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恋する二人は許されない ~敵国王子と化物王女の現世青春~【毎日更新】  作者: 雪林りん
シーズン3 ~かつて化物と呼ばれた君へ~
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12章 開戦の銃撃

「お前らなぁ、あれだよ! なぁ! ダイビングとかしたことねぇだろ! 伊豆諸島の海はすげぇ綺麗なんだぜぇ、海が透き通ってるっつーのかさぁ! おう! ゼリーに沈み込んだような透明度をお楽しみいただきやがれよ! なぁ!」

「前見て」

「それとも海中より海面がいいか、カヤックとかもあるんだぜぇ! 俺がアホほど重いせいで沈んでいくけどな! ガハ! 釣りとかもいいぞぉ、まんじりともせずに待つから精神が狂いそうになる! ありゃぁ高等な趣味だぁ~」

「前見て! 前!」


 翌日、アルドフッドから「おめぇら傷も治ったんだから観光しに行けよな! オススメの場所教えてやっからよ!」という提案を受けた俺たちは、神成島を車で巡っていた。

 ワゴン車を思わせるほどデカい車をアルドフッドが運転しているのだが、話に熱が入る度に余所見をしてしまうので、その度に俺が前方を指さして注意している。道も開けているし対向車が来るわけでもないので比較的安全ではあるのだが、例えどんな状況であっても脇見運転は肝が冷えるものだ。


 車に搭乗しているのはアルドフットと俺、ハル、アイ、ナイリンとワムの計6人だ。助手席にいる俺は加われないのだが、ハルとアイとワムはトランプをしながらお菓子を食べるなどと移動を満喫している。俺を差し置いて楽しそうにするのは寂しいから通夜みたいに陰気なムードでいてほしい。

 その後部座席では、ナイリンが黙々と杖の手入れをしている。しかしそうしながらも時折、車窓から見える大自然に視線を向けている辺り、彼女も大自然ドライブに少しばかりの興味を示しているのだろう。


「おぉっ、あの鳥を見ろクロスエッジ! ありゃシチトウメジロだ! なぁ! 可食部は少ねぇがうんめぇんだわ!」

「え、食ったんですか?」


 鳥獣保護管理法とかを存じ上げていなさそうなアルドフッドは昨晩、山賊のように樽一杯ほどの酒を煽っていたのだが、二日酔いの欠片も無くピンピンしていた。しかし仄かにワイン特有のアカシアっぽい香りが漂っており、本当にハンドルを預けていいのか不安にもなる。

 そもそも本当に免許を取得しているのだろうか……と俺がちょっぴり不安になっていると、顔の横からチョコでコーティングされた棒が伸びてきた。


「はい、クロ! お菓子あげる! 謹んで食すがいいわ!」


 後ろから助手席のヘッドレストに抱き着いてきたハルが、俺の口にお菓子を捻じ込んできた。一人寂しく神成島MAPを見ている俺の姿に憐れみを覚えたのかもしれない。


「……アルドフッドさんも、えと、どぞ。謹慎してしょくしてください……」


 その隣ではワムがおずおずと、ハルを見習ってアルドフッドの口へトランプを捻じ込んでいた。別に謹んでという言葉は謹慎という意味ではないのだが、彼女なりにアルドフッドに関わろうとしているのだろう。


「あんがとなぁ!」


 アルドフッドは何一つ嫌な顔をせず、あろうことかそのままトランプを噛みちぎって胃の中に収めていった。スペードの4が失われたのだが、後ろで行われている7並べは大丈夫なのだろうか。

