第9話 偵察と宣告
「……なんて不気味な場所かしら。本当にこんな辺境に、あの陰気なお姉様が生きているの?」
ヴォルガード侯爵邸の重厚な鉄門を抜けた馬車の中で、義妹のセリナは扇子で口元を覆いながら、不快そうに顔を顰めた。
彼女が身を包んでいるのは、王都の最新流行を取り入れた華美なドレスだ。辺境の「化け物当主」の元へ嫁がされた哀れな姉を“心配して”見舞いに来たという建前など微塵も感じさせない、まるで自分の勝利を見せつけるかのような装いである。
隣に座る元婚約者のエリオットも、窓の外の荒涼とした景色を一瞥して鼻で笑った。
「まあ、生きてはいるだろう。だが、あの『呪い』だ。まともな精神状態ではないはずだ。だからこそ、我々が契約の窓口として直々に“健康状態の確認”と“回収”に来てやったんじゃないか」
エリオットの膝の上には、分厚い革張りの書類箱が置かれていた。
そこには、エルサを「不良品」として正式に返品し、侯爵家から莫大な解消金と慰謝料を合法的に巻き上げるための書類が、すでにサインを待つばかりの状態で収められている。
彼らの頭の中には、すでにボロボロに壊れ、泣き叫びながら自分たちに縋り付いてくるエルサの姿しか想像されていなかった。
馬車が本邸の車寄せに到着すると、出迎えたのは初老の執事、セバスチャンだった。
完璧な所作で一礼するセバスチャンの背後には、無表情で屈強な騎士たちがズラリと並んでいる。歓迎の空気など一切ない、異様なほどの威圧感だ。
「バルトフェルト伯爵家からの使者殿。長旅、ご苦労様でございます。当家執事のセバスチャンと申します」
「ご苦労。……おい、私の荷物と護衛の騎士たちを中へ入れろ。姉の荷物をまとめるのに人手がいる」
エリオットが馬車から降りるなり、傲慢な態度でアゴで使った。
しかし、セバスチャンは表情一つ変えず、静かに首を横に振った。
「申し訳ございませんが、当主の命により、屋敷内への立ち入りは『使者であるお二人のみ』と制限されております。護衛の皆様には、門外の詰所にて待機していただきます」
「なんだと?」
エリオットが声を荒げた。
「私たちは正式な契約の窓口として来ているんだぞ! しかも、セリナは次期伯爵夫人だ。こんな辺境の屋敷で、私たちの護衛を外すなどという無礼が許されると――」
「当主の定めた規則でございます」
セバスチャンの声は、ひどく丁寧でありながら、一切の反論を許さない絶対的な壁のように冷たかった。
「お気に召さないのであれば、このまま王都へお帰りいただいても結構でございますが?」
その言葉に、エリオットは奥歯をギリッと噛み締めた。ここで引き下がれば、多額の解消金を手に入れる計画が水の泡になる。
「……分かった。護衛は外で待機させる」
渋々承諾したエリオットと、不満げに唇を尖らせるセリナは、セバスチャンの案内に従って屋敷の中へと足を踏み入れた。
案内された応接間は、確かに豪奢な調度品で整えられていたが、二人の行動は完全に制限されていた。勝手に部屋を出ることは許されず、常に無言のメイドや騎士が監視の目を光らせている。
「なんなのよ、この扱いは! まるで私たちが罪人みたいじゃない!」
セリナが苛立たしげにソファーのクッションを叩く。
「落ち着け、セリナ。相手は侯爵家だ、多少の傲慢さは我慢しろ。どうせ、エルサの惨めな姿を確認して書類にサインさせれば終わる話だ」
エリオットが書類箱をトントンと指先で叩きながらなだめる中、重厚な応接間の扉が、静かに開かれた。
「――お待たせいたしました」
セバスチャンの声に続き、室内に姿を現した二つの人影。
その瞬間、ソファーにふんぞり返っていたセリナとエリオットは、まるで雷に打たれたように完全に言葉を失い、目を見開いた。
そこにいたのは、彼らが想像していた「呪いに蝕まれ、怯えてボロボロになった女」ではなかった。
息を呑むほどに美しい群青色のビロードのドレスを身に纏い、荒れていた肌は透き通るような白さを取り戻し、艶やかな髪を綺麗に結い上げた、一人の気高い令嬢。
「……お、お姉様……?」
セリナの口から、信じられないものを見るような、かすれた声が漏れる。
エルサだった。
彼女は自分の足でしっかりと立ち、どこも壊れてなどいなかった。それどころか、実家でこき使われていた頃の、栄養状態も悪くやつれた面影は完全に消え去り、最高級の布地に包まれた彼女は、王都のどの貴族令嬢よりも目を引く美しさを放っていたのだ。
そして彼女のすぐ隣には、漆黒の外套を纏い、背筋が凍るような冷酷な美貌を持つ男――当主ギルベルト・ヴォルガードが、彼女を外敵から完全に庇うようにして寄り添って立っていた。
「……っ」
エリオットは、あまりの予想外の事態に思考が停止した。
戻ってくるはずだった。不良品として返品され、慰謝料が落ち、エルサは一生自分たちの足元で這いつくばるはずだった。その前提が、根底から崩れ去ろうとしている。
(どうして……どうしてあんなに綺麗な格好をしているの!? あの化け物の呪いはどうなったのよ!)
