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空が真っ暗になっていた。
山の天候は移ろいやすい。言うなれば純二と議論し続けてきた正義と悪、光と影などと同じで二面性を持っている。隣り合わせの生と死がすぐに入れ替わってしまうのだ。
リュックの中に入っている天気図をチェックしていたので、ここしばらく緩みを見せていた気圧配置が、東進する低気圧によって再び強まり出すのが分かっていた。だからこの強風と雪は単に予兆かもしれない。猛獣が爪を研いでいるにしかすぎないのだ。牙を剥いたら、ユリを見つけることさえ難しくなる。
皮肉なことに、高度が上がるにつれて岩が多くなってきた。どの岩の表面にも雪が凍りついている。アイゼンを装着しているので何とか歩けるが、少しでも油断すると、大怪我どころか命とりになる危険性もあった。後藤は黒雲に急き立てながらも、慎重に足を進ませる。
アイゼンを装着しているからといって絶対に過信しない。雪で隠れて見えない岩の切れ目に、アイゼンの爪を挟んで滑落した登山者の話をよく耳にしたからだ。不安定な平均台の上で、不意に足首を掴まれたようなもの。バランスを崩し、足が前へ送り出せなければ落ちるしかない。
爪を挟んだのではないが純二も何度か足を滑らせていた。けれどもまだ雪も落ちてこないし、危険性の少ない地点。何とか涸沢へ辿り着いた。
涸沢は穂高連峰を目指すベース地、アルピニストたちの聖地でもある。したがって年末のラッシュ時も相まい、色とりどりのテントがあった。
頂上を目指す登山者ならすでに出発している時間帯だが、テントで過ごす登山者たちは、星を見ながらカウントダウンでもしようというのか至ってのんびり見えた。ここが最終目的の登山者も数多くいる。
それでも黒くなった空から白いものが落ち出している。風も強まり出した。いったん吹き出すと風速二十、三十メートルはざらだ。最大瞬間風速が五十メートルを超せば、テントをどんなに強く固定しようが、あっという間に吹き飛ばされてしまう。畳んでヒュッテへ避難しはじめている登山者も多い。
残りの人たちも、荷物を持って外へ出てきた。のんびり見えたテントの人たちが、俄かに忙しなくなってきた。
後藤は、ユリが残ってさえいればいい。それだけを願ってヒュッテへ向かった。
だがどのヒュッテを訪ねてもユリの姿はないし、聞いても期待する答えは返ってこなかった。宿泊したわけではなく立ち寄っただけなのだろうから、とうぜんと言えばとうぜんだった。
ヒュッテがだめなら、南稜に向かったと想定して涸沢小屋で聞くしかない。コースも、連れの登山者たちも不明だが、賑わうヒュッテより、ユリだったら静かな涸沢小屋を選ぶかとも思っていた。運がよければ北穂登頂を明日に延ばして、そこに泊まっている可能性だってある。
雪が横なぐりに変わった。風はまだ十二、三メートルぐらいだが、前後左右の視界が白く遮られる。
「頼むユリ、小屋にいてくれ」
背中に、純二の言葉が張りついた。
「死にたい人間にとっては、好都合の天候。甘い期待をすてることだ」
純二へ言った。自分にも言い聞かせた。夢の舞台を思い出していたからだ。そこは涸沢小屋ではない。切り立った岩の鎖場を越えた先、南稜テラスだ。
小屋の扉を開けた。
大勢の人がいた。リュックが通路に所狭しと置かれている。この天候で登頂を断念した人やら、天気図片手に出発を迷っている人、さらに到着してきた人たちで溢れていた。
その中、浅黒い顔をした男が人を掻き分けるようにして扉の方へ進んできた。目が引きつっている。
「どいてくれ」
虫の居所でも悪いのか、不機嫌そうに後藤を押した。
「ナベちゃん、一人で下山するつもり。高さんと女性が戻ってきたらどうするのよ!」
奥から四十代前半、丸顔で目のくりっとした女性が大声で呼びとめた。頭に赤いバンダナを巻いている。どうやら従業員のようだ。
「戻って来やしない。あいつらは死ぬつもりだ!」
男性は眉を吊り上げ、大声でわめき散らすと「もう、俺には関係ない」と吐きすて、扉を開けて出ていった。
「何なのよ、久し振りに来たと思ったら喧嘩しちゃってさ」
客の視線も憚らず、女性が口を膨らませてぼやく。
「いったい何があったのですか」
至近距離にいる女性に聞いた。女性は、ぶすっとした表情のまま話し出した。
「今下山したのはナベちゃんといって、私と同じ大学に通っていたの。それも、さっき若い女性と二人で北穂へ行った高さんと、三人で同じ山岳部に所属していたわけ。それがさ、何があったのか知らないけど、急に言い争いをしたかと思ったら高さんは若い女性と登っていってしまうし、ナベちゃんは下山する。わけ分かんないわ。私が聞きたいぐらい」
「ちょっと待ってください。高さんって人は、若い女性と北穂へ向かったのですか」
後藤に直感するものがあった。純二も身を乗り出してきた。
「その若い女性の名前は――ユリって言いませんでしたか」
同時に二人で聞いた。
「えっ?」
女性が目を丸くさせる。「そうだけど、あなたたちは……」
女性が肯定するのを聞いて、すぐさま純二が外へ飛び出した。今の男に事情を聞くつもりなのだろう。後藤も、女性に一礼をしてから続いた。
再び外へ出ると、小屋の中にいたのがほんの四、五分だったのに関わらず天候が一変していた。
見えない、とにかく見えづらい。ガスと雪のカーテンに阻まれ視界は五メートルもない。そればかりか風が、まさに烈風に変わっていた。風速にして二十メートルはあるに違いない。空気も冷たい、一瞬にして登山服が凍りついた感がする。
猛烈に気温が下がっていたのだ。マイナス十五度ではきかない、二十度ぐらいあるだろう。凍風をまともに受けたら歩けない。後藤は純二の姿を確認すると、重心を低くして男を追った。
すぐ近くにいた。でも追いかけてきたのが女性従業員ではなくて、後藤たちだと知ると目に落胆の色を見せた。
「さっき小屋の入口にいた人たちだね。どうして、俺を追いかけてくる」
男が向き直った。「そうか、真理に頼まれたんだな」
「真理さんって、山小屋の女性のことですね。だったら違います」
純二が、口に張りつく雪を払いながら否定する。まどろこしい、後藤は単刀直入に聞いた。
「あなたはユリと一緒にここまで来た。そしてどういう事情か分からないが、死のうとする二人を見すてて下山を決めた。なぜ、無理やりでも引きとめなかった」
「それをどうして? 君たちは――いったい?」
呆然とさせる男の声が、横殴りの雪に掻き消された。
谷底から雪を巻き上げ暴風が吹く。正面からも、風雪がユリをめがけ叩きつけてくる。
高橋が、大きく上半身をのけ反らせて立ちどまった。苦しそうにユリを見返してきた。スキー帽といわず顔じゅう雪にまみれ、表情から気持ちを察することはできないが、その目は、あきらかに呵責が感じられた。
「ユリちゃん、君は、ここへ死にに来たんだね」
昨夜横尾に泊まったとき、その高橋が思いつめた顔をさせて言ってきた。
「どうして?」ユリは否定もせずに聞き返した。それは高橋に、忍び寄る死の黒い影を感じていたからだった。
この人も死ぬために、きた。
理由も言わず、押し黙る高橋を見ているうち直感が確信に変化した。
そのうち高橋が話はじめると、推測にしかすぎないが、その黒い影の中に村井の起こした事件が想像できた。
「もしかして娘さんの行方が分からないの?」
ユリは訊いた。高橋は驚いた表情を見せる。
「僕には十八才になる娘がいた。それが、とつぜん行方不明になってしまったんだ。家族関係は良好だったし家出は考えられなかった。でも、まる一年経つのに見つからない。警察も必死に捜索したけど、手掛かりさえ見つけられず捜査を打ち切られた。妻はノイローゼになったあげく、離婚を言い渡してくる始末だ。不況でリストラにもなるし、僕はこの一年で大切なものをすべて失ってしまった。だから死のうと思って、ここへ来た」
高橋は、ユリを見つめて続ける。「同じ波長というのは、引きつけ合うんだね。君が死のうとしているのが、ぴんときたよ」
高橋は一緒に死のうと言ってきた。お願いだからとも。
それなのに、悪天候にあっさり屈する。嘘ざむい芝居を見せられた気がする。
「あなたは戻ったほうがいい」ユリは言った。高橋は俯く。
変身に怒りも湧かなかった。けれど、信じるということはこんなにも惨めなのだと改めて思い知らされた。
「気にしないで。最初から一人で死ぬつもりだったから」
しゃがみ込む高橋に声をかけ、歩いた。裏切りが死の炎を増幅させる。ユリは振り向くことなく、垂直を思わせる断崖の鎖に手をかけた。
鎖が揺れる。その震動で、降り積もった雪が顔に落ちてきた。それを払おうともともせずに、一歩ずつ身体を引き上げていく。上も下も見ないで目の前だけを見つめて登った。
寒さで指が切れるかに冷たい。もしここで鎖を掴む手を離せば、谷底へ真っ逆さまに墜落する。ならテラスへ登ろうが、ここで落ちようが、谷底で死ぬことに変わりがないのではないか。そんなふうに思ったりもした。
でも違う。登りさえすれば百パーセント自分の意思で死ねる。ここで落ちてしまえば半分は事故。意思がかすむ。同じようでも意味合いが別なのだ。
猛烈に吹きつける雪をまともに顔で受けながら、歯を喰いしばる。どこまで登ったのか、それすらも分からない。上も下も目の前も視界はすべて真っ白だった。