 胃まで化物かよ……と俺が慄いていると、アルドフッドはバックミラー越しに戯れる女子3人組を見て、なんだかとても優しい目つきをしていた。

 まるで親が愛娘を見るかのような、そんな目だ。


「……いやぁ、おめぇらが来てくれて助かる。なぁ。ガキ共も随分楽しそうに遊んでもらったみたいだし、ワムともコミュニケーション取れたしなぁ」

「昨日のアレはハルの独断ですよ。褒めるならアイツを直接褒めてやってください」

「あぁ、後でそうすらぁ。でもおめぇよぉ、俺はおめぇらみんなに礼くらい言いたいんだよ。存分に言わせろ、今発散させないと夜な夜な言いに来るぞ。なぁ」


 窓の外からは、昨夜のツワブキ畑が遠見できていた。距離が離れているので眺望の一部分でしかないのだが、あの艶やかな黄色はこの距離でもはっきりと思い出せる。

 きっと、昨日見た花畑と花火は、本土に戻っても――仮に魔法界に戻っても忘れないだろう。


「……俺にはもう、ガキ共しかいねぇからよ」


 ぼそりと、アルドフッドが自嘲するように呟いた。


「今度こそ、幸せにしてやんなきゃならねぇんだよなぁ」


 その瞳の中には、在りし日の情景が浮かんでいるのだろうか。

 力に委ねて鬼神の如き活躍を見せていた日々。愛する人と出会って本当の自分に成れて――戦火の最中に、想像しうる限り最悪の死別を迎えた日。

 後悔も失望も、悲憤も絶望も。全てを背負って、彼は子供たちを幸せにしようと誓ったのだ。


 たとえそれが、自己満足と偽善に塗れた贖罪だとしても。永劫に許されない罪を、欺瞞で薄めようとしているだけだとしても。……こんなことをしても、失った命は戻ってこないのだとしても。

 全てを理解した上で、彼は贖いの道を進んでいくのだ。


「……そうですね」


 胸中の痛みを慮りながら、俺はそう呟いた。

 それが、日常の終わりだった。


「……ッッッ!?」


 鋭い金属音と共に、車体が一瞬浮き上がる。車内の物が吹っ飛び、並べられていたトランプが羽のように舞い散った。


 バックミラー越しに見た後方の風景は、こんな長閑な島ではありえないような景色に変わっている。明らかに観光向けではないジープが1台、2台……計4台も、俺たちの車を追跡しているのだ。

 そしてその車からは、明らかにこちらへと狙いを定めた杖が何本も飛び出ていた。


「敵です、警戒態勢をッ!」


 ナイリンの声が響き、俺たちは一斉に懐から杖を抜く。

 その間にも何発も、何十発も、魔法で作られた銃弾が車へと襲い掛かる。耳がイカレそうになるくらいの金属音が車内に轟いて、荒事に慣れていないアイとワムが耳を塞いでいた。


「アルドフッドさん、タイヤを打ち抜かれたら囲まれるぞ!」

「問題ねぇ、装甲車用のコンバットタイヤだからなぁ! 追走劇が長引かなきゃある程度は余裕があらぁ」


 確かに、車のディスプレイには空気圧センサーの異常を示すTPMSの警告が浮かんでいるが、車はさほど支障なく走り続けられている。

 しかし車が即時停止しないというだけで、事態を好転させる報せではない。


「俺が全員ブチのめしてもいいんだが……なぁ、おめぇらよぉ! こん中で車の運転できるやつぁいんのか!? えぇ!?」

「……」


 子供組は勿論だが、ナイリンも首を横に振った。

 当然だ、魔法界には車なんて無骨な乗り物などない。ブレーキだかクラッチだかそんなものを憶えずとも、魔力でどうとでもできるのだから。

 さりとて、停止すればものの数秒で囲まれる。敵の勢力が掴めない今、それは自殺行為に他ならない。敵が化物をも制圧できる戦力を揃えていた場合、死に直結してしまう。


 つまるところ、最大戦力であるアルドフッドを運転手から替えることはできないのだ。

 となると――。


「王子殿、私が奴らを引き受けます」


 そう立候補したのはナイリンだった。4人乗りのジープ4台で16人。彼我勢力差は歴然なのだが、中立国家から派遣された護衛としての矜持があるのだろう。


「致命傷を負わずに制圧できるのか?」

「それが護衛としての本懐でありましょう?」

「……なら任せた。武運を祈る」

「承知致しました。制圧後、疾く戻ります」


 ナイリンは持っていた杖の先を剣へと変化させ、車の扉を開けて、そこから後方に向かって勢いよく投擲する。杖は先頭を走っていたジープのフロントガラスに突き刺さり、放射状の罅を入れる。

 そして彼女はおもむろにジープへと向かって跳んだ。罅割れたフロントガラスを突き破り、運転手の顔面に蹴りをくらわせる――。

 一瞬にして敵に肉薄したナイリンは、己が投擲した杖を手にしながら車の屋根へとよじ登り、ジープ4台のフロントガラスやタイヤを手早く切りつける。斬撃を受けた敵の車が波打つように蛇行し、ぶつかり合い、スピンしたり近くの樹に激突した。