セリナの胸の内で、激しい嫉妬と焦燥感がどす黒く渦巻いた。
自分が全てを奪ってやったはずの惨めな姉が、自分よりも遥かに上等なものを身につけ、恐ろしいはずの侯爵の隣で「正妻」のように扱われている。その事実が、セリナの傲慢な自尊心をひどく傷つけた。
だが、セリナはすぐに持ち前の狡猾な頭を回転させ、得意の“悲劇のヒロイン”の仮面を顔に貼り付けた。
彼女は両手で顔を覆うような仕草をし、いかにも涙ぐんでいるような、甘ったるくも毒を含んだ声を張り上げた。
「ああ、お姉様! ご無事で本当によかった……!」
セリナが駆け寄ろうとするが、ギルベルトの鋭い一瞥によって足が床に縫い付けられたように止まる。それでも彼女は、口先だけの言葉を紡ぎ続けた。
「王都では恐ろしい噂ばかりで、私、夜も眠れないほど心配していたのよ! だからエリオット様にお願いして、無理を言って迎えに来たの。……辛かったでしょう? 怖かったでしょう? もう無理しなくていいのよ、一緒に実家へ戻りましょう?」
その言葉は、優しい姉思いの妹の形をとった、極めて悪質な『誘導』だった。
“あなたは辛いはずだ”“ここはあなたの居場所ではない”“実家に服従して戻るべきだ”という強烈な前提を、言葉の端々に隠して叩きつけているのだ。
さらに、エリオットも契約窓口としての顔を作り、事務的な圧力で追撃をかける。
「セリナの言う通りだ、エルサ。君は現在『試用期間中』であり、我々には君の健康状態を正当に確認し、危険と判断すれば契約を即座に解消する権利がある。……見たところ、無理をして立っているようだが、今すぐ書類にサインをして荷物をまとめなさい」
「……っ!」
その二人の声を聞いた瞬間。
エルサの立派なドレスに包まれた身体が、ビクンと大きく跳ねた。
どれだけ美しい服を着せられようと、どれだけ安全な場所にいようと、十八年間かけて骨の髄まで叩き込まれた「逆らえない」という恐怖の反射は、そう簡単に消えるものではない。
「お姉様」と呼ばれた瞬間の冷や水のような感覚。「サインしろ」と命じられた時の、鞭が飛んでくるのではないかという絶望的な恐怖。
(逆らえない……。逆らえば、罰が……っ)
エルサは反射的に俯き、血の気を失った唇を震わせた。
彼女の足が一歩、無意識のうちに後ろへ下がろうとした――その時だった。
「一歩も下がる必要はない」
頭上から降ってきたのは、絶対零度のように冷たく、そして有無を言わさぬ絶対的な力を持った声だった。
ビクッと肩を震わせた私の細い腰に、漆黒の外套に包まれたギルベルト様の強靭な腕が回され、グッと力強く彼の方へと引き寄せられる。
背中から伝わってくる彼の圧倒的な熱。それは決して私を逃がさないという独占欲であり、同時に、目の前の外敵から私を完璧に守り抜くという鋼鉄の防壁のような抱擁だった。
「だ、旦那、様……っ」
「言ったはずだ。お前は何も言わなくていい。ただ私の隣に立っていれば、それでいいと」
ギルベルト様は怯える私を視界の端で短く見下ろした後、真っ直ぐにエリオット様とセリナへとその漆黒の瞳を向けた。
その瞬間、応接間の空気が物理的な重さを持ったかのように、ズンッと沈み込んだ。
「な……っ!」
エリオット様が息を呑み、セリナの顔から一瞬にして血の気が引くのが分かった。
王都の華やかな温室で育ち、弱者を一方的にいたぶることでしか自身の優位性を保てなかった彼らは、本物の『死線』をくぐり抜けてきた将軍であり、呪いを身に宿す“化け物当主”の、純粋で濃密な殺気を浴びたことなど一度もなかったのだ。
