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 後藤たちは雪と風を避けるため、山小屋の軒下に身を寄せていた。

「なら高橋という人は、北穂高で死のうとしていたのか」

「そうなんだ。どうも様子がおかしいので、問い質したら白状した。でもまさか、ユリちゃんまでが自殺しにきたとは思わなかった。何とかユリちゃんだけでも思いとどまってほしかったが、最後には高橋と喧嘩になってしまって――このざまだ」

「二人が出て行ったのは、どのくらい前ですか」

 純二が聞いた。すぐにも飛び出したい気持ちが有り有りだった。

「二人が出て行ってから、すぐ下山の準備をしはじめたから十分も変わらない。上手くいけば鎖場で追いつけるかもしれない。最悪でも南稜テラスでは、必ず」

「南稜テラスか――」

 後藤は夢を思い出す。純二へ言った。「行こう、テラスでは手遅れだ。鎖場で追いつきたい」

「俺も連れていってくれないか。友を見すてることなんてできない」

 純二を促し、足を南稜に向けたとき、渡辺が後藤の背中へ声をかけてきた。深々と頭を下げていた。命の重さと友情を思い出したみたいだ。

「好きにすればいい」

 後藤は、素っ気なく先頭を歩き出す。

 だが、すんなり歩けたのは山小屋近辺の数メートルだけ。その先はもう雪以外に見えるものはない。新雪の深さだけで足首まで達していた。

 疲労から、まったく睡眠をとっていなかったのを思い出した。寒さで、横尾で蜜柑と林檎しか口にしていないのも思い出した。そのうえ一歩足を進めるたびに、足先の感覚が壊れていくのが実感できた。

 くっ、凍傷か……。

 純二を見た。条件は同じであるのに辛さを顔に出していない。むしろ後藤を凌ぐ力強い足どりで歩を進ませている。

 勇気づけられた。強風に防寒具をなびかせ、後藤は雪で登りづらいガラ場を前進した。

 そのとき、前方から唸り上げるような轟音が轟くと、雪崩を連想させるかに雪が滑り落ちてきた。後藤は大岩を見つけ身を伏せた。純二も渡辺も続く。小さいが落石だった。急斜面を転がり消えていく。

「誰かが下山しているのかもしれない」

 渡辺が片膝を雪につけながら言った。

 この悪天候で、山小屋の登山者は登頂をすべて断念した。なら、ユリの可能性もある。後藤は前方を凝視した。

 見えない、何も見えなかった。だが耳を欹てれば微かに人の足音がする。

「あなたの言う通りだ、誰かが下りてくる」

 後藤は、それがユリであることを祈った。

 一つ、また一つ、岩を落としながら足音が近づいてくる。荒い息づかいが聞こえてきそうな足どりだ。やがて、ぼやけた白い影が輪郭を濃くした。

 渡辺が叫んだ。

「高橋、無事だったのか! でもどうした、ユリちゃんは?」

「この先の鎖場を登っている。今ごろは南稜テラスにいるはずだ」

 高橋が息を切らせて言った。荒い息もそうだが、目の縁が凍っていた。きっと泣きながら下りてきたのだろう。

 後藤には、その涙の意味が想像できた。置き去りにしたユリを慮ってではない。逆だ、自分が無事に山小屋に辿り着けるか不安で泣いていたのだ。

「いるって、まさか……この風の中に、ユリちゃんを置いてきたのか」

 渡辺が高橋の肩を荒っぽく揺すった。その剣幕に高橋はうろたえている。

「ぼ、僕だって、死ぬつもりだったんだ。だけど、いざ死が近づいてきたら怖くなってしまった。ユリちゃんの意志は固かったし、説得できなかった」

 とうとう高橋が嗚咽した。

 非人情な奴だ。

 後藤がそう思ったとき、渡辺が大声を張り上げた。

「ふざけるな!」と、高橋の頬に平手打ちをした。

「しかたないよ。僕はもう死にたくなくなったんだ、生きたくなったんだよ。だけど救助センターには知らせるつもりでいた」

 まるで見てられない。後藤は純二を促した。「ほっとこう。彼らを置いていく」

 

       