 そんな光景が遠く離れていく。ナイリンが追っ手を引き受けてくれたことで、俺たちは誰にも追われることなく、舗装されていない砂利道を逃げ果せることができた。


 ……しかし、何故だろう。

 誰にも追われていないというのに……全身から嫌な汗が止まらない。


 見てみれば、ハルもアルドフッドも、それどころか魔法使いになって歴が浅いアイまでもが同じ状態になっていた。後方には誰の車もいないというのに、死そのものに追われているような――今の生を勘違いだと思えるような色濃い絶望が迫り来るようだ。


「……化物が来やがるぞ」


 葉巻に火を点けながら、アルドフッドが低い声でそう呟いた。


「幹部クラスの大物だ」






 戦場――ナイリンの抗戦。

 神成山が良く見える、舗装もされていない開けた砂利道。彼女の戦場はそこにある。


 彼女の周りには、ひっくり返った4台のジープと16人の工作員たちがいた。16対1、本来であれば即投降するべき戦力差だ。

 更に悪材料を加えるなら、実はナイリンには魔力の才能がない。一般の魔法使いと比べても魔力の貯蔵量が乏しく、魔法のぶつかり合いでは圧倒的に分が悪いのだ。


 しかし、それは真正面からバカ正直に交戦した場合の話。戦略が戦力差を凌駕する事例は幾らでもある。


「……16人もいれば、勝てると思ったのか?」


 本来最弱であるナイリンが、組織の工作員たちを哄笑する。

 16人なんて小隊にも満たない、分隊レベルだ。一般兵同士の小競り合いならまだしも、中立国家の護衛という軍事専門職にとっては蚊程度の人数でしかない。


「潰してみろよ。……私は弱いからな、一発でも攻撃を当てられれば殺せるぞ?」


 瞬間、ナイリンの姿が喪失する。

 その代わりに……ゼロの工作員たちが16人から17人へと増えていた。しかし10数人もの人数を咄嗟に数えられるわけもなく、工作員たちは一瞬、ナイリンが消えたのだと錯覚する。


 ナイリンの持つ3つの魔法、その1つ目は「変容」だった。己の姿形を自由に変える搦め手寄りの魔法だ。

 彼女は敵の工作員に化け、潜み、そして――。


「ぐうぉおあッ……!」

「ぅうぐッ!」


 何人かの工作員が血を撒き散らし、激しく吐血しながらその場に仰臥する。工作員と化したナイリンが敵の不意を突き、切っ先を刃物に変えた杖で切りつけたのだ。


「あいつだッ、女が化けやがったんだ!」


 当然、そんなに目立つことをすれば即刻見破られてしまうだろう。

 しかし、工作員たちの視線がナイリンに集中した瞬間、彼女の姿が再び消え失せてしまう。


 ナイリンの持つ3つの魔法、2つ目は「転移」だった。己を周囲15メートル以内の場所に転送することができ、更に別の人間と場所を入れ替えることもできる。

 そうして再び姿を晦まし、刃物に変形させた杖を解除し、虎視眈々と敵へ攻撃するチャンスを窺う。


「……杖だ、杖を見ろ! 奴の杖には我らのシンボルが刻まれていない!」


 工作員の一人が野太い声で叫ぶ。

 そう、ゼロに属する者達の杖には0やOに近い紋様が刻まれている。ナイリンが持つ杖は当然、中立国家から支給された量産型の杖のはずだ。

 つまり、紋様が刻まれた杖を持っている者は、味方であることが確定する――。


「なんて話……信じてくれたか?」


 が、再び奴らの体を切り裂いたのは、紋様の刻まれた杖を持つ工作員だった。その表情には隠しても隠し切れない、ナイリン独特の冷酷な笑みが浮かんでいる。


 ナイリンの持つ3つの魔法、3つ目は「音響」だった。己の発する音や声を変化させる補助的な魔法だ。これを用いて声を変え、あたかも敵が弱点を見破ったかのように嘘の情報を流布したのだ。

 ナイリンの手に握られていたのは、紋様が刻まれた杖。敵を騙くらかすため、車を降りる直前に、クロの杖と入れ替えていたのだ。


 変容で姿を変え、転移で場所を変え、音響で声を変える。

 これが魔力をほとんど持たない彼女の手札。……火炎を生み出したり敵を切り裂いたり、そんな攻撃魔法ではすぐに魔力が枯渇してしまう魔力貧者が生き残るために編み出した唯一の戦法だ。