「バルトフェルト伯爵家の使者よ」
地を這うようなギルベルト様の声が、応接間に響き渡る。
「『試用期間』だと? 『健康状態の確認』だと? 貴様ら、自分が今、誰の領地で、誰の妻に口を利いているのか分かっているのか」
「つ、妻などと……っ! 私は契約の窓口として正当な権利を――」
エリオット様が手にした書類箱を盾にするようにして、必死に震える声を絞り出そうとした。だが、ギルベルト様はそれを鼻で冷たく嘲笑った。
「契約ならば、すでに『完了』している」
「なっ……!?」
「『試用期間』とは、当主であるこの私が、花嫁を気に入るかどうかを見定めるための猶予だ。実家側から一方的に破棄を引き出せる条項など、ただの一文字も存在しない。――私は、エルサを妻として正式に迎えた。解消金が欲しかったか。代わりに、バルトフェルト伯爵家には『正式な結納金』をくれてやる。これでもう、お前たちがこの女に干渉する理由は完全に消滅した」
エリオット様の顔が、みるみるうちに土気色に変わっていく。
彼らの浅ましい計画は、不良品として返品されたエルサを理由とした莫大な解消金をせしめることだった。解消金が手に入らないばかりか、エルサが「辺境の侯爵夫人」として正式に固定されてしまえば、自分たちのこれまでの非道な振る舞いが『侯爵夫人に対する不敬』としてそのまま首を絞めることになる。
「そ、そんな馬鹿な! 当主様、騙されてはいけません! この女は出来損ないなのです。実家でろくに教育も受けていない、ただの薄汚れた――」
「黙れ」
ギルベルト様の一喝。
それはただの大声ではなく、彼の中に眠る強大な魔力――呪いの気配の片鱗を、ほんのわずかだけ意図的に乗せたものだった。
「ヒィッ……!」
セリナが短い悲鳴を上げ、膝の力が抜けたように床にへたり込んだ。エリオット様も顔面を蒼白にし、ガクガクと膝を震わせて一歩、二歩と無様に後ずさる。
見えない巨大な手で喉を締め上げられ、内臓を氷で撫で回されるような、絶対的な死の恐怖。呼吸の仕方すら忘れ、二人は恐怖に目を見開いた。
「誰の許可を得て、私の妻を愚弄している」
ギルベルト様は、床に這いつくばる二人を見下ろし、酷薄に目を細めた。
「教育を受けていないだと? この女を冬の寒空の下で冷水で床を磨かせ、残飯を与え、ボロ雑巾のように扱っていたのはどこの誰だ。お前たちがこの女に何をしてきたか、私が何も知らないとでも思っているのか」
「あ……、あ、ぁ……っ」
セリナはガチガチと歯の根を鳴らし、完全に言葉を失っていた。
彼女はついに理解したのだ。目の前にいる男は、自分たちの浅はかな思惑など最初からすべてお見通しの上で、あえて自分たちをこの逃げ場のない密室に引きずり込んだのだと。
「セバスチャン。こいつらの発言はすべて記録したな」
「はっ。一言一句、違わず」
壁際に控えていた執事のセバスチャンが、手にした記録帳を掲げ、冷ややかな笑みを浮かべて一礼する。
「よろしい。エリオット。お前は先ほど、『契約の窓口』としてこの場に立っていると豪語したな。ならば、お前がここで見せた侯爵家への数々の不敬と、私の妻に対する暴言は、すべてバルトフェルト伯爵家の『公式見解』として受け取ろう」
「ち、ちが……っ、私はただ、当主様のためを思いっ……! 」
「遅い」
ギルベルト様は、汚物を蹴り飛ばすような冷酷な目で彼らを切り捨てた。
