宮廷の裏側——レオンハルトの選択
黒い鴉が窓枠に止まり、脚に巻きつけた小さな筒を差し出した。レオンハルトが受け取り、封を切る。フリッツが即座にインクと羽根ペンを用意した。返信用だ。この従者の手回しの良さは、今や秘密の共有者としての責任感にも支えられている。
レオンハルトの表情が変わった。穏やかだった目に、王太子としての硬さが戻る。
「王都から急使だ。改革派と保守派の対立が議会で表面化している。フリッツ、内容を読め」
フリッツが書簡を受け取り、声を落として読み上げた。
「改革派が宰相閣下の弾劾決議案を準備中。保守派が対抗策として軍事予算の増額法案を提出。議会は紛糾。王太子殿下の帰京が求められている——と」
弾劾決議案。父アルベルトが弾劾される可能性がある。改革派の攻勢は、昨日まで想像していたより遥かに深刻だった。
レオンハルトが立ち上がった。
「帰京する。明日の朝に出発する」
食堂が静まった。全員がレオンハルトの顔を見ている。ルキウスが椅子の背に腕を置いた。エミルが眼鏡の位置を直した。ヨハンがスープの匙を止めた。
「殿下、議会の調停ですか」
「ああ。王太子が議会に出れば、少なくとも弾劾決議は保留にできる。保守派と改革派の間に立って——」
「殿下がいなくなれば、辺境の政治的後ろ盾が弱くなりますわ」
率直に言った。甘い言葉は要らない。レオンハルトも甘い言葉を求めていない。
「わかっている。だが——王都で議会が崩れれば、辺境どころではなくなる。国そのものが揺らぐ」
正しい判断だった。前世の経験で言えば、本社が倒れれば支社も道連れだ。辺境だけを守っても、王国全体の政治基盤が崩壊すれば全てが瓦解する。それはゲームの知識ではなく、経営者としての直感だ。
「殿下にはあなたの戦場がありますわ。私にはここでの戦場がある。それぞれの場所で、やるべきことをやりましょう」
レオンハルトがこちらを見た。真っ直ぐな目。以前なら王太子の威厳だけが宿っていた瞳に、今は別の感情が混じっている。守りたいものを残して去る男の目だ。
「……ああ。そうだな」
◇
食堂を出た後、ギュンターが廊下で待っていた。
「お嬢さん、殿下の帰京——王都の情報が入ったよ」
「何が」
「フェルディナントからだ。改革派の弾劾決議案は本物だが、目的は弾劾そのものじゃない。弾劾をちらつかせて宰相閣下を交渉のテーブルに引きずり出すのが狙いだ。つまり——政治的な取引の前段階だよ」
「取引の内容は」
「改革派が求めているのは、商務大臣ノーヴァルの更迭だ。ノーヴァルを切れば弾劾は取り下げる。宰相閣下にとっては腹心を切るか、自分が切られるかの二択になる」
政治の力学が見えてきた。改革派はアルベルトを倒したいのではなく、ノーヴァルを排除したい。ノーヴァルが消えれば、辺境への商業攻撃も止まる可能性がある。
「殿下の帰京は——その取引の仲介になる」
「そういうことだ。殿下が間に入れば、体面を保ちながら妥協できる。政治家は体面が全てだからな」
レオンハルトの帰京が、単なる義務ではなく辺境にとっても利益になりうる。その計算が頭の中で組み上がった。
◇
出発の準備は素早かった。フリッツが荷物をまとめ、ルキウスが護衛の手配を申し出た。
「王都までの道中は俺が——」
「いや、お前は辺境に残れ」
レオンハルトがルキウスを制した。
「ルキウス、辺境の防衛はお前にしか任せられない。護衛隊の訓練も半ばだ。余の護衛は近衛の二名で足りる」
ルキウスの顎が引き締まった。反論したいのだろう。しかし命令だとわかっている。
「……了解した。殿下の道中の無事を祈る」
「祈りは教会に任せておけ。お前は剣を振れ。辺境の盾は、お前だ」
ルキウスが鼻で笑った。二人の間に、短いが確かな信頼の交差があった。
エミルがレオンハルトに封書を渡した。
「王立図書館の禁書目録にある文献のリストです。帰京されたら確認してください。教会の『異界接続論』の完全版が、目録のどこかにあるはずです」
「わかった。文献探しは——余の得意ではないが」
「フリッツ殿がいらっしゃいます。彼なら図書館の検索は得意でしょう」
