異母妹の涙文字——ナターリアからの密書
「セラフィーナ様、行商人が変なものを置いていきました」
ヨハンの手には粗末な麻布の包みがあった。汚れた布に不釣り合いな結び方——几帳面に角を揃えた蝶結び。庶民の荷物に貴族の仕草が混じっている。
「行商人? この時期にヘルムガルドまで来る行商人は珍しいですわね」
「はい。小柄な男で、門番に『お嬢様に届け物だ。受取の証文はいらない』とだけ言って、代金も受け取らずに去ったそうです」
慎重に包みを開けた。結び目を解く指先に、麻布の粗い繊維が引っかかる。麻布の下から、上質な羊皮紙の便箋が現れた。薔薇の香水が微かに残っている。甘く、しかし奥にほんの少し青い苦みを含んだ香り。この香りには覚えがある。ゲームの記憶——ナターリアの部屋に飾られていた薔薇のポプリ。
封蝋はない。代わりに便箋の端に小さな百合の押し花が挟まれていた。乾燥した花弁が紙に淡い染みを残している。ヴァルトシュタイン家の紋章には百合が含まれる。正式な封蝋を使えない代わりに、押し花で差出人を示している。
ナターリアからだ。
父の公式書簡とは対照的に、この手紙は父の目を盗んで出されたものだ。正規の郵便を使えば、公爵家の事務方が内容を確認する。封蝋を押せば公爵家の記録に残る。だから行商人という非正規の経路を選んだ。十六歳の少女が、父の監視網を搔い潜って姉に手紙を出す——その事実だけで、ナターリアの追い詰められた状況が伝わってくる。
◇
私室の扉を閉め、便箋を広げた。
ナターリアの筆跡。丸みを帯びた、まだ少女らしい文字。しかし書き出しの数行は整然としているのに、途中から文字が震え始めている。
——姉上様。このお手紙が届くかどうか、わかりません。
最初の一行で胸が締めつけられた。便箋を持つ手に、無意識に力がこもる。
——父上が、王太子妃候補として正式に推挙なさいました。社交界ではもう噂になっています。「宰相閣下のご令嬢」として挨拶を受けるたびに、私は姉上の代わりだと思い知らされます。
——皆様が私を見る目は、姉上を見る目と同じです。公爵令嬢としての価値を測る目。宝石の鑑定をするような目。私がどれだけ微笑んでも、どれだけ礼儀正しくしても、視線の奥にあるのは査定です。
——舞踏会では三家の令息から踊りを申し込まれました。どなたも私ではなく、父上の権力と踊っていました。
——でも私は姉上のようにはなれません。帳簿も読めません。商売の才覚もありません。社交の場で気の利いた切り返しもできません。父上の期待に応えられる器ではないのです。
便箋の中ほどに、涙で滲んだ箇所があった。インクが水に溶けて、数文字が判読できない。泣きながら書いたのだ。十六歳の少女が、一人きりの部屋で。
——姉上は自分で道を選びました。婚約を破棄し、辺境に行き、自分の力で生きている。それがどれほど眩しいか、姉上にはわからないでしょう。
——私にも、自分で選ぶことができたら。
その一行で、便箋を持つ手が止まった。
自分で道を選んだ。ナターリアはそう思っている。しかし現実は違う。私は処刑を避けるために逃げただけだ。自由を求めたのではなく、死を避けた。その結果としての辺境であり、その結果としての起業だ。ナターリアが憧れる「自由に生きる姉」は、虚像にすぎない。
しかし——虚像であっても、ナターリアの苦しみは本物だ。政治の駒として消費される少女の悲鳴が、この便箋には染みついている。インクの滲みが、文字の震えが、押し殺した嗚咽が、紙の上に全て残っている。
前世の佐藤凛には兄弟がいなかった。妹という存在を持ったことがない。だからこの感情にどう名前をつければいいのか、わからない。しかし胸の奥で何かが軋んでいる。守りたい、と思っている。会ったこともほとんどないこの少女を。
便箋を膝の上に置いた。薔薇の香りが指先に移っている。紙が温もりを持っているような錯覚があった。ナターリアの体温がまだ残っているかのように。ナターリアが毎日この香りの中で暮らしていること。その部屋の中で、一人で泣いていること。王都の華やかな社交界の裏側で、十六歳の少女がどれほど孤独だったか。想像するだけで、胸が痛い。
便箋の最後に、途切れた一文があった。
——母上——義母上のことではなく、姉上の本当のお母様のことを、父上は今でも時折書斎で……