「王都への返書はすでに用意させてある。バルトフェルト伯爵家からの視察の使者は、当家に対し重大な侮辱を行った。のみならず、領地の税の横領、他家への不透明な縁談の強要、国庫からの支援金の不正流用の証拠もすべて王家へ提出する。……これより侯爵家は、貴家に対して『正式な抗議と相応の制裁』を行う」
その宣告は、バルトフェルト伯爵家の完全なる破滅を意味していた。
王家すら一目置く最強の侯爵家を、自らの愚かな振る舞いによって完全に敵に回してしまったのだ。横領の事実や虐待の証拠を握られている上に、外交上の決定的な失言まで自ら引き渡してしまった。言い逃れなど、どう足掻いても不可能だった。
「ひっ……いや、嫌ぁぁぁっ! 私じゃないわ、悪いのはお父様と、エリオット様よ! 私はただ命令されただけで、何も知らないわ!」
セリナが錯乱したように叫び出し、隣のエリオット様にすがりつこうとする。
「ふざけるな! お前がエルサをこの家から追い出して、私の隣に座りたいと泣きついたんだろうが!」
「あなたのせいよ! この役立たず!」
先ほどまで優雅に私を見下し、勝ち誇っていた二人が、床で醜く罵り合い、互いにすべての責任を押し付け合って這いつくばっている。
私は、その光景をただ呆然と見つめていた。
怖い。その感情は、確かに私の内側にあった。
けれど、今私が感じている恐怖は、「彼らに打たれる恐怖」ではなかった。
私を十八年間も地獄に繋ぎ止め、神のように振る舞っていた絶対的な支配者たちが、ギルベルト様の言葉ひとつ、冷たい眼差しひとつで、いともたやすく無力なゴミ屑のように転がされている。その『圧倒的な力の差』に対する、純粋な畏怖だった。
(私が、怖がっていたものって……こんなに、ちっぽけだったの……?)
腰を抱くギルベルト様の腕の力強さが、私に現実を教えてくれる。
ここは、あの暗い物置部屋ではない。理不尽な暴力に怯え、ただ息を潜めるしかなかった過去は、彼の手によって完全に燃やし尽くされたのだ。
私はもう、無力な「泥棒猫」でも、出来損ないの「不良品」でもない。
私は、この恐ろしくも不器用で、誰よりも優しい「化け物当主」に守られた妻なのだ。
「セバスチャン。こいつらを客間へ連れて行け。外へは一歩も出すな。明日、王都へ叩き返すまで、屋敷の規則に従って“丁重に”管理しろ」
「御意に」
屈強な騎士たちに両脇を抱えられ、見苦しく泣き喚きながら応接間から引きずり出されていくセリナとエリオット様。
扉がバタンと重い音を立てて閉まり、室内に再び静寂が戻った後も、ギルベルト様はしばらくの間、私の腰を抱く腕を解こうとはしなかった。
「……怖かったか」
頭の上から、先ほどの冷酷な死神のような声とは打って変わった、ひどく静かで、どこか心配そうな声が降ってきた。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ」
震える手で、私の腰を抱く彼の大きな外套の布地を、そっと握りしめる。
「旦那様が、ずっと一緒にいてくださったから……もう、少しも怖くありません」
私がそう答えると、彼はわずかに息を呑み、そして、私の頭を隠すようにして、その大きな身体を私の華奢な肩へと深く預けてきた。
「お前は……本当に、俺を狂わせる」
独り言のように低く呟かれたその声には、敵を蹂躙した冷徹な捕食者の余裕など微塵も残っていなかった。そこにあるのは、自らの命綱とも言えるただ一人の女への底なしの執着と、痛いほどの愛の熱だけだった。




