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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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王太子の政治戦争

 大理石の床と柱が冷気を蓄えている。金箔で縁取られた天井が高く、発言者の声を反響させるように設計されている。しかし今日のレオンハルトの声を反響させたのは建築ではなく、議場に満ちた敵意だった。


「辺境ヘルムガルド領への王国軍増援派遣を緊急動議として提出する」


 レオンハルトの声が議場に響いた。正面の壇上に立ち、百二十名の議員を見下ろす。王太子の特権——緊急動議の提出権。しかし、提出できることと可決できることは別の問題だ。


 最初に手を挙げたのは、予想通り商務大臣ノーヴァルだった。カーティスの父。銀髪を撫でつけ、葉巻の匂いをまとった壮年の貴族が、鷹揚な笑みを浮かべて立ち上がった。


「殿下のご懸念は理解いたします。心よりお見舞いを——しかし、辺境の魔獣問題は地方の問題です。王国軍はあくまで王国全体の防衛のために存在する。一領地の問題に動員すれば、他の辺境からも同様の要請が殺到しましょう。前例を作るわけにはまいりません」


 議場にざわめきが広がった。商務大臣の論理は一見正しい。一領地の問題に王国軍を動かせば前例になる。しかし——千体の魔獣が一領地の問題か。二千の領民の命が地方の問題か。


「千体の魔獣群は、一領地の問題ではない。百年周期の大侵攻だ。辺境が陥落すれば、魔獣は内陸に流入する。ヘルムガルドは防波堤だ。防波堤が崩れれば、王都に波が届く」


 レオンハルトの反論に、議場の空気が揺れた。しかし商務大臣は動じない。


「百年周期の根拠は。学術的な裏付けはあるのですか」


「ある。辺境に派遣された王立学術院の研究員——エミル・ファーレンハイトの報告書だ」


 エミルの名が議場に響いた。フリッツが用意した報告書の写しが議員に配布される。百年周期の魔力循環。魔核の活性化。魔獣の異常行動。全てが数字と図表で示されている。


 議員たちが報告書に目を通す間、レオンハルトは議場を見渡した。前列の貴族議員たちは渋い顔をしている。後列の地方代表議員たちは——不安げだ。辺境が陥落すれば次は自分たちの領地かもしれない。その恐怖を、数字で裏付けてやればいい。


「補足する。魔獣が内陸に流入した場合の被害試算がここにある。周辺三領地の農地被害、交易路の遮断、避難民の発生。試算額は年間国庫収入の一割を超える」


 数字が議場の空気を変えた。人命では動かない議員も、国庫の数字では動く。それが政治という名の戦場だ。セラフィーナなら——彼女なら、最初からこの手法を使っただろう。帳簿の数字で人を動かす。その技術を、彼女から学んだ。





 同じ頃、王都の北区にあるノーヴァル邸の書斎では——別の計算が行われていた。


 カーティス・ノーヴァルが父の机の前に立っている。葉巻の煙が書斎の天井に渦を巻く。父子の顔は似ていない。しかし計算高い目だけは瓜二つだった。


「辺境が壊滅すれば、ヘルムガルド鋼の鉱山利権は無主になります」


 カーティスの声には、人命への配慮が欠片もなかった。


「領主が死ねば領地は王家に帰属する。しかし——鉱山の採掘権は別途競売にかけられる。そこに我が家が入札すれば」


「大した息子だ」


 商務大臣が葉巻の灰を落とした。称賛でも皮肉でもない、純粋な利害の一致を認める声だった。


「ただし——王太子の動議を完全に潰すのはまずい。世論が動く。辺境が壊滅したあと、『ノーヴァル家が反対したせいだ』と言われてはたまらん。かと言って、手放しで可決させれば辺境が生き残ってしまう」


「条件をつけましょう。増援と引き換えに、辺境の経営権監査を付帯条件に入れる。戦後に監査を実施し、不正が見つかれば——領地を没収できる」


 カーティスの唇が笑みの形を作った。窓の外では王都の街灯が整然と並んでいる。この男の目には、辺境の領民二千人の命など街灯の一つ分の価値もないのだろう。


「あの女——セラフィーナは帳簿で辺境を立て直した。ならば帳簿で奪い返せばいい。同じ武器で」


 帳簿を武器にするのはセラフィーナだけではない。帳簿は守るためにも、奪うためにも使える。道具に善悪はない。使う者の意志が善悪を決める。





 レオンハルトの執務室。深夜。


 机の上に羊皮紙が広がっている。議員の名前と立場を書き出した一覧表。賛成確実が四十二名。反対確実が三十八名。残りの四十名が浮動票。この四十名のうち二十一名を説得すれば可決する。


