東野圭吾(敬称略)という作家
言わずと知れた、ミステリーの大御所である。
1985年デビュー、今も現役でいらっしゃるから36年文章で飯を食っていることになる。
作品のジャンルはバラエティに富んでいるが、しかし要するにミステリーとサスペンスだ。ほかのモノを描いているつもりでも彼には彼のテイストがあり、そこから離れることはない。
いわば、キメツノヤイバを描いても、ワンピースを描いても、原哲夫(敬称略)が描けば『北斗の拳』になる……みたいなモノだ。
現在迷子の矢久勝基はここ数ヶ月、この筆者の作品を読み続けている。何が違う?この人と俺の、何が違うのだ。と。
で、何が違うかと言えば、全然違う。実力が……とかそういう話よりも、描いてるものが違う。描きたいものが違う。
シューティングゲームとRPGが同じゲームでもまったく違うものであるように、
柴犬とブルドッグが同じ犬でも同じ種別には見えないように、
彼と私の目指したい物語の終着点は同じ"小説"でも全然違う。
まぁその上で、日本語で描かれた文章芸術には変わりなく、結果として見える部分は人気にせよ売り上げにせよ、統一されたものとなってしまうから、彼の作品がまるで参考にならないということは絶対にない。
彼のすごいところはその作品数だけではない。その大部分が面白いところだ。
そう言い始めれば「信者か」と思うかもしれないのだが、実はまったくそうじゃない。忌憚のない言い方をさせてもらえば、私は彼の作品のほとんどがキライだと思う。
スッキリしない終わり方。結局権力には屈さざるを得ない現実性(夢のなさ)。登場人物の性格が嫌な奴だらけ。
……この辺は敢えて言えば、彼の作品の魅力とも言えるとも思う。が、私はその"魅力"の部分が嫌いだ。基本的に彼のテイストはそういうものばかりだから、つまり私にとっては彼の作品は、『嫌いな作品だらけ』ということになる。
彼のすごいところはそこだ。
彼の物語が、私は嫌いだ。しかし、面白い。
『嫌いなのに面白い』。……これって、すごいことじゃないか。ただの『好きで面白い』よりも、本当に"面白い"ってことなんじゃなかろうか。
好きなら、ちょっとアレな部分があっても「まぁまぁ……」とオブラートに包みながら読み進めることができる。しかし何せ嫌いなのだ。護ってくれるものが何もない状態で物語の登場人物たちは立ち回らなければならないのに、私はいつも彼の物語に夢中になってしまう。
すごいことだし、「じゃあ俺は俺のテイストが嫌いな読者に読破させるような自信はあるか?」と聞かれれば、ない。
ちなみに、『私が好きなのは魂のぶつかり合いだ』とも前稿で述べたが、彼の作品の傾向はそういうものでもない。だから私とは畑違いだというのだが、私が面白いと思える要素がないにもかかわらず、やはり面白いのだ。……もはや畑違いとか関係なく、白旗を揚げるしかない。
いつか、私もそんな作品が描けるだろうか。
「登場人物も終わり方も、語られてる哲学も大嫌いだ! 大嫌いだけど、面白い!!」
描ける……だろうか……。




