第7話 過去からの手
領都での一件から帰還した後、ヴォルガード侯爵邸は、これまでとは全く質の異なる『二重の緊張』に包まれることとなった 。
ひとつは“外”の脅威――領都の路地で突如として発生した瘴気と、それに引き寄せられた異形の魔物による騒ぎである 。そしてもうひとつは、“内”に秘められた決定的な真実――エルサが咄嗟に張った光の膜の中で、誰にも解けなかったはずの当主ギルベルトの『呪い』が、嘘のように静まり返ったという事実だ 。
屋敷に戻るなり、当主ギルベルトは即座に、かつてないほどの恐ろしい気迫で徹底的な口止めを行った 。
「エルサのことは、いかなる些細な情報であれ、一切外へ漏らすな。破った者は、俺が直々に首を刎ねる」
同行していた護衛と執事のセバスチャン、そして屋敷の全使用人に向けられたその命令は、冷徹な絶対者の声だった 。
さらに彼は、領都で瘴気にあてられて倒れかけた領民たちへ、侯爵家の名で最上級の薬と施しを迅速に回した 。そうして、あの路地での奇跡が「すべて当主の強大な力によって鎮圧された」という噂にすり替わり、完全に収束するよう、裏から手を回して完璧に整えたのだ 。
彼がここまで徹底して情報を操作するのには、明確な理由があった。
もし、エルサが自分の呪いを消し去る『治療薬』としての力を持っていると王家や他国の貴族たちに嗅ぎつけられた瞬間、彼女は間違いなく政治の道具として強引にこの屋敷から奪われる 。
(……誰にも、触れさせない)
ギルベルトの胸の奥で、どす黒い独占欲と、彼女を失うことへの焦燥感が渦巻いていた。
一方、当のエルサ本人は、暖炉に火がくべられた温かい客室の寝台で、膝を抱えたままガタガタと震え続けていた。
彼女は、自分自身の内側から溢れ出たあの未知の力が、ただただ恐ろしかったのだ 。
あの子どもを守れたという安堵よりも、「自分はまた何か得体の知れないものを壊してしまうのではないか」という恐怖の方が圧倒的に勝っていた 。実家で「気味が悪い」「役立たず」と虐げられ続けた彼女にとって、人と違う力を持つことは、新たな『罰』の対象でしかなかった。
そのため彼女は、屋敷の廊下で微かな物音がするたびにビクッと肩を跳ねさせ、ひどく身を強張らせるようになってしまった 。
さらに彼女を追い詰めていたのは、近づいてくるギルベルトから、あの肌を刺すような『呪いの冷気』が一切感じられなくなったことだった。
(……旦那様の呪いの痛みが、引いている)
普通ならば、自分の力で彼を救えたと喜ぶべきところだろう。しかし、自己肯定感が極限まで削り取られているエルサの解釈は違った 。
(私がこの屋敷に置かれている理由は、ただの『便利な治療薬』だから……? 愛情や哀れみではなく、必要だから置かれているだけなんだわ)
もしこの力が消えれば。もし私が『薬』としての価値を失えば、その瞬間に私は捨てられる。
自分が“ここにいる理由”が、ただの『必要性』にすり替わってしまったことが、彼女にとっては呪いそのものよりも恐ろしく、心を深く抉るのだった 。
そんな、息の詰まるような不安と恐怖に苛まれていた折のことだった。
「……失礼いたします、旦那様。奥様」
執事のセバスチャンが、重々しい足取りで客室の扉を開け、一枚の書状を銀のトレイに乗せて運んできた。
「王都の、バルトフェルト伯爵家より……急ぎの手紙が届いております」
その言葉を聞いた瞬間、寝台に座っていたエルサの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
視線を落とすと、分厚い羊皮紙の封筒には、赤黒い血のような色をした見慣れた家紋の封蝋が押されている。実家からの手紙だ 。
その封の紋を見ただけで、エルサの顔からスッと血の気が引き、土気色に変わった 。シーツを握りしめる指先が、痙攣したように小刻みに震え始める 。
距離がどれだけ離れていようと、十八年間刻み込まれた過去の支配と恐怖は、彼女の身体の奥深くに呪いのようにこびりついていたのだ 。
