第8話 執着と防壁
実家が、あの義妹のセリナと元婚約者のエリオットを「視察」という名目でこの辺境の地へ寄越す――。
執事のセバスチャンからその恐ろしい報告を聞かされた夜から、私の心は完全に平穏を失い、激しく落ち着きをなくしていた 。
手紙はギルベルト様の手によって暖炉の炎で燃やされ、私は確かに守られたはずだった。それなのに、私の身体は頭の理解とは裏腹に、勝手に昔の悍ましい恐怖の記憶をフラッシュバックさせてしまうのだ 。
夜、最高級の布団に包まれて目を閉じても、扉の向こうから継母の足音が聞こえてくるような錯覚に陥り、眠りは極端に浅くなった 。廊下で微かな物音がするだけで、鞭で打たれるのではないかと肩を大きく跳ねさせて怯える 。朝になっても、喉がカラカラに干からびたように塞がり、どんなに美味で栄養のある食事が運ばれてきても、全く喉を通らなくなってしまった 。
(どうしよう……連れ戻される。あの地獄へ、引きずり戻される……っ)
胃の腑をどす黒い泥のような恐怖が駆け巡り、私は自室の部屋の隅で、膝を抱えてガタガタと震え続けることしかできなかった。
そんな私の痛ましい異変をいち早く察知した当主ギルベルトは、すぐさま冷徹な行動に出た。彼は、実家からの使者を迎え撃つために、この静かな屋敷を完全に“戦場仕様”へと整え始めたのだ 。
「正門および裏門の門番を通常の三倍に増やせ。敷地内への来客の導線は完全に限定し、一歩でも許可なく立ち入ろうとした場合は即座に排除しろ」
広間でセバスチャンや護衛の騎士たちに下されるギルベルトの指示は、もはや戦を控えた将軍のそれだった。
「屋敷の全使用人に徹底させろ。エルサに不用意に近づけるな。そして、向こうがどのような言葉を吐こうとも、絶対に挑発に乗るな」
ギルベルトの狙いは明確だった。表向きは貴族としての礼を尽くして使者を迎え入れるが、内側では主導権を一切渡さず、相手を完璧にコントロールする――そのための周到な防衛線の準備である 。
そして同時に、ギルベルトは私を、片時も自分の傍から離さないという強硬な方針を取るようになった 。
彼が私を己のテリトリーに囲い込む理由は、大きく分けて二つあった 。
ひとつは、外敵の悪意から私を物理的・精神的に守り抜くという純粋な保護の目的 。
そしてもうひとつは、私がすぐ傍にいるほど彼の体内を蝕む『呪い』が完全に静まり、彼自身が怒りに呑まれることなく、極めて冷静な思考を保っていられるという絶対的な現実だった 。
しかし、ギルベルトはその後者の“呪いが静まるという"現実”を、決して私に押し付けようとはしなかった 。
もし「俺の呪いを抑えるために傍にいろ」と命じれば、ただでさえ自己肯定感が地の底まで落ちている私が、『自分は治療の道具として扱われているから必要とされているだけだ』と深く勘違いし、さらに自分自身を責め立てて心を壊してしまうと、彼は痛いほど理解していたからだ 。
だからこそ、彼はひどく不器用な形で、私にひとつの「選択」を委ねた 。
その日の夜。
食事が手付かずのまま下げられたのを見たギルベルトが、静かに私の部屋を訪れた。
怯えた小動物のように部屋の隅で丸くなっている私を見下ろし、彼はいつもより慎重に、言葉を選ぶように口を開いた。
「……怖がるな。実家の連中は、私がすべて処理する」
その声は、驚くほど静かで、穏やかな響きを帯びていた。
「もし、どうしても奴らの顔を見たくない、会いたくないと言うのなら、会わせない。門前で適当な理由をつけて追い返してやる」
彼は私の目の前にゆっくりと片膝をつき、私の視線に合わせて真っ直ぐに漆黒の瞳を向けた。
「だが――お前が怖がるなら、私のそばに来い。勝手に一人で、すべての恐怖を抱え込むな」
その言葉に、私は息を呑み、答えに詰まった 。
