聖光の代価——決戦の刻
オルガが二十株の聖光草を銅の蒸留器に並べている。手際が良い。亡夫から受け継いだ薬学院の精製技術が、指先に染みついている。葉を一枚一枚、正確な角度で切り分け、蒸留水に浸す。聖光草が水に触れた瞬間、葉脈が淡く発光した。
「精製の手順はわかっていますが、これほどの量を一度に処理するのは初めてです」
オルガの声は落ち着いている。しかし額に汗が浮いている。聖光草のエッセンスは通常、一株ずつ丁寧に精製する。二十株を三時間で仕上げるのは——薬学の常識を無視した速度だ。
「精度を犠牲にしていいのですか」
「いえ。触媒として使うなら、純度は九割以上が必要です。一滴でも不純物が混じれば、リリアーヌさんへの反動が予測できなくなる」
エミルが精製室の床に魔法陣を描いていた。蒼い光が線を追い、複雑な幾何学模様を形成していく。触媒回路——聖光草のエッセンスを聖女の力と魔核の間で仲介するための理論的枠組み。エミルの手帳には母の研究ノートから写した数式が並んでいる。
「お母上の理論を基に、触媒回路を設計しました。聖光草のエッセンスを硝子瓶に封じ、リリアーヌさんの聖光を受けて魔核に注入する。直接接触ではなく——光を屈折させるように、力を分散させる」
「レンズのようなものですか」
「近いです。聖女の力をそのまま魔核に叩きつけると、反動で聖女の生命力が削られる。しかし聖光草を介在させれば——力の波長が変わる。魔核に浸透しやすくなり、同時にリリアーヌさんへの反動が緩和される」
セラフィーナは帳簿を開いた。三時間の工程表を書き出す。
第一段階——聖光草の精製。三時間。オルガが担当。ナターリアが補助。
第二段階——触媒回路の最終調整。二時間半。エミルが担当。精製と並行して進める。
第三段階——地下突入。精製完了と同時。セラフィーナ、リリアーヌ、エミルの三名。
その間——ルキウスが城壁の外で陽動。城壁への攻撃を分散させ、地下への突入ルートを確保する。
全ての工程が同時並行で進む。一つでも遅れれば、計画は瓦解する。
前世の四半期決算を思い出した。経理部全員が異なるタスクを同時に進め、一つの締切に向かって走る。あの時と同じだ。ただし——失敗した時の代償が桁違いに大きい。工程表の余白に注記を加えた。「失敗時の代償:全員の命」。インクが震えた。
◇
城壁の上で、ルキウスが精鋭五名と最後の打ち合わせをしていた。
ヘルムガルド鋼の剣が鈍い銀色に光っている。ルキウスの右腕の包帯は新しいものに替えられているが、血が滲み始めている。聖光火傷の痕は——完治していないのだ。それでもこの男は剣を握る。
「城門を開けて出る。目的は陽動だ。魔獣の群れの注意を引き、城壁への攻撃を分散させる。三時間持ちこたえれば——俺たちの勝ちだ」
精鋭の一人が問うた。
「三時間も外で持つのですか、隊長」
「持たせる」
短い答えだった。しかしその二文字に、騎士団長の全ての覚悟が詰まっていた。精鋭たちが頷いた。この男の言葉には、理屈ではない重みがある。戦場で何度も背中を預けてきた信頼。ルキウスが「持たせる」と言えば——持つのだ。
セラフィーナは城壁の上に登った。ルキウスの背中が見える。広い背中だ。何人もの人間を守ってきた背中。聖光火傷の痕が薄く透けている。
「ルキウス殿」
振り返った。傷だらけの顔に、不敵な笑みが浮かんでいる。
「待っていますわ」
「——ああ。戻る」
ルキウスが城門の外に出た。精鋭五名が続く。六本のヘルムガルド鋼の剣が、赤黒い空の下で銀色に閃いた。城門が閉じられる。もう、すぐには戻れない。
すぐに魔獣の咆哮が響き、剣戟の音が重なった。城壁の上から見えた。ルキウスの剣が弧を描き、二体の魔獣を同時に斬り裂いた。返す刃で三体目の首を落とす。精鋭五名がルキウスの背中を守り、扇形の陣形で魔獣の群れに食い込んでいく。
城壁への攻撃が——目に見えて減った。魔獣の群れがルキウスの部隊に引きつけられている。ヘルガの投石班が息をつく余裕が生まれた。老婦人が城壁の縁に座り込み、荒い息をしている。石を投げ続けた腕が限界なのだ。しかし——ルキウスが稼いでくれた時間で、少しだけ休める。
その時、鴉便が届いた。ヨハンが走ってきた。
「レオンハルト殿下からです」
封を切った。レオンハルトの筆跡。力強い、しかし急いで書いた形跡がある。
「『増援二百五十名、三日後に到着する。それまで持ちこたえろ。余は必ず行く』」