フリッツが手帳にメモを取った。「王立図書館・禁書目録・異界接続論」。表向きは学術調査。しかし実態は、セラフィーナの命を守るための情報収集だ。フリッツの手帳に、秘密の重さが新たに一行加わった。あの白紙だったページが、今は使命で埋まっている。
◇
夜。出発前夜。
領主館の屋上から、レオンハルトが北の空を見ていた。私が上がった時、彼は欄干にもたれて星を数えていた。
「眠れませんの?」
「考え事をしていた」
並んで欄干に肘をついた。北の空に微かな光がまだある。魔獣の気配か、魔力脈の活性化か。エミルが「注視が必要だ」と言っていたあの光。
風が吹いた。辺境の夜風は冷たく、しかし乾いている。王都の湿った空気とは違う。松脂と凍った土の匂いが混じった、この辺境だけの夜の匂い。この空気に慣れてしまった自分がいる。むしろ、もう他の場所の空気では呼吸できない気さえする。
「セラフィーナ」
レオンハルトの声が静かに響いた。星明かりの下で、横顔が青白く浮かんでいる。
「はい」
「処刑の運命を——お前はまだ恐れているか」
不意打ちだった。しかし不意打ちだからこそ、嘘がつけなかった。
「……恐れていますわ。毎日」
「余もだ。お前の運命を知ってから——毎晩、それを考える」
レオンハルトの声が掠れていた。王太子ではなく、一人の男の声。
「余が王都で戦うのは、この国のためだ。王太子としての義務だ。だが——正直に言えば、それだけではない。お前がここで築いたものを守るためでもある。お前の帳簿が、お前の商業圏が、お前の仲間たちが——全て、処刑の運命を書き換えるための武器だろう。一つ一つの事業が、お前の命を繋ぐ盾だ。その武器を、その盾を、政治の波で壊させはしない」
胸が痛かった。この人は全てを理解している。転生の秘密も、処刑の恐怖も、辺境の事業が生存戦略であることも。理解した上で、自分にできることをしようとしている。
「殿下……」
「レオンハルトでいい。二人きりの時は」
「……レオンハルト」
名前を呼んだ。初めて、敬称なしで。名前の響きが、夜の空気に溶けていく。
「余は必ず戻る。議会を収め、宰相閣下との交渉を終えたら——必ずここに戻る。約束する」
「王太子が一介の領主代行に約束を?」
「王太子としてではない。レオンハルトとして」
その言葉の重さが胸に落ちた。王太子の約束は政治的拘束力を持つ。しかしレオンハルト個人の約束は——もっと深い場所に届く。
「信じていますわ」
「嘘をつくな。お前は信じるのが下手だろう」
「……ええ。下手ですわ。前世では誰も信じられなかった。上司の約束は破られ、同僚の言葉は建前で、誰も本当のことを言わなかった。退職の挨拶メールすら、テンプレートだった。でも——今は」
言葉が途切れた。今は、と言いかけて、その先が出てこなかった。
信じたい。この人を。ここにいる全員を。しかし「信じる」という行為そのものが、前世の佐藤凛には欠けていた筋力だった。使わなかった筋肉は衰える。信じなかった心は、信じ方を忘れる。
レオンハルトが微かに笑った。
「それでいい。言葉にできない時は、無理に言わなくていい」
二人の間に沈黙が流れた。北の空の光が微かに揺れている。星々が無数に瞬いている。辺境の夜空は、王都では見られないほど星が近い。手を伸ばせば届きそうな光の群れ。
前世では星を見上げる余裕すらなかった。残業で深夜に帰宅し、空を見る前にドアを閉めていた。この世界に来て初めて、星を綺麗だと思った。そしてその星を、今は隣にいる男と一緒に見ている。
「明日、見送りには来るな。門前で立ち話は好まない」
「来ますわ」
「……頑固だな」
「お互い様ですわ」
屋上を降りた。階段の途中で振り返ると、レオンハルトはまだ欄干にもたれて空を見ていた。その背中が、いつもより小さく見えた。王太子の鎧を脱いだ、一人の男の背中。
明日、この人は王都に戻る。政治の嵐の中に。議会を収め、父と交渉し、ノーヴァルの処遇を決める。その全てが、遠く離れた辺境にも影響する。政治の糸は、どこまでも繋がっている。
私はここに残る。教会と父の影の中に。母の研究ノートを読み解き、エミルと教会の対策を練り、リリアーヌを守り、ナターリアの返事を待つ。やるべきことは山のようにある。
それぞれの戦場で、それぞれの戦いを。遠く離れていても、同じ空の下で。




