100作目なんで、ヒトリゴトみたいな駄文でいいですか?
何年ぶりだろう。
今年は、不思議に都合が重なって重なった。忙しい……のではない。逆だ。重なったのは都合が"キャンセル"になったほう。
まぁもちろん、自営の事務仕事が0というわけではないのだが、おかげで、何年ぶりかわからない一日休みが四日も続く。
休みが四日……信じられん。四日連続で仕事がない日なんて、仕事をしてなかった学生の頃ぶりじゃないだろうか。「一度立ち止まれ」という、よほどの暗示なのか、はたまた矢久の人生終わったか。(大笑)
ちなみに物語も一段落している。
コンテストに出てる作品は4つ。記念お受験みたいなのとお遊びみたいなのも含めれば7つ出ていて、ちょうど谷間で次になにを描こうかといった状況だ。いっそのこと四日間サボってやろうかくらいに思っている。
さて、それくらいペースを落として世界を見回すと、日本はお盆だ。
ご先祖様がきゅうりの馬で家までやってきて、ナスの牛で帰っていく、日本の古い風習の一つ。実家はそれを結構本格的にやる。
お鈴を鳴らしながら迎え火をしてご先祖様を背中に背負い、仏壇まで運んで線香を上げる。
仏壇には季節の果物が上がっていて、ちょうちんには火が焚かれ、みなで両手を合わせて、ご先祖様を迎えるのである。
場所によっては珍しいことではないかもしれないが、身の回りでそこまでやっている家族はあまりいない。
こういう風習って、もともとは大きな意味があったのかもしれないけど、今、それほどの意味を感じる人なんてあまり多くないのだと思う。みなが感じてないから「古い風習」となって、「やる家が珍しい」となっているわけで……。
実際、わたしもこのような風習にどこか気恥ずかしさを思うし、「墓を大切にせよ」とか、「御先祖様の水を変えよ」とか、その手間が少々煙たくなることもある。
ちょっと別のことになるけど、今、方々に「自分ちの家紋ってなんだか知ってる?」って聞いて、速攻で返ってくることはない。
まぁ知る必要もないから誰も知らないのだろう。風習なんて意味はない。そうなのかもしれない。
しかし今日、もう長いこと止まらなかった時間が止まっている矢久の目には、その日本の古き風習は輝いて見えた。
なんとなしに暖かいその時間。きゅうりの馬とナスの牛がみずみずしく並び、自分たちの出番を待っている。
仏壇の下にそっと、細かく切られたきゅうりとナスに、ふんわりと水分を含ませた皿を置いておくことなんて今まで知らなかった。
これは施餓鬼の一種であり、ご先祖様が歓迎されて出迎えられることのおこぼれにあずかろうと集まる餓鬼たちにも、食べ物を振舞おうということの表れらしい。
良いことも悪いこともみんな忘れて、お盆という時間を、生きている者も普段は生きてはいない者も、皆で楽しく分かち合おう……というのが、夏が一番成熟する数日間に設定された日本の風習であり、わたしたちの先祖はそこに、のどかな和の心を持っていたのだろうと思う。
無駄なことなのかもしれない。しかし、無駄を無駄として人間は今、どれだけ時間を有用に使っているだろうか。
もちろんわたしもそれほど風習を重んじてきた人間じゃないから偉そうなことはいえないのだが、それらの無駄な時間に、失われていく暖かみがあるのだとしたら、人間として生きることに対してのもったいなさを感じてしまう。
……感じてしまった今日の迎え火だった。
それにしても、それに気付かされたこの四連休は本当に何の暗示か。……などと、あまりに休みのなかった矢久はたかが休みに意味を求めてしまう。
思えば七月に行った墓参りから忽然と生活の流れが変わった。なんだ。運命はわたしに何を求めているのか。とりあえず頂いた時間で十年以上描くことのなかった絵でも描いてみようか。
……などと、気がつけば「自分に使える時間」というものに全然慣れない矢久が、急遽もらった時間の大きさに右往左往して、挙句にこのような駄文を書いてみたりしている。