 一度後手に回れば最後、ナイリンを捉えることなどできやしない。


 ……そして、あっという間に工作員が切り伏せられ、とうとう最後の1人となっていた。


「一騎打ちだな。貴様は幸運だぞ。私は他の魔法使いと違って、多人数より少人数相手の方が不得手なのだから」

「……!」


 挑発された工作員が一瞬歯噛みをするが、ナイリンの言い分は真っ当だった。

 1対1では姿と声を変えて紛れることなどできやしない。彼女の得意とする搦め手は全く通用しないのだ。

 つまるところ、単純な実力勝負と相成るが――。


「しかし、まあ、考えようによっては不運かもしれんな」


 勝負は一瞬で決着していた。

 工作員が一歩を踏み出した瞬間、既にナイリンの一閃が轟き、敵の首を刎ねていたのだ。


「不意打ちではなく真正面から切り伏せられたとあれば、己の未熟を悔やみながら没することになるのだろう?」


 少人数の方が不得手、されども彼女は中立国家の護衛。己の戦術に頼らずとも、その腕は確かである。

 僅か数分で、彼女の周りには16体の骸が並んでいた。敵もまた荒事には慣れた連中であるが……かつて地獄の戦火を生き延びた者の胆力には及ばない。


「さて、王子殿に合流するか。……いや、他の追っ手を捜索して排除するべきか? ここまで大掛かりなことをして、下等兵を仕向けるだけで終わるはずが……」


 剣と化していた杖を元に戻しながら、ナイリンがそう呟いた。


 その、瞬間だった。


「……ッッッ!」


 突如、黄金色の軌跡を描きながら、雷がナイリンの腹を掠めた。

 空から降り注いだ天の怒りではない。……神成山方面から斜め上より真っ直ぐ飛来した、明らかに人為的に生み出された雷だ。しかしマズルフラッシュのような光が轟いた場所からの距離は1000ヤードも離れている。


 それは雷魔法による長距離狙撃だ。

 転移魔法を中心とする攪乱作戦に最も適した対応法は、殺気すら悟れないほどの長距離から制圧すること。反撃の余地がなく、一方的に敵を追い詰めることができるのだ。


「狙撃兵がいたか……ッ!」


 ――雷の着弾地点より900メートルほど離れた、雷魔法の発射場所。

 そこには鉄パイプで作られた櫓が聳え、最上階では杖を狙撃銃代わりに構えているマドーサ・Ф・イエンディッドの姿があった。杖に取り付けられたスコープには、掠めた横腹を押さえるナイリンの姿がありありと写っている。


「ほほ……内勤のホワイトカラーと言えども、狙撃くらいはできるのですよ。へへ、へへへへへへっ、へへへへへ……」


 白兵戦が怖いからという情けない理由で遠距離射撃の訓練を選んだ彼だが、今だけはその選択が丁度よく嵌っていた。今やナイリンは俎板の上の鯉、一方的に狙撃されるトレーニング用の案山子と同じだ。


「確かあの女は確か中立国家の護衛でしたねぇ。……ふふ、うふふふ、抵抗できないように両手両足の神経を焼き切って芋虫にしてあげるからねぇ……」


 マドーサのスコープが、ナイリンの右足の付け根を捉える。彼の雷が命中すればナイリンの右足は完全に神経を断裂され、二度と自分の意思では動かせなくなるだろう。

 もしも両手両足を打ち抜かれれば、這いずることすらできない蛆虫の出来上がりだ。後は常軌を逸した気狂い共に地獄の拷問を受け、情報を吐くか人格を完全に壊されるかのどちらかを選ばざるを得なくなる。


 マドーサの持つ杖が閃光を発し、音を置き去りにしながら雷を撃ち放つ――。


「……ッ!」


 着弾地点、攻撃の気配を感じ取ったナイリンが横っ飛びに回避し、敵との距離を目測で測る。距離は1000ヤードほど、攻撃を仕掛けられる距離ではないし、接近しても容易に逃走されるだろう。

 相性の悪さを確信したナイリンは、相次いで飛来する敵の攻撃を回避しながら、射線を切るために近くの林に向かって駆けていく。狙撃手の弱点は環境に干渉し辛いこと、敵の潜伏場所が分かっても燻し出すことが困難なのだ。


 教科書通りとも呼べる対策に、マドーサは喉奥で低く笑う。


「ほう……実戦経験が豊富なようでご立派ですねえ。花丸をあげましょう」


 先ほどから連発している雷を全て回避されても、彼の意地悪い嘲笑は消えない。まるで回避されることが目的であったかのように。


「でもねぇ、狙撃の醍醐味はこれなんですよ。……『安全圏から敵を動かせる』こと」


 …………遂に、マドーサの銃撃を避け切ったナイリンが、林に転がり込んで射線を切ることに成功する。

 太陽光を遮るほど鬱蒼とした林は、潜伏先としてうってつけだった。ナイリンは息を整えながら、ふところの携帯電話を取り出して、クロたちに狙撃手の存在を伝えようとする――。