 フリッツが紅茶を置いた。


「殿下。お体に障ります」


「セラフィーナは毎日これをやっていたのだな」


 帳簿を開く手が一瞬止まった。セラフィーナの帳簿。数字を並べ、分類し、法則を見つけ出す。あの手法を——今、議会対策に転用している。


 浮動票の四十名を分析した。各議員の領地の経済状況。過去の投票傾向。家族構成。取引先。セラフィーナが教えてくれた「帳簿の向こうに人を見る」という手法が、そのまま議会工作に使える。


 ペンを走らせた。セラフィーナの筆跡を真似ているわけではない。しかし——数字の並べ方が、彼女に似てきている。整然と。論理的に。感情を排して。


「フリッツ。余がこれほど帳簿に向き合うことになるとは、半年前には想像もしなかった」


「殿下は変わられました」


「変わったか」


「ええ。かつての殿下は——失礼ですが、形式で政治をなさっていた。今は信念で動いている。その信念の根にあるのが——あの方なのでしょう」


 セラフィーナのために。その言葉は口に出さなかった。しかしフリッツは全てを見ている。従者とはそういう生き物だ。主人の心を映す鏡。


「……一人の領主の命を守るために、王太子が議会と戦う。父上は滑稽だと仰るだろう。議員たちもそう思っているかもしれん」


「滑稽とは思いません。それが殿下にとっての政治なのだと、この半年間お仕えして、やっと理解いたしました」


 フリッツが一礼して退室した。足音が廊下に消えていく。





 翌日の採決。


 議場の緊張が最高潮に達していた。レオンハルトは前夜の分析に基づき、浮動票の議員を一人ずつ説得して回った。経済的利益。安全保障。そして——人道的責任。三つの論点を相手に合わせて使い分けた。


 採決の鐘が鳴った。銀の鐘が澄んだ音を議場に響かせる。


 賛成。反対。賛成。反対。


 票が積み上がっていく。フリッツが廊下で票数を数えている。羊皮紙に正の字を書き込んでいく手が震えている。主人の命運がかかった一票一票だ。


 レオンハルトは壇上に立ち、正面を見据えている。表情を変えない。王太子の威厳を崩すわけにはいかない。しかし——拳を握りしめた右手の骨が白く浮いていた。脳裏に浮かぶのは、辺境から届いた最後の鴉便だ。セラフィーナの筆跡。整然とした数字の羅列と、最後に一行だけ添えられた言葉。「こちらは大丈夫です」——嘘だと知っている。千体の魔獣に対して大丈夫なはずがない。


 最終票が投じられた。


「賛成六十一。反対五十九。本動議は可決」


 議長の声が響いた。一票差。


 賛成の喝采が上がった。しかし——レオンハルトの目は喝采の向こうにいる一人の男を見ていた。カーティス・ノーヴァルが、席に座ったまま笑っている。敗者の顔ではない。勝者の顔ですらない。罠を仕掛けた者の顔だ。


「付帯条件を確認いたします」


 議長が読み上げた。


「増援派遣の条件として——戦後に辺境ヘルムガルド領の経営権監査を実施する。監査の結果、重大な不正が認められた場合は領地の帰属を再審議する」


 議場がざわめいた。経営権監査。領地の帳簿を全て開示し、不正があれば領地を没収できる。これは——勝利に仕込まれた毒だ。戦後にセラフィーナの領地を奪う法的根拠を、カーティスが採決の中に埋め込んだ。


 異議を唱えれば、可決そのものが覆る。一票差だ。付帯条件を拒否すれば、反対票が一つでも増えて否決になる。飲むしかない。


 レオンハルトはカーティスを見た。視線が交差した。カーティスは余裕の微笑を返した。


 増援は勝ち取った。しかし——戦いが終わった後に、別の戦いが待っている。


 執務室に戻り、鴉便の紙を広げた。辺境に送る報せ。増援は来る。しかし、その後に監査が来る。セラフィーナは——あの聡明な令嬢は、帳簿の戦いなら負けないだろう。しかし政治の戦いは帳簿だけでは済まない。


 ペンを走らせた。「生きていてくれ」とは書かなかった。前にそう書いた。今度は行動で示す番だ。


「援軍を送る。二百名の歩兵と五十名の弓兵。到着まで五日。そして——余も、必ず行く」


 インクが乾くのを待ちながら、窓の外を見た。王都の空は穏やかだ。星が瞬いている。しかし北の方角に——辺境の空に、赤黒い光が見えるような気がした。気のせいだと思いたい。しかし、帳簿の数字が全てを物語っている。千体の魔獣は現実だ。


 手紙を丁寧に折り、封蝋で閉じた。赤い蝋が固まる間に、フリッツが既に早馬の手配を終えていた。


「フリッツ。五日だ。五日で辺境に着く」


「はい。殿下の馬を最速のものに替えておきます」


 五日。セラフィーナが持ちこたえてくれる時間。ルキウスの防衛線が三日持つと言った。残り二日は——彼女の知恵と、辺境の全員の意志に賭けるしかない。

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