そこで文章が途切れている。何かを書こうとして、思い直して止めたのだ。インクの滲みが不自然に途切れている。
母のこと。エリザベート。私が知らない実の母。ゲームでは「病弱な公爵夫人」としか描写されなかった女性。父アルベルトが今でも書斎で——何をしているのか。
父が書斎で何をしているのか。亡き妻の遺品を眺めているのか。それとも——何か別のものを。
新たな謎が、手紙の最後の一行に潜んでいた。ナターリアは何を書こうとして止めたのか。父の書斎で目にした何かが、十六歳の少女には言葉にできなかったのか。
◇
夕刻。台所に向かった。
ヘルガの領域だ。鍋の中でスープが煮込まれていて、根菜と鶏肉の匂いが湯気とともに広がっている。ヘルガは調理台で玉葱を刻みながら、セラフィーナの足音だけで来訪者を察した。
「お嬢様、座りな。スープができるまでにはまだかかる」
「ヘルガ、昼間の行商人の件——あの手紙の配達経路を調べてくださいましたか」
ヘルガの包丁が一瞬止まった。間を置いて、再開する。
「調べたよ。行商人は三人の手を経てここに辿り着いている。最初の一人は王都の古書店の主人。次が街道沿いの宿屋の女将で、ここの常連客にそっと託した。最後がさっきの行商人。三段階の中継を組んでいる。素人の仕事じゃない。各中継点では手紙の中身を知らされていない。差出人も伏せてある」
「誰がこの経路を作ったのですか」
「ナターリア様本人じゃないね。十六歳の令嬢がこれだけの中継網を組むのは無理だ。背後に協力者がいる」
ヘルガが包丁を置いた。布巾で手を拭き、セラフィーナに向き直った。深い皺の刻まれた顔に、珍しく逡巡の色が浮かんでいる。
「協力者は公爵家の侍女だよ。名前はグレーテル。古参の侍女で、ナターリア様の身の回りの世話をしている」
「グレーテル……」
「あの人は——先代奥様の元侍女だよ。お嬢様の本当のお母様、エリザベート様に仕えていた人だ」
空気が変わった。煮立つスープの湯気が白く立ち上る中で、ヘルガの言葉が重く落ちた。
「母の……侍女」
「ああ。エリザベート様が亡くなった後も公爵家に残った。後妻の下で、じっと。あの人がナターリア様の世話を買って出たのは——多分、エリザベート様の忘れ形見であるお嬢様を、遠くからでも見守りたかったからだろうね」
母の侍女が、異母妹の世話をしている。そしてその侍女が、ナターリアの密書をセラフィーナに届ける経路を作った。
繋がりが見えた。母エリザベートの死後も消えなかった絆が、今になって姉妹を結んでいる。母は死んでも、母が遺した人間関係は生きている。見えない手が、時を超えてナターリアとセラフィーナを繋いだのだ。
「ヘルガ、あなたはグレーテルのことを知っていたのですか」
「知っていたさ。エリザベート様がヘルムガルドにいらした頃から。あの方がここで過ごした日々のことは——いずれ話すよ。今はまだ、時期じゃない」
含みのある言い方だった。ヘルガは何かを知っている。母がヘルムガルドにいた頃の秘密を。しかし今は語らない。この侍女長は、情報を出すタイミングを自分で選ぶ人だ。急かしても無駄だと知っている。
スープが煮立つ音が台所に響いた。ヘルガが鍋の蓋を取り、味見をした。
「うん、もう少しだね。お嬢様、今夜は早く休みな。明日は——客が来るよ」
「客?」
「鴉便が来た。王都から誰か来るらしい。詳しくはまだわからないが——ギュンターが調べている」
父の書簡。ナターリアの密書。そして明日の来客。王都からの糸が、次々と辺境に絡みついてくる。
ナターリアへの返事を書こうと決めた。同じ経路で。グレーテルという見知らぬ母の侍女を通じて。
何を書くべきか。「大丈夫」という嘘か。「来なさい」という招待か。「あなたは一人じゃない」という、前世では誰にも言ってもらえなかった言葉か。
考えながら台所を出た。廊下の窓から、夕焼けが差し込んでいる。茜色の光が石畳に長い影を落としていた。どこか遠くでマルクスの鍛冶の音が聞こえる。規則正しい打撃音が、辺境の心臓の鼓動のように響いていた。この辺境の日常は、まだ平穏だ。しかしその平穏の下で、王都からの糸が静かに張り巡らされている。
私室に戻り、羽根ペンを取った。まだ答えは出ない。しかし一つだけ確かなことがある。ナターリアの手紙を、読まなかったことにはできない。あの少女は、返事を待っている。