「サーイノン・ナイリン元一等兵か」

「……!」


 不意に彼女の名を呼んだのは、1人の老人だった。

 漆黒の和装に身を包み、皴だらけの顔を険しく歪め、髪の毛一つ無い頭を揺らしながらナイリンに近づいていく。その手には色濃い筋が刻まれた鎬造りの日本刀が握られていた。


 ……ただそれだけなのに、老い先短い老年者が刀を持っているだけだというのに、ナイリンは足を動かすことさえできなくなる。


「………………鬼龍國景………………」


 その男こそが――77年間無敗を誇る、世界最強の人間。歴史や世界史に興味のないナイリンだって――それどころか、魔法界にあまねく全ての人間が彼の実力を知っている。

 しかし、彼がゼロの幹部であることは、ほんの一握りの人間しか知らない。


 視線が交差した瞬間、ナイリンは全てを悟る。

 あの荒くれた狙撃は、彼女をここへと誘導するための罠だったのだと――!


「……………………!」


 ナイリンの視界から鬼龍の姿が消える。油断していたわけでも、現を抜かしていたわけでもない。ただただ夢幻かのように、目の前の男が消失したのだ。


 彼女には何も見ることはできなかった。……だから、その意識が途切れるまで……自分の全身が斬られ、夥しく出血していることにさえ気づかなかった。

 全ては1秒にも満たない戦闘。ナイリンは音速の刃で意識を閉ざされ、自らの血だまりに溺れるばかりだった。


 そんな彼女の姿を一瞥もせず、鬼龍が無線機に向かって声を発す。


「儂だ。護衛は排除した、アルドフッドの座標へと転送しろ」


 障害となる敵を排除し終えた鬼龍が、いよいよアルドフッドを仕留めに向かう。

 しかしもう一人の幹部は、既にアルドフッドとの会敵を済ませていた……。




 俺たちを乗せた車は、道路や砂利道なんかではなく、もはや森の中を突っ走っていた。道の状況があまりにも悪く、根上がりした木の根を踏みつけるたびに車が跳ね、比較的軽いワムやアイが数センチほど飛び上がる。


「ワム、アイ! お前らは吹っ飛びかねないからグリップに掴まってろ! ハルは重いからそのままでいい!」

「ブチ殺すわよ!」


 車の外からだけではなく身内からも殺気を飛ばされつつ、アルドフッドの運転する車は森の中をどこまでも進んでいく。今の俺たちに目的地など無い、できるだけ悪路を選んで奴らを撒くことしか考えていないのだ。

 しかし逃げきれない。後方から漂う化物の気配は、どれだけアクセルを踏み込んでも振り切ることなどできなかった。


 やがて――1台の車が姿を現す。先ほどの工作員たちが乗っていたジープではない、こんな森の中にはあからさまに場違いなロールスロイス。……しかもファントムだ。

 その運転席に乗っている男は、アルドフッドと同じグルカの葉巻を銜えていた。サイドウィンドウが開くと同時に、色濃い煙が濛々と空へと立ち昇る。しかしそんな葉巻の煙に巻かれても、奴の体から漂う血と肉の香りは消えないようだった。


 ……その実力を確かめずとも理解できる。この男はアルドフッドと同じ『化物』なのだ。


「よォ盟友! ……久しいじゃねぇか……悦ばしいなァ!」


 化物は笑う。同じ化物には親愛なる心境を感じさせるような、魔法の素人には死の予感を感じさせるような、好意と殺意を相混ぜにしたような危険な表情だった。


 男の顔を見て――アルドフッドの口から葉巻が零れ落ちた。その男はかつての変装を解いているのであの頃とは顔が変化しているが、それだけのことで間違えるわけもない。アルドフッドは幽霊でも見たかのように目を見開き、唇を戦慄かせて、情けない声を喉奥から漏らす。


 それは『幽霊でも見たように』ではなく、彼にとっては本当に幽霊との対面だったのだろう。

 死した人間との再会など、本来あり得るはずがないのだから。


「……スカーレット……ッッッ!」


 スカーレット・V・ドレッドノート。かつてアルドフッドの相棒として共に戦場で暴れ、己の死を偽装し、姿を消した男。

 かつて誰かがこの男のことを、こう表現した。

 紛れもなく世界最悪の男であると――。

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