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ちょっときいて  作者: 矢久 勝基


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小説の良さと昔のドラクエ

 映像作品と違う、小説の良さってなにかと言えば、"視覚から入ってくる情報がない"ということじゃないだろうか。

 その、一見映像作品に比べて不利に思える部分こそ、小説が実はオンリーワンである長所なのだと思う。

 映像作品は創造を許さない。例えばここに一人の美人がいたとして、画面の向こうにその役の女優が立っていたら、美人として紹介されるその登場人物の容姿は固定される。

 しかしその点、小説は自由だ。「肩口にかかる髪が黒く艶めく、淡い香水の匂いのする美人」と言われた時、どんな美人を想像するだろうか。


「え、そんなんじゃわかんねーよ!」

 となる所こそ小説の長所。小説の表現はよほど細かい描写に塗り固められていない限り、答えがない。翻って言えば、その美人に対して、どのような創造をしてもいいのだ。

 つまり、小説の美人は読者の数だけ容姿が違うということだし、読者が自分の好みに合わせた美人を作り上げてしまえるということになる。なんなら自分が好きな子の容姿でも一向に構わないわけだ。

 俳優やイラストでイメージを固定されれば、その美人の容姿は一つに定まってしまうし、その美人が価値観にあわなければ"美人"ではないわけで、そういう意味では、あらゆるメディアの中で、小説に登場する美人が最も優れた美人となるわけだ。


 美人に限ったことじゃない。

 物語に関わるものすべて……物語に登場する小物や背景、主人公が立つ世界に存在する空想的なもの、すべてを自分の好みの想像の元、話を読み進められるのだ。

 もちろん、その小説の表現があまりに稚拙で空虚だと、創造できる土台すらないとなれば話は別だから、そここそが筆者の技量となるのだろうが、いずれにしても、確固たる答えを定めないことにより、読者の数だけその物語が広がりを見せられるところに、小説最大の利点があるように思う。


 思えば昔の冒険ゲームもそうだった。大きな流れとしてのストーリーはあっても、キャラクターに人格などは存在していなかったし、エピソードなど、あってないようなものだった。

 でもだからこそ、プレイヤーたちは脳内で彼らの冒険を補完した。正解がなかったからこそ、ゲームを遊ぶ人の数だけのローレシアの王子やサマルトリアの王子がいたのだ。

 プレイヤーたちがどこまでを思い浮かべたかは分からないが、同じローレシアの王子でも思い浮かべる性格や声、クセや表情など……そのキャラクターを形成する要素はバラバラだったに違いない。

 昔はプレイヤーの数だけ物語があった。今はどうか。ただ見ているだけじゃないか?


 しかしそれなら……その良さが皆にもてはやされているのなら、今も小説は隆盛を保っていただろうし、メディアミックスの土台にしかされない昨今の小説事情を、矢久が嘆いていることもなかったと思う。

 そこで『映像作品のせいで想像力が失われた』……という結論に持っていけばあまりにありきたりだ。確かに映像作品は『ただ見ていれば』内容が分かる。

 頭を働かせないでも情景が浮かぶ映像作品に慣れれば、作品を創造してまで物語を楽しむ必要がなくなる。小説の比喩の多さがわずらわしくなり、とても簡易な表現が尊ばれた挙句、『サクサク読めるストーリー』などという言葉が生まれてくるわけだ。

 最近高校生としゃべる機会があったが、「自分、漫画すら読まない」らしい。もはや"簡易"は漫画をも拒絶し始めた。(まぁ、極端な例だろうけども)

 そんなんじゃ先ほど言ったような小説の良さは絶対に浮かばないし、創造する部分を払拭した小説など、映像作品に勝てるわけがない。


 映像作品が小説を追い込んだのは間違いないが、それ以上に『答え偏重主義』はびこる昨今の風潮が、それに拍車をかけているのではないか。

 インターネットが普及してからというもの、情報の速さ、正確さ、多様さのインフレが二次関数的に加速した。そこから「分からないものを分からないままにしておく」ことが少なく……いや、あえて言えば"困難に"なった。

 調べればすぐに正確な答えが出る。いや、正確でなくてもいい。間違っていようが、とにかく"答え"がインターネットには必ず転がっている。

 人はそれに慣れた頃から、とにかく(正確な)答えを求めるようになった気がする。

 "知らない"は想像を生む。しかし、そうやって導き出された自分の答えに、人は以前よりも不安を覚えるようになった気がするのだ。

 先ほど小説の美人を挙げて、「え、そんなんじゃわかんねーよ!」は、読者が想像した美人像でオッケーと言ったが、答え偏重主義だと、そういう発想に至らない。

 「わからない、から、面白くない」となる。小説の良さは、昨今の風潮では悪ですらある……と言ってみる。


 以上。すべては矢久の憶測である。

 しかしもし、そう聞いて「いい加減なことをつらつら並べ立てるな」と思うのであれば、それがすなわち「答え偏重主義」に浸かっている証だ。

 意見に是でも非でもそれについて考えられる頭と、そこから世界を広げていける力が大事なわけで、読んで「正確な情報じゃないから無意味」と思い始める脳を人間が持ち始めたことが、小説をここまで廃らせた最大の理由なんじゃないかと思う。


 もったいない……日本語って、世界でもトップクラスに小説に向いている言葉だろうに。

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