終章 ジャステス 1
終章 ジャステス
1
関越道を走ってきたのはおぼろげながら記憶している。だけど、どこから乗って何キロの速度で走行してきたのかは全く覚えていない。ただ練馬インターへ着いたとき空が明るくなっていたことだけを、ユリは覚えていた。
それだけ失意の底にいたのだろう。
当然、と思った。過失でも未必の故意でもなく、あきらかな殺意のもとに犯した殺人なのだ。生きる価値などない。
ユリは、S警察署の近くへノブの車を違法駐車すると、鍵をサンバイザーに挟んで車を降りた。後部座席にあるノブの遺体と、群馬県の山中で死んだテツと村井とのあらましをメモにして座席へ置いてきた。
出頭するつもりはなかった。もう心も身体もとことん腐りきっていたし、自らの死をもって償わなければいけないところまできているのを実感していた。
仮に出頭したら、村井の殺意によって重刑にならない場合もある。のうのうと社会復帰などしたくなかった。
駅へ向かって歩いていると母の勤めるスーパーの前へ来た。死ぬ前に、顔だけでも見たいと思った。
家を飛び出してから五年、ずっと会っていなかった。今考えれば母も被害者、何よりたった一人の肉親なのだ。町に不釣合いの登山服姿が気になったが、柱の影から見るだけならいいだろう。ユリは店内へ入った。
時間は十時半、オープン仕立てなのにやたらと人が多い。考えてみれば年末セールの真っ最中で、従業員一人捜すのにも一苦労だ。でも思いのほか早く見つけた。
横向きだけど、まぎれもなく母。五年前よりぐっと老けていた。白髪染めをしていないのか、遠目からでも髪が白くなっているのが分かる。化粧だって濃い部類に入っていたのに、薄化粧というより、どちらかといえばすっぴんに近かった。
切なかった。これ以上見ていられなく帰ろうとしたとき、不意に名前を呼ばれた。
「もしかして、ユリちゃん?」と。
振り向くと、店の制服を着て業務用カートを押す女性が立っていた。年令は母よりいくぶん上、五十才に近い。
誰だろう?
「お母さんに会いにきたんでしょ。待ってなさいよ、今レジを変わるから」
と言ってから、女性が不思議そうにユリを見た。「そんな格好して、山でも登るの?」
ユリは返事ができない。誰なのか分からないこともそうだが、まさか死ににいくとは言えない。
「あら、私が誰だか思い出せないのね。何年もアパートの隣りに住んでいたのに」
アパート、その言葉で思い出した。ユリが小学生の頃に、唯一優しく接してくれた人だった。でも当時、こんなに太ってはいなかった。
「隣に住んでいた、優しかったおばさんね。憶えてるわ」
「やっと思い出してくれたのね。でも、あたり前かもね。ぶくぶく太ってしまったから」
女性は大きく息を吐いてから、ユリに耳打ちをする。「お母さん、村井さんと別れて正解だったのよ。彼がやめてから、次々と不祥事が発覚して大変だったんだから。やっと吹っ切れたみたい。化粧もしないで、ほら、あんたのためにお金を残すんだといって頑張ってる」
と、母を指さした。
ユリはどう答えていいか分からなかった。もうそんな価値もない人間。村井を車で轢き殺した殺人者。その村井やテツに痴態を曝け出し、腕を絡め背中に爪を立てた恥ずべき女なのだ。
「おばさん」
とユリは言い、背に担いでいたリュックを降ろした。中から預金通帳と印鑑の入った袋を取り出す。「これを、母に渡してほしいの」
「何なの、これは?」
女性は無作法にも中を覗いた。「あら、通帳と印鑑が入っているわよ。どういうことなの、ユリちゃん!」
ユリは声を無視した。リュックを担いで歩いた。向かう先の現実は残酷だが、ここでの一瞬は切なすぎる郷愁。しかし失ったと思っていた温もりの欠片を一つだけ見つけた。
壁にかかる時計が十時十五分時を指している。
昨夜ユリのアパートを訪ねたが、生憎留守だった。夜の仕事とも聞いていたので留守も肯けたが、妙に気になった。そのため昼になったら、もう一度行こうと決めていた。
しかし待ちきれない。後藤は身支度を整え外へ出た。といっても、昨日も着ていた革ジャンパーとジーンズだ。最近とんと見かけなくなったが、機能的なので気に入っている。
表通りを避け、近道でもある裏通りを歩いていたら、冬休みのせいか、これから都心へ遊びに出かけようとする高校生ぐらいの少女が二人、大笑いをして通りすぎていった。化粧はかなり濃い、村井みたいな人間に出会わないことだけを願った。
ユリのアパートに着いた。人の気配がしなかったが呼び鈴を押した。
応答がない。試しに、もう一度押す。ぐっすり寝込んでいる場合も考えられるし、汚い例えだがトイレに入っていて出られない可能性だってあるのだ。
しかし二度目も応答がなかった。
何かが起きたなと思いつつ、帰ろうとしたら隣の扉が開いた。中からエキゾチックな顔立ちながら、流暢な日本語を操る女性が顔を覗かせた。
「ユリさんに用なの?」
「ええ、友だちです。心配で訪ねてきたのですが、留守のようですね」
「心配?」
女性は後藤の顔を探るように見る。「あなた純二さんね、手紙預かってるわ」
女性は後藤の返事を聞こうともせず扉を閉めた。預かったという手紙を取りにいったのだろうが、大まかすぎる。ラテンの血が混じっているのかもしれない。
さて、困った。
純二ではないが、ここで糸口を断つわけにもいかない。後藤は純二の振りをして手紙を預かることにした。
廊下を歩く音がすると、また扉が開いた。
「はい、これ」
女性が、封筒に入った手紙を手渡してくる。「二、三時間前に出ていったけど、ユリさん、しばらく帰ってこないって。北アルプスって所へ行ったわ」
「北アルプス? ユリに、何かあったのですか」
嫌な予感がした。しかし女性は口ごもって言わない。「だったら、昨夜か今朝に、僕以外の訪問者があったはずだ」
一昨日は何も異変はなかった。考えられるとしたら、昨夜か今朝に何か起きたとしか思いつかない。
後藤の疑問に、女性がおずおずと話しはじめた。
「私、日本人じゃなくてフィリピンとスペインの混血だし、信用されない。だから警察へ行かなかったけど、昨日の夜、大騒ぎがあった。ユリさん、きっと暴行されたんだと思う。三人ぐらい男の声が聞こえたよ」
女性が目を伏せた。伏せながら続けた。
「そして朝方、車で帰ってきたよ。それから部屋の鍵を渡されて、家具も服も好きなだけ持っていってと言われた。だから、もしかして女の感だけど、ユリさん死ぬ気かもしれない」
「何だって! 死ぬ気?」
その後の言葉が続かない。涼子が危惧していたのはこのことなのか。怖れていた夢が現実味を帯びてきた。
「鍵あるから、入ってみる? 調べたいんでしょ」
女性の言葉を受けて、心を惑わされながら部屋へ入った。だが、律儀なユリらしく室内はきれいに整頓されていた