三日後。三日後は遅すぎる。しかし——来てくれる。レオンハルトが来る。
「三日? 三時間で終わらせますわ」
声に出して言った。自分に言い聞かせるように。大きな声で。不敵に笑えたかどうかはわからない。しかし——ヨハンが小さく笑った。ヘルガも笑った。城壁の上の領民たちの何人かが、こちらを見て頷いた。
レオンハルトへの返信は書かなかった。書く時間がない。結果で示す。三時間後に——「終わりました」と書く。
◇
リリアーヌが毛布を退けて座り上がった。
ナターリアが慌てて支えた。リリアーヌの顔色はまだ蒼白い。聖光の代償で削られた生命力は、一晩では戻らない。しかし——目の奥に、決意の光が灯っている。
「やります」
静かな声だった。震えていない。
「リリアーヌ。無理をしなくても——」
「セラフィーナ様。私はもう『守られるだけの子供』ではないと——自分で言いました。だから——自分の言葉に責任を取ります」
ナターリアが唇を噛んだ。しかし——何も言わなかった。リリアーヌの手を握り、しばらく放さなかった。やがて静かに指を解いた。
「気をつけてね。絶対に、帰ってきてね」
「うん。約束する」
リリアーヌが微笑んだ。蒼白い顔に浮かんだ笑みは、脆くて、しかし強かった。
地下に潜る準備を整えた。セラフィーナ、リリアーヌ、エミル。三人で地下に降りる。ルキウスは地上で魔獣を引きつけ、オルガは精製室でエッセンスの最終工程を仕上げる。ナターリアがオルガの補助に回る。
エミルが精製の最初の成果物を硝子瓶に詰めた。淡い金色の液体が、暗い精製室で星のように輝いている。全量の精製完了を待たずに出発する。残りはオルガが完成次第、ナターリアが地下に届ける手筈だ。
「時間がありません。最初の五瓶で突入します。残りは後から届けてもらう」
坑道の入口に立った。冷たい風が地下から吹き上がってくる。硫黄と獣臭が混ざった空気。つい数時間前にも通った道だ。しかし今回は——三人の手に武器がある。聖光草のエッセンスという、母が遺した武器が。
リリアーヌの手を取った。冷たい。しかし——握り返す力は強かった。
「行きますわ」
三人が暗闇に踏み出した。坑道の奥で、魔核が脈動している。暗紫色の光が、三人を待ち構えるように明滅している。
坑道を進んだ。前回と同じ道。しかし前回よりも魔力の濃度が上がっている。空気が重い。呼吸するたびに肺の奥が痺れる。壁に手をつくと、岩肌が微かに振動しているのがわかる。魔核の鼓動だ。地下全体が一つの巨大な心臓のように脈動している。
リリアーヌの額の紋章が微かに反応し、淡い白光を放ち始めた。魔核が——聖女の接近を感知している。リリアーヌが足を止めた。
「……聞こえます。何かが——呼んでいる」
「魔核の共鳴です。聖女の力に反応しているんです。怖がらなくていい。触媒があれば制御できます」
エミルの声が穏やかだった。消耗した体で、それでも三人の中で最も冷静でいようとしている。学者の矜持が、この男を立たせている。
封鎖壁の穴をくぐった。母の字が刻まれた充填材が、さらに崩れていた。魔核の脈動で壁が振動し、充填材が粉になって落ちている。母が施した封鎖も、もう限界だった。
巨大な空洞に入った。
魔核が——前回よりも激しく脈動していた。暗紫色の光が空洞全体を染め、壁の教会紋章が不気味に浮かび上がっている。鼓動のたびに空気が震え、足元の石畳が振動する。
エミルが硝子瓶を取り出した。聖光草のエッセンスが魔核の光に反応し、金色の輝きを放つ。
「始めましょう。リリアーヌさん、ゆっくりと力を——」
リリアーヌが両手を上げた。額の紋章が白く輝く。聖光草のエッセンスが呼応するように金色の光を強める。二つの光が交差し——魔核に向かって伸びた。
その瞬間——魔核が咆哮した。
音ではない。空間そのものが歪んだ。暗紫色の光が爆発的に膨張し、空洞の床が割れた。割れ目から——巨大な影が這い出してきた。
魔核の守護者。教会の封印装置が壊れた時に自動的に顕現する防衛機構。体長は十メートルを超える。結晶で覆われた六本の脚が石畳を砕きながら這い出し、天井に届くほどの巨体が空洞を埋めた。頭部に十二の赤い目。暗紫色の結晶が全身を鎧のように覆っている。地核種の上位存在——いや、地核種そのものが守護者の欠片にすぎなかったのだ。
膝が笑った。足が竦んだ。帳簿を抱える腕が震える。しかし——逃げない。逃げたら全てが終わる。
守護者が三人を見下ろした。十二の赤い目が、同時にこちらを睨んでいる。