 鎖場へ辿り着いた。すでにテラスへ行ってしまったのかもしれない、少なくとも視界の範囲内にユリの姿はなかった。

 しかし垂れ下がった鎖に雪が積もっていない。雪岩に鈍びた光を浮かび上がらせている。姿が見えないとしても大した時差がない証拠だ。なら、急げば間に合うかもしれない。

 自殺をしようとする人間が、息を切らした状態で死ぬなんて有りえない。必ず心を落ち着かせ、苦悩を思い出してから極限まで決意を募らせるのだ。自分の死を自分なりに正当化したいから。

「純二、君に歩調を合わせていたら、ユリを助けることができなくなる。先に行く」

「頼む、どんなことをしても救ってほしい」

 純二が手を合わせて懇願してきた。

「どんなことでもするつもりだが、どんなことをしても、救えないことがある」

 絶対的な自信があるわけでもなかった。ただ後藤が一人で先に行くのも、そこにユリが一人でいるのも、みんな夢の再現。夢と同じであれば落ちる。ユリは死んでしまうのだ。

 でもなぜ、運命は後藤だけに夢を見させたのだろう。疑問を感じぜずにはいられなかった。

 よぎる疑問を消せぬまま両手で鎖を握り、岩をよじ登った。強風に煽られ、岩壁に全身を叩きつけられたが、足先に痛さがないのが幸いだった。このときばかりは凍傷に感謝した。

 鎖がなくなった。ほぼ垂直だった岩が平坦になった。ついにテラスへ到達した。

 ユリを捜した。すぐに見つけた。岩にもたれて息を整えていた。

「ユリ!」

 後藤は叫んだ。ユリが驚き、岩壁を背にして立った。身構えるかに振り向いた。

「まさか、圭? 違う圭じゃない。だったら後藤くん? でも、どうしてここに」

「高橋と言う登山者から、このテラスにいることを教えてもらった」

「純二と、一緒に来たの?」

「僕が先に登ってきたけど、じきにやってくる」

 言ってから後藤は跪いた。「頼む、死なないでほしい」

「跪かれても決心は変わらない。純二が来るというなら尚更。だって私は汚れきっているし、人を殺した。愛する人に合わせる顔なんてない。死ぬしかほかに道がないの」

「違う、正当防衛だ。だから死ぬ必要なんてない」

「でも私は、殺そうとしてアクセルを踏んだ。殺意があったのは間違いないの」

「それだって、死に値するもではないはずだ」

 と諭しながら近づこうとした、そのとき。後藤は、くらっと軽い眩暈を覚えた。同時に、思っても見ない言葉を口走っていた。声音が一変している。意思も隅に追いやられた。圭の仕業だ。

「死ぬのも生きるのも自由だ。だがジョルジュが登ってくるまでに、ジュリア、お前に確かめたいことがある」

「ジュリア? その名前で呼ぶということは、後藤くんでも圭でもない……ゴードンなのね」

 ユリが見る見る表情を強張らせる。唇を小刻みに震わせた。

「どうして震えている。寒いのか、それとも俺が恐いとでもいうのか」

「圭なら恐くない、けどゴードンなら怖ろしい」

 ユリが、懸命に震えを抑えようとするのだが、自然と後ずさりした。語尾も上ずっている。後藤には、ユリがこれほどまで怯える理由が見当つかなかった。それにしても、ゴードンが圭だったとは驚きだ。

「待て、動くな。俺もこれ以上近づくつもりはない。だから動くんじゃない。消えている記憶を知りたいだけだ」

 圭は低い声で問いつめると、跪いた姿勢のまま後ろを振り返った。純二が登ってきてしまうと不都合なのかもしれない。けどそれは取り越し苦労だ。谷底から鎖場にかけて、もろに強風が吹き荒れている。純二がここへ到達するには、まだまだ時間がかかるはずだ。

 圭が「早く言え!」と、苛立ちを見せる。

 ユリは首を振る。「言いたくない、あなたも聞かないほうがいい」

「だめだ、話せ。俺が自殺したわけを話すのだ。そうじゃなければ俺も死ぬ。二人が死ぬのを見てジョルジュがどう思うか、よく考えることだ」

 圭が凄んだ。

 でも、きっと見せかけ。圭の魂から哀しいまで愛しさが伝わってきたからだ。しかしユリは、もう二度と犠牲者を出したくないのだろう。

「そんなことをさせられない。話すわ、話すから、あなたは死なないで」

「だったら時間をかけるな、ジョルジュが来てしまうぞ」

 圭が急き立てる。

「ゴードン」

 ユリが目を見返してきた。「村井、いえ紳士が、あなたの財産を乗っとったの」

「そんなことは知っている。だから俺は、救いを求めてジュリア、お前に会いに行ったのだ。しかし紳士が出入り業者を装って――やはりそこにいた」

 圭が、その先を話そうとしたらユリが制した。

「そうね、確かにいたわ。そしてあなたは私を守ろうとした、と言いたいのでしょうけど、それは違う。あなたは紳士の狙いを知っていた。だからこそ財産を取り戻したい一心で、私とシンシアの居場所を告げたのだわ。矛先を私たちに向けさせることで、紳士を殺す機会を窺っていた。守りたいだなんて都合のいい口実、大嘘よ」

