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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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全員で守る街

 空は赤黒い。魔獣の瘴気が北の空を覆い、太陽の光を遮っている。城壁の向こうで何かが燃えている。煙が三筋、立ち上っている。


 しかし——城壁は、立っていた。


 セラフィーナは坑道の出口で立ち尽くした。ルキウスとエミルも足を止めている。地下で見た真実が——教会の機密文書が——まだ頭の中で渦を巻いている。しかし目の前の光景が、それを押しのけた。


 城壁の上に人影がある。兵士ではない。エプロンをつけた女性が石を持ち上げている。その隣で老人が熱湯の入った桶を抱えている。子供が——フランツだ——伝令の旗を持って城壁の端から端まで走っている。


「ヘルガが指揮を取ったのか」


 ルキウスが呟いた。声に驚きと、それ以上の敬意が滲んでいる。


「あの婆さん、俺より戦術がわかっている」


 城壁の中央にヘルガの姿があった。白髪を振り乱し、声を張り上げている。


「次の石を用意しなさい! 熱湯はまだあるかい! 北西の角、魔獣が壁を登ってる! 投石班、そっちに回りなさい!」


 六十を超えた家政婦長が、城壁の上で戦場指揮官になっていた。その声は広場の端まで届いている。三十年間、屋敷を仕切ってきた声だ。使用人を束ねてきた統率力が、そのまま戦時の指揮に転用されている。


 鉱夫たちが城壁の下で岩を砕き、女性たちがそれを籠に入れて城壁に運び上げている。子供たちが水を配り、怪我人を野戦医療所に案内している。誰一人、動きを止めていない。


 マルクスの弟子の少年が——あの十五に満たない少年が——鍛冶場の廃材を組み合わせた即席の投石器を城壁の角に据えていた。設計図はない。師匠の教えと、鉄を扱う手の感覚だけで組み上げたのだろう。投石器から放たれた拳大の石が、城壁を這い上がろうとしていた魔獣の頭に命中した。黒い鱗が砕け、魔獣が悲鳴を上げて落下する。


「よっしゃ!」


 少年が拳を突き上げた。その手が震えているのが、ここからでもわかった。


 ギュンターは城壁の南側にいた。自分の商隊の馬車——三台の荷馬車を横倒しにして、城壁の補強材にしている。三十年かけて商いに使ってきた馬車だ。それを迷いなくバリケードにした。商人の財産を、領民の命の盾に変えた。


「ギュンター殿!」


 声をかけた。ギュンターが振り返った。煤と泥にまみれた顔が、笑った。


「おう、お嬢。地下で何か見つけたか」


「見つけましたわ。——終わらせる方法を」


「そいつは良い。こっちはあと二時間が限界だ。石も湯も底が見えてるし、みんな腕がもう上がらなくなってきてる」


 二時間。帳簿の数字に変換する。残りの石材、熱湯を沸かす燃料、投石器の耐久性。矢の在庫。食料。水。そして——城壁の上で戦っている領民たちの体力。全てが二時間で尽きる。


 ふと、城壁の隙間から差し込む光に目が止まった。瘴気の切れ間から、一瞬だけ青い空が覗いている。城壁の根元では、踏み荒らされた地面の割れ目から名も知らぬ野草が芽を出していた。戦場の只中で、それでも春は来ようとしている。ルキウスが城壁に背を預け、束の間目を閉じていた。瞼の下に深い隈が刻まれている。三日間、ほとんど眠っていないはずだ。しかし——呼吸は穏やかだった。戦い慣れた者だけが持つ、一瞬の休息を最大限に使い切る技術。


 城壁の内側に降りた。負傷者たちが壁際に座り込んでいる。包帯が赤く染まっている者、腕を吊っている者、壁にもたれて荒い息をしている者。戦えなくなった者たちも、それぞれの場所で何かをしている。包帯を巻き直す者。矢を束ねる者。水を汲む者。誰も、ただ座っているだけの人間はいなかった。


 オルガが走り回り、残り少ない薬草で応急処置を施している。聖光草のエッセンスは——もう使い切ったのだろう。通常の薬草と清潔な布だけで、出血を止めようとしている。


 ナターリアがリリアーヌの傍にいた。毛布にくるまれたリリアーヌは——目を開けていた。


「リリアーヌ」


「セラフィーナ様。……すみません、まだ体が動かなくて」


 声は弱い。しかし——目に光がある。


「動かなくていいですわ。あなたには、もっと大切な役目をお願いしますから」


 作戦室に全員を集めた。ルキウス、エミル、ギュンター、ヘルガ、オルガ、ヨハン。ナターリアはリリアーヌの傍に残った。


 蝋燭を灯した。窓の外は瘴気で暗く、昼なのに夜のようだ。


 地図を広げた。魔核の位置を書き込む。地下空洞の規模。教会の封印装置の残骸。そして——母の仮説。全員が地図を覗き込んだ。ギュンターが口笛を吹いた。ヘルガの目が細くなった。


「魔核を破壊すれば辺境ごと消し飛びます。鎮静化させるしかない。そのためには——聖女の力が必要です」


 ルキウスの拳が机を叩いた。


「リリアーヌにまた血を吐かせるのか」


「教会はそうしてきましたわ。百年ごとに聖女の命を削って封印を維持してきた。しかし——」


 エミルが眼鏡を押し上げた。予備の眼鏡は度が合っていないのか、少し目を細めている。


「お母上の研究が鍵です。聖光草をエッセンスに精製し、触媒として使う。聖女が直接魔核に力を注ぐのではなく、聖光草を介在させることで負荷を分散できる。理論上は——リリアーヌさんの消耗を十分の一以下にできます」


「理論上は、だろう」


 ルキウスが低く言った。


「実験データはありません。しかし——エリザベート様の研究ノートには、聖光草の魔力緩衝効果の数値が記録されています。計算上は成立する」


 帳簿を開いた。薬草園の在庫記録を確認する。聖光草の収穫量。エッセンスの精製に必要な量。オルガが備蓄している分と、薬草園にまだ植わっている分。


「オルガ殿。聖光草のエッセンスは——」


「使い切りました。しかし——薬草園に聖光草がまだ二十株ほど残っています。エッセンスに精製するには三時間かかります」


 二時間で城壁が持たなくなる。エッセンスの精製に三時間。一時間足りない。


「ルキウス殿。一時間、稼いでください」


「一時間か」


 ルキウスが立ち上がった。右腕の包帯に血が滲んでいる。聖光火傷の傷は完治していない。しかし——剣の柄を握る手に迷いはない。


「一時間なら——俺が城壁の外に出る。魔獣の注意を引く。城壁への圧力を減らせば、領民たちの防衛は持つ」


「一人で外に出るのですか」


「精鋭を五人つける。六人で一時間——やれる」


 ヘルガが口を開いた。


「投石班は私が持たせる。石が尽きたら——城壁の石畳を剥がしてでも投げさせるよ」


 ギュンターが頷いた。


「バリケードの補強材はまだある。倉庫の棚板と酒樽を使う。俺の秘蔵の赤ワインも——まあ、生きてりゃまた買える」


 全員が動き出した。ルキウスが精鋭五名を選び、城壁の外に出る準備を始めた。オルガが薬草園に走った。ヘルガが城壁の上に戻り、投石班に新たな指示を出している。ギュンターが倉庫の在庫を漁り始めた。


 エミルだけが残った。地図の上の魔核の位置を見つめている。


「エミル殿。計算は合っていますか」


「合っています。しかし——一つだけ不確定要素があります。聖光草のエッセンスを触媒にする場合、リリアーヌさんと魔核の間に——誰かが立つ必要がある。触媒を手に持ち、聖女の光を中継する役目です。魔力の知識がある人間が望ましい」


「それはエミル殿が」


「いえ。魔力の消耗で——正直、僕の体では持ちません。三日間ほとんど眠らず魔術を使い続けた代償です。触媒の中継には数分間の集中が必要ですが、今の僕では一分も持たない」


 沈黙が落ちた。魔力の知識があり、体力が残っている人間。この辺境にそんな人間は——。


「母の研究ノートを読みましたわ。聖光草の性質も、魔力脈の構造も」


 エミルの目が見開かれた。


「セラフィーナ殿。あなたは——魔力を持っていない。触媒の中継は魔力なしでもできますが、魔核の圧力を直接受けることになる。生身で。防御なしで」


「帳簿しか持たない人間が、帳簿で戦う方法を見つけてきましたわ。魔核の前に立つくらい——経理部の月末締めに比べれば」


 冗談だ。しかし手は震えていない。震えているのは——声のほうだった。怖い。怖くないはずがない。魔力のない生身の体で、百年分の魔力が脈動する結晶の前に立つ。前世で言えば——防護服なしで原子炉に入るようなものだ。しかし他に方法がない。


 エミルが聖光草の一片をポケットから取り出した。地下で採取した魔獣の結晶の隣に、淡い光を放つ葉が一枚。ほのかに甘い香りが鼻に届いた。母が薬草園で育てた草。母が聖女を守るために研究した草。その草が——今、娘の手に渡る。


「三時間後に——全てが決まりますわ」


 窓の外で、ルキウスの精鋭六人が城門を開けて飛び出していった。魔獣の咆哮と剣戟の音が響く。城壁の上からヘルガの声が聞こえる。「石を投げなさい! あんたたちの街でしょう!」


 領民たちの声が重なった。怒号ではない。生活者の声だ。パン屋が、鍛冶屋が、鉱夫が、薬師が——それぞれの声で叫んでいる。自分たちの街を守るために。泣いている子供を母親が抱きしめながら、もう片方の手で石を渡している。そんな光景が、城壁のあちこちにあった。


 涙が出そうになった。堪えた。今は泣く時間ではない。


 帳簿を胸に抱えた。三時間。この三時間で、全てが決まる。母が遺した答えを、娘が完成させる。





 エミルが聖光草の性質を記した手帳を広げた。


「聖光草——あの薬草園の聖光草を使えば、リリアーヌさんの力の触媒にできるかもしれない。いえ——できます。お母上の研究は、ほぼ完成していた。あとは——実行するだけです」


 その言葉が、煙に霞む作戦室の空気を変えた。絶望の中に差した、一筋の光。母が遺した種が、今ここで芽を出す。

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