会いたくない。声も聞きたくない。顔を見るだけで、きっと私は恐怖で呼吸ができなくなってしまう。
けれど、逃げ続けていれば、実家はいつか必ず別の卑劣な手段で私を追い詰めにくるだろう 。私がここでギルベルト様の広い背中の後ろに隠れて、ぬくぬくと守られていていいのだろうか。彼にそこまでしてもらう資格があるのだろうか 。
「私なんかのために……旦那様にご迷惑を……っ」
迷いと罪悪感で泣きそうになる私の肩を、ギルベルトの大きな手がガシッと掴んだ 。
それは決して逃がさないための乱暴な力ではなく、今にも絶望で崩れ落ちそうな私の身体を、強引に、けれど優しく支えようとする確かな力だった 。
「勘違いをするな、エルサ」
彼の瞳が、至近距離で私を射抜く。
「お前の居場所を決めるのに、誰かの許可は必要ない」
雷に打たれたような衝撃が走った。実家でずっと「ここにいてもいい」という許可を他人に乞い続けてきた私の魂を、根底から揺さぶる言葉。
ギルベルトはひざまずき、私の目を見つめる。
「私は、頼みたい。――お前が許してくれるのなら、ここにいて欲しい」
ギルベルトの力強く、一切の迷いがない宣言に、私の喉の奥がヒュッと詰まり、熱い涙がボロボロと滲み出た 。
守られている。必要とされている。怖い、とても怖いけれど、この人の傍にいれば、私はもうあの暗い物置部屋に戻らなくてもいいのかもしれない。
そんな私の微かな心の変化を読み取ったのか、ギルベルトは私の涙から決して目を逸らさず、ゆっくりと顔を近づけ――私の震える髪に、そっと短い口づけを落とした 。
それは、恋人同士の甘い戯れというよりも、神仏に祈りを捧げる騎士の『誓約』に近い、ひどく厳かで切実な所作だった 。
「離さない。誰にも、指一本触らせない」
彼のその囁きは、私を過去の呪縛から解き放つ、この世で最も温かく、そして力強い魔法のようだった。
執事セバスチャンと側近たちが、当主の執務室の重厚な机の上に、分厚い報告書の束を積み上げていた。
裏の影の者たちが王都を走り回り、短期間で徹底的にかき集めてきた、バルトフェルト伯爵家の『暗部』のすべてである。
「……これが、奴らの余罪か」
ギルベルトは革張りの椅子に深く腰掛け、氷のように冷たい視線で書類のページを捲っていた。
「はい。実家側は今回の『試用契約』を完全に悪用し、初めから多額の解消金と慰謝料を騙し取る目的で奥様を当家へ送り込んでおります。さらに、義妹君とエリオット殿による婚約破棄は完全に一方的なものであり、貴族間の法に照らし合わせても重大な信義則違反に該当します」
セバスチャンの報告に、ギルベルトは不快そうに目を細めた。
「それだけではあるまい」
「御意。国に納めるべき税の横領、他家への不透明な縁談の強要、国庫からの支援金の不正流用……叩けばいくらでも埃が出る状態です。そして何より――」
セバスチャンは一枚の医療記録を差し出した。
「当家の医師が記録した、奥様の身体に残る『無数の虐待の痕跡』。これが決定的な証拠となります。さらに、元婚約者であるエリオット殿が、これら一連の非道な手続きの『窓口』として率先して動いていた記録も、完璧に押さえております」
ギルベルトは書類を机に放り投げ、組んだ両手に顎を乗せた。
感情を一切排したその顔は、紛れもなく冷酷な捕食者のそれだった。彼の中で、怒りに任せて力で即座に叩き潰すという選択肢はとうの昔に消え去っている。ただの暴力で終わらせては、奴らに与える絶望が全く足りないからだ。
彼は、逃げ道を一つずつ、真綿で首を絞めるように塞いでいく順番を決めていた。
「『試用契約の条項』を根拠とする、実家の不当な引き戻し要求を完全に無効化する書面は用意したな?」
「はっ」
「『監査』という名目で、全貌を公の場に引きずり出す段取りも整えたな?」
「はっ。すでに、抜かりなく」
「そして最後に……」
ギルベルトの唇の端が、残酷な弧を描いて歪んだ。
「やって来る義妹と元婚約者が、この屋敷の中で己の優位を勘違いし、“失言”や“越権行為”に及んだその瞬間を、決定的な証拠として完全に固める」
この辺境の地では、法も権力もすべてがギルベルトの手の中にある。王都の常識など一切通用しないのだ。
「客人として礼は尽くせ。だが、主導権は絶対に渡すな。――あいつらが調子に乗り、致命的な一歩を踏み外すまで、丁寧に泳がせて待て」
夕刻。
分厚い雲が空を覆い、屋敷の周囲はいつも以上に重苦しい静寂に包まれていた。
私は自室の窓から、長く続く一本道を見つめながら、ドレスの裾を強く握りしめていた。
来る。あの二人が、私を再び地獄の底へ引き摺り下ろすために、この場所へやって来る。
かつて私からすべてを奪い、私を嘲笑いながらこの死地へと突き落とした義妹のセリナ。そして、永遠の愛を誓いながら、最後は私を「ボロ雑巾」と蔑み、妹へと乗り換えた元婚約者のエリオット。
二人の顔を思い出すだけで、胃が激しく痙攣し、吐き気が込み上げてくる。
(怖い……。何を言われるか分からない。また、私を役立たずだと罵るんだわ。旦那様の前で、私の惨めな過去をすべて暴露して……)
いくらギルベルト様が「私が処理する」と言ってくださっても、十八年間で骨の髄まで染み込んだ恐怖の反射は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。
私という存在の底知れぬ無価値さを突きつけられ、ついにギルベルト様からも「やはりお前は不良品だった」と見放されてしまったら。そう想像するだけで、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
その時だった。
ガァァン……、ガァァン……。
重厚な屋敷の正門に設置された鐘が、低く、不気味な音を立てて鳴り響いた。到着を告げる合図だ。
ビクッ、と私の肩が大きく跳ねた。血の気が引き、足の裏から氷柱が突き刺さったように全身が完全に硬直する。
「……奥様」
開け放たれた扉の向こうから、静かな足音と共に執事のセバスチャンが現れた。彼は、いつものように完璧な礼を尽くして、しかしひどく事務的な声で報告した。
「先方の馬車が、門前に到着いたしました」
「ひっ……!」
私の指先が、ガタガタと制御不能なほどに震え始めた。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった瞬間。
ドン、と背中に大きな壁のようなものが触れた。
「……っ」
振り向くより早く、大きな熱を持った手が、私の氷のように冷たい両手をしっかりと包み込んだ。
ギルベルト様だった。
彼は、恐怖で小刻みに震える私の手を決して離さないまま、私の横に並び立った。
「旦那、様……。どうしよう、私、やっぱり……っ」
過呼吸になりかける私の顔を覗き込み、彼はその漆黒の瞳で私の怯えを真っ向から受け止めた。
彼から発せられる熱が、私の震えを少しずつ中和していく。彼は私の手を力強く引いたまま、自室の扉へと向かってゆっくりと歩き出した。
彼が放つのは、恐ろしい呪いの気配ではない。絶対に私を守り抜くという、鋼のような決意の波動だった。
「いいか、エルサ」
ギルベルトの声は、地鳴りのように低く、そしてどこまでも力強かった。
「お前は、あいつらの前で、何も言わなくていい」
「……え?」
「お前はただ、私の隣で立っていればいい。泣く必要も、怯える必要も、謝る必要も一切ない」
ギルベルトは扉のノブに手をかけ、振り返ることなく、静かに、しかし絶対的な死神のような宣告を口にした。
「私が全部、終わらせる」