同席していたギルベルトが、無言のまま手紙を手に取り、ペーパーナイフで乱暴に封を切った 。
彼が冷たい瞳でその文面に目を通す。
中身は、貴族らしい慇懃無礼な丁寧語で装飾されてはいるものの、本質はただの横暴な『命令』だった 。
『試用期間中につき、娘の健康状態の確認を行う。直ちに王都の実家へ送られたし』
長々とした手紙につづられていたのは、結局はこういうことだ。
“不良品”として返品され、すぐに多額の解消金が入る”という実家側の汚い算段が外れたため、試用期間が切れる前に強引に引き戻し、再び自分たちの主導権を取り戻そうとしている 。
さらに言えば、このままエルサが権力のある侯爵家に正式な妻として固定されてしまえば、これまで実家で行ってきた非道な虐待や、妹による婚約強奪の経緯が公に露見する危険性がある。だからこそ「健康確認」というもっともらしい名目で彼女を連れ帰り、奥の部屋に閉じ込めて口を塞ぎ、また別の金持ちの貴族へ『駒』として再配置する――その浅ましくも悍ましい意図が、文面の端々から透けて見えていた 。
「……っ、あ、あ……」
手紙の内容を聞かされるより早く、エルサの身体は恐怖による『反射』で勝手に動いていた。
彼女はふらつく足で寝台から立ち上がると、焦点の合わない虚ろな瞳のまま、乾いた声で呟いた 。
「す、すぐ……すぐにお返事をお願いいたします……。帰る支度を、しなければ……」
逆らえば、痛い目を見る。
命令に従っていれば、鞭で打たれる回数は減る。従えば、いつかこの苦しみは終わる。
骨の髄まで刷り込まれたその悲しい自動的な反応が、彼女の自我を塗り潰そうとしていた 。実家への恐怖が、当主への未練やここでの温かい記憶すらも凌駕し、彼女を過去の暗闇へと引きずり込もうとする。
「荷物を、まとめ……ひっ!」
狂ったように部屋の隅の鞄へ向かおうとしたエルサの肩を、強い力がガシッと掴んで引き止めた。
振り返ると、そこには夜の闇よりも深く、冷たい怒りを湛えた瞳を持つギルベルトが立っていた。
「座れ」
地響きのような、低く絶対的な声だった 。
それは命令という形をとった、強烈な楔。
彼のその一言が、エルサを支配していた“過去の呪縛による自動的服従”の糸を、断ち切るように鋭く響いた 。
エルサがビクッと肩を震わせて立ちすくむ目の前で、ギルベルトは一切の躊躇なく、手にしていた実家からの手紙を、赤々と燃える暖炉の炎の中へと投げ入れたのだ 。
炎が、パチパチと甲高い音を立てて羊皮紙を舐め上げていく。
赤黒い血のようなバルトフェルト家の封蝋がドロドロに溶け落ち、私を十八年間縛り付けていた絶対的な『命令』の文字が、瞬く間に黒い炭となって崩れ落ちていく。私はその光景を、ただただ息を呑んで見つめることしかできなかった。実家からの命令を燃やして捨てるなど、私がこれまで生きてきた凄惨な世界では、天地がひっくり返っても絶対にあり得ないことだったのだ。
「あ……、ああっ……」
悲鳴のような声が、乾いた喉から漏れ出た。
燃やしてしまった。お父様の、お継母様の命令が記された、絶対不可侵の書状を。
逆らえば、必ず激しい罰が来る。暗く冷たい物置部屋に何日も閉じ込められ、腐った水さえ与えられない。あるいは、冬の寒空の下で氷水を浴びせられ、気を失うまで鞭で打たれる。
私の脳裏に、これまでに受けてきた悍ましい虐待の記憶がフラッシュバックし、全身の血が凍りつくような錯覚に陥った。
そして何より恐ろしいのは、私という価値のない女のせいで、逆らったこの侯爵家の人々までが実家の報復に巻き込まれてしまうことだ。
パニックになりかけ、過呼吸のように肩を上下させる私の前に、ギルベルトがゆっくりと向き直った。
当主は、暖炉の底で完全に灰と化した手紙の残骸を冷たい目で見下ろし、淡々と、しかし地響きのような絶対的な声で告げた。
「健康確認だと? ふざけるな。お前はここで生きている」
その声は静かな怒りに満ちていたが、それは決して私へ向けられたものではなかった。
彼の瞳の奥で燃えているのは、私をここまで追い詰めたバルトフェルト家に対する、底知れぬどす黒い殺意だ。
「試用期間だろうが何だろうが、私が解消を望まない以上――誰もお前を動かせない」
ギルベルトの力強い言葉が、私の鼓膜を震わせる。
本来なら、その言葉に守られていると歓喜すべきなのだろう。しかし、嬉しい、とか、安心した、という感情よりも先に、私の胸を支配したのは強烈な『恐怖』だった。実家は、一度狙った獲物を逃すような甘い人間たちではない。必ず、あの手この手で私を引き摺り戻しにくる。必ず報復するのだ。私のせいで、私のような女を庇ったせいで、この屋敷が、そしてギルベルト様が危険に晒されてしまうかもしれない。
「ご、ごめんなさい……! 私のせいで……っ」
そう思って反射的に謝ろうとした瞬間、ギルベルトが私の言葉を鋭く遮り、力強く言い切った。
「お前のせいにするな。奪おうとするなら、奪い返すだけだ」
彼は私の震える肩を抱き寄せるわけでもなく、ただその揺るぎない漆黒の瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳には、一ミリの迷いも、実家に対する恐れも存在しなかった。彼はただ、自分のテリトリーに踏み込んできた外敵を、いかにして惨たらしく排除するかだけを考えている、冷酷な捕食者の顔をしていた。
ギルベルトは私から視線を外し、傍らに控える執事のセバスチャンへ視線を投げた。その声は絶対零度のように冷たく、当主としての判断は恐ろしいほどに早かった。
「セバスチャン。実家が契約を盾に動くというのなら、こちらも契約で完全に封じる」
「御意に。どのように手配いたしましょうか」
「まず、『試用契約の条項』を盾に取り、実家側の引き戻し要求を無効化する正式な書面を直ちに用意しろ」
「かしこまりました。法務官を呼び、一言の反論も許さぬ完璧な書面を作成させます」
「次に、『監査』の名目で、バルトフェルト伯爵家が裏で行っている不正――領地資金の横領、不透明な縁談の強要、国庫からの支援金の横流しの証拠を公的に掴む段取りを進めろ」
セバスチャンは深く一礼し、酷薄な笑みを浮かべた。
「すでに裏の影の者たちが動いております。……それと、奥様への長年にわたる虐待の事実と、妹君による婚約強奪の証拠も集め、いつでも社交界の表に出せる形に整えております」
セバスチャンの有能な報告に、ギルベルトは満足げに目を細めた。
「良い。最後に、もし向こうから使者が来た場合は、“丁重に”屋敷へ迎え入れろ。ただし、主導権は完全にこちらが握る」
淡々と紡がれる、あまりにも苛烈な反撃の計画。
それは、私を虐げてきた実家を、法と権力と契約のすべてを使って徹底的に蹂躙し、二度と貴族社会で立ち直れないようにするための、完璧な処刑宣告だった。
私を虫けらのように扱ってきたあの家族が、ギルベルト様の手によって追い詰められていく。その事実が、恐怖で凍りついていた私の心に、ほんのわずかな温かいさざ波を立てていた。
その時、セバスチャンが一通の報告書を手に、最後に静かに口を開いた。
「旦那様。……実は、すでに実家側は『視察』の名目で、こちらへ向けて人を出発させております
「視察だと?」
「はい。義妹君と――義妹君の婚約者、つまり奥様の元婚約者殿も同行するとのことです」
セリナと、エリオット様が来る。
その二人の名前を聞いた瞬間、私の呼吸がヒュッと止まった。
私をどん底の絶望に突き落とし、嘲笑いながらこの死地へと追放した張本人たちが、自らこの屋敷にやってくるのだ。
トラウマが蘇り、私の全身が再び恐怖でガタガタと激しく震え始めた。
それを察知したギルベルトの目が、静かに、そして身の毛もよだつほど酷薄に細められた。
彼は震える私の前に立ち塞がるように一歩前へ出ると、窓の外の暗闇を見据え、地獄の底から響くような声で言い放った。
「来るなら来い。――二度と手を伸ばせないようにしてやる」
それは、愛する者を守り抜くための、残酷なまでに美しい宣戦布告だった。




