同盟国扱いとし、将来的に侵攻行動を行うと明言した。
しかしシロガラ国との取引で得た金銀によって私腹を肥やしていたアニズ国の王は、その恩恵が無に帰すことを固辞。シロガラ国に取り入り、正式に同盟国としての座を得る。
……メース国がアニズ国に侵攻したのは、同盟が結ばれてから僅か5日しか経過していない頃だった。その頃は丁度ポースポロス特別保護区域侵略戦争の直後で、メース軍の殺気が高まっていたことも要因の一つだっただろう。
かくして愚鈍なる王の奢侈により、一つの国が虐殺の危機に瀕していた……。
「お母さんっ、お母さんッ……!」
地獄と化したアニズ国の南部にて、崩壊した家によって生き埋めとなった母を救出するために、当時中学生のナイリンが瓦礫を退かしていた。
辺り一面は氷魔法によって支配され、盛夏なる8月だというのに周囲の気温は氷点下にまで至っている。住民の大半は化物の一撃によって死を自覚することもないまま肉片と化し、残りの半数も、気温低下による凍傷によって被害を被っていた。
母に圧し掛かる瓦礫は芯まで冷たく染まり、もはや氷のよう。それを手にするたびにナイリンは指が引き千切れそうな激痛を感じる。
やがて激痛は薄れゆき、同時に指先の感覚が一切消えていく。しかし彼女は母を助けるべく、血が流れるほど歯を食いしばりながら除去作業を続けていった。
その空しい徒労は、頭部が潰れて脳味噌をぶちまけた母の遺骸を見つけるまで続いた……。
「………………」
優しいというより娘に甘くて一度も怒ったことのない父は、突如起こった冷気の爆発によって上半身が消し飛んで死んだ。
いつまでも親離れできなくて母に甘えていた弟は、メース軍の兵士に見つかって首を刎ねられて死んだ。
いつも喧嘩ばかりしていたが本当は仲の良かった妹は、冷気に包まれて氷漬けになって、バラバラに砕けて死んだ。
体が弱くて孫に甘いおばあちゃんは、爆風に吹き飛ばされて壁に叩きつけられて、己の血と臓器に溺れるようにして死んだ。
そして、私が一番大好きだったお母さんも、脳や眼球や頭蓋骨など、ありとあらゆる頭部の中身を露わにしながら死んだ。
近くに住んでいた親戚も、同じクラスの友達も、人当たりの良かった近所の人も、みんなみんな、遺体というよりは肉片と呼んだ方が正しく思えるほど原型を留めず死に絶えていた。
生き残ったのは、たった一人の自分だけ……。
「……ぅあ……ッ……」
泣きたくても、もう、声すら出てこない。
その身に襲い掛かる感情は、悲しみや苦しみを凌駕して絶望や虚脱に染まっていた。
眼前の地獄が偽物だと思い込むように、脳が現実感を薄れさせていく。まるで夢の中にいる時のように思考が無秩序で、足が縺れて走ることすらできない。精神の安定を保つために脳内麻薬のような物質が分泌され、脳が壊れるような快楽と、無意識の笑いが零れ落ちていく。
滂沱と涙を流しながら笑うその姿は、戦場の狂気を実によく表していた……。
「……!」
その時、倒壊した家屋を一つ挟んで、メース軍の一行が戦備行軍していることに気づいた。
何十人、いや何百人もの兵士が、杖を構えながらアニズ国の中心部に向かって歩みを進めていく。その道中に立ち塞がる一切の障害物を破壊しながら、最短距離で国の中核へと歩み寄っていた。
ナイリンも噂には聞いていたが、メース軍の兵士たちは悉くが大柄だった。魔法などなくても素手で人を縊り殺せそうなほど、屈強な肉体を持つ兵士たちばかりだ。
……そんな武闘派の連中に、小学生くらいの女の子が混ざっていることに気づく。
どう見ても戦場に不向きの華奢な体に、王族仕様の絢爛豪華な蒼い杖。一切の光を宿さない死んだ瞳と、表情の欠片すらない無そのものの顔。
メース・M・ハルモニア。……その化物の噂は、ナイリンだって知っていた。
「E-6区域の殲滅は完了した。次はE-7区域だ。取りこぼすなよ」
「…………」
偉そうな軍服に偉そうな勲章を付けた男が、該当地区の方向を指さしながらハルモニアに指示を出す。
殲滅を命じられたハルモニアは一瞬の静寂の後、かくんと首を前に傾け、指示された方向へと杖先を向ける。
彼らがE-7区域と呼ぶ方面は、アニズ国ではセリコア町と呼ばれる海に面した場所だった。何度か足を運んだことがあるが、風に乗って潮の香りが漂ってくる爽やかな場所だったと記憶している。
……そんな場所も、化物にかかれば、僅か一瞬で地図から消し去ることができるのだ。
ハルモニアが撃ち放った魔法は、轟音と爆風を纏いながらセリコア町を襲う。横一線に放たれた氷結の魔法が大地もろとも人々の生命を刈り取り、巨大な氷柱が空から降り注いで全てを破壊していく。
たった数秒の間に、一体いくつの命が失われたのだろう。数百、数千、人間以外の生命も含めれば数万にまで至るはずだ。
それだけの生命を生み出すまでに、どれほど途方もない年月を重ねる必要があるのか。それを考えるだけで気分が悪くなるほどに、化物の振り下ろす魔法はいとも容易く全てを無に帰す。
きっと、誰も己の死を知覚しないまま。
誰に殺されたのかも、何故殺されたのかも、永遠に分からないまま。
「……」
ナイリンは、実際――家族を殺されたこと自体には、特段怒りを感じていなかった。
アニズ国とメース国は戦争中だ。だから敵国の兵士が攻め込んでくることは想定しうることであり、その波乱に巻き込まれて家族が死ぬのも可能性としては低くないと思っていた。
自分の住む国がシロガラ国と手を組んだ時点で、この末路は避けようがないものだったのだろう。家族が国からの脱出を望まなかったのだから仕方のないことだ。
しかし、ナイリンにはどうしても一つだけ許せないことがあった。
それはあの化物が、被災者の尊厳を踏み躙っていることだ。
殺された人々は、誰に殺されたのかも分からず、自分が死ぬことすら知覚できない。
そして殺した化物は、誰を殺したのか知らず、何人殺したのかすら把握していない。
まるで家先に宿った蜂の巣を焼き殺すかのように、化物にとっては殺人ではなく駆除に過ぎないのだろう。大勢犇めいている生命を、その顔すら確認することなく、根こそぎ刈り取って殺すだけの駆除作業だ。
どんなに悪辣な殺人犯だって、誰かを殺す時はその相手を把握する。その目で見て、誰かを殺した手ごたえを得るものだ。しかし化物の攻撃には、そんな一欠片の認知すら存在しない。
あの化物は、殺した相手を、本当に人間だと思っているのだろうか。
誰しもの人生に幸せがあり、過去があり、未来があった。
例えばナイリンの母親は、子供たちが成人して家を出たら、シロガラ国へ旅行に行って巨大宮殿を見てみたいと言っていて、その為に日々地道にお金を貯めていた。
学生の時の初恋は叶わなかったが、その時に色々と協力してくれた人と仲良くなり、今では夫として幸せに暮らしていた。
時折家に上がり込んでくる猫を可愛がり、本気で家猫にしようか迷っていた。
感動系の話に弱くて、時々動物系の感動小説を買っては一人でボロボロ泣いていた。
子供たちが病気になった時はつきっきりで看病してくれて、ずっと傍にいてくれた。
……そんな一人の人間を、化物は雑草へ除草剤を撒き散らすように殺していく。殺したことすら自覚しない、殺された相手がどんなにささやかな幸せを抱いていたかを理解しようともしない。
ナイリンには、それが断じて許せなかった。
人という存在の尊厳を踏み躙っていると感じていた。
こんなにゴミのように殺されるならば、その人の人生は一体何だったのかと問いただしたく思っていた。
「…………………………」
ナイリンは……永遠に忘れることが無いように、化物の姿を網膜へ焼き付ける。
あれが許されざる存在、生きていてはいけない化物。
永遠に人間とは分かり合えない、兵器そのものなのだ。
きっと化物は、ナイリンに出会っても己の罪を自覚しないだろう。彼女に恨まれていることを知ったとしても、何故恨まれているのか分からないと首を傾げるだろう。
その無自覚こそが、化物の罪そのものなのだ。
自身がどんな罪を犯したのかすら知らず、誰にどんな影響を与えたのかすら分からない。
家族を殺されたと訴えかけても、一体いつ、どの国のどの戦場で殺したのかを憶えていない。
罪となる行為自体よりも、罪を自覚していないことが本当の罪。
化物が真に贖罪すべき、永遠の咎なのだ……。
数日後、天涯孤独となったナイリンは非合法の民間軍事会社に拾われ、僅かな食糧と杖を与えられて、傭兵部隊の少年兵として活動を開始する。
彼女に兵士の才能は無かったが、幸運にも数多の戦場を生き延びてそれなりの地位を得た。しかし彼女の属していた民間軍事会社はシロガラ軍との衝突により壊滅し、再び全てを失ってしまう。
そして旅路の果てに中立国家との出会いがあり――今に至る。
彼女は変わった。ただの少女から傭兵になり、今は中立国家で護衛を努める立場だ。
それでも変わらないものが一つある。
彼女の胸中で未だに燃え盛る、化物への遺恨だ。
化物が誰かの尊厳を蹂躙したように、自分も化物の尊厳を犯し、この世界に存在できないようにする。……それだけが、彼女の生きる糧だった。
しかし、この無人界で仇である化物と出会い――彼女は、決して相容れないと断じていた化物の心を知っていく。
化物にも自己があり、他人を思いやる利他性があり、恋をして、幸せを願っていく。
だから――彼女自身すら、行きつく成れの果てを予見できずにいた。