 ユリが濡れた目で睨みつけてきた。

 圭が、それを鼻で笑う。「続きを話せ」

「どう誑かしたのかは分からないけど、あなたは、まんまと紳士を殺したわ。そればかりか罪を贖おうとしないで、私に『修道院を出て一緒に暮らそう』と、言ってきたの。『金を取り戻したら、苦労はさせないから』と。そんなことが赦されるはずがない。私はきっぱり断った。そうしたら殺人が発覚したのだと思う。疑われたのね、今度は心中を迫ってきた。もちろん突っぱねた。自殺が大罪ばかりではなく、そのときは修道院で暮らす子供たちを癒すことしか考えていなかったから。だって私は、ジョルジュの犠牲のおかげで生きていられたのよ。何としてでも、その純粋な心を子供たちに伝えたかった。ジョルジュを心から愛していたの……」

 ユリは悲壮に唇を噛んだ。圭は黙って聞いている。でもそれは表向き。心が砕け散りそうなぐらい揺れているのが後藤に伝わってくる。

「あなたは修道院の裏手にある森の中へ、私を連れ去った。村井が群馬県の山中へ私を埋めようとしたのと同じ行為だったわ。けどシンシアが気づき、男の人たちを呼んできたので、寸前の所で助け出された」

「シンシアというのは涼子。ヨシュアが救命ボートに投げ込んだ少女だな」

「そうよ。あなたが紳士を殺すために生贄にしようとした少女。ゴードン、あなたは殺人、生贄、自殺、罪の三重苦に陥り、地獄へ堕ちたの!」

「嘘だ! 俺はそんな卑怯な男じゃない。お前が沈んでいったとき引き上げたし、お前とヨシュアを助けたい一心で、自らの死を決意した」

「その気持ちは、ほんとうに感謝している。でも助かって心変わりしたのも事実なの。すべては、お金のせい。あなたの財産への執着心から引き起こされた哀しい現実だった」

 ユリが大きく深呼吸をした。寒さで凍りついていた手袋を脱いで涙を拭った。

「聞いてゴードン。言うまいと隠していたけど、ぜんぶ話すから」

「何だと! まだあるというのか」

「あるわ。こんな残酷な事件を引き起こした、きっかけともいうべき最大の原因が」

 圭が黙り込んだ。動揺している。心をさらに激しく揺らした。

 見かねてユリが言う。

「やっぱり聞かないほうがいいのかもしれない」

「いや、話せ。聞かせてくれ、お願いだから」

 圭の口調が、傲慢から哀願に変化した。

 ユリは話した。

「まず、紳士が助けられた詳細から話すことにするわ。救命艇の統率者だった医師、彼はジョルジュとヨシュアを死なせてしまった悔いから、遺体の回収を率先して続けた。そして半年後、無人島で餓死寸前の紳士を救い出した」

 ユリは、圭に問いかける感じで間を置いた。

「もうあなたは、その医師が誰なのか理解できたと思う。彼は三百年後のタイタニック号の沈没のとき、ようやく罪を償うの」

「そうだったのか。なら、あの医師が『爺さん』で、後藤と一緒にいた『謎の紳士の霊』だったのだな」

 圭が肯いたとき、すぐ近くで鎖が揺れる音がした。岩を蹴る足音も聞こえた。純二が登ってきた。

 ユリが崖に近づきながら言う。「まだ、原因を話していない」

「聞かなくたっていい。俺もお前も死ぬんだから」

 圭が後藤を無視して、ユリへ近づく。

 やめろ。後藤は心の内で叫んだ。あの手紙の贖罪は何だったのだ。真実が暴かれると、かくも惨めに成り果ててしまうのか。

 させない。後藤は再支配を試みる。だが、圭の意志は強い。じりじりユリに迫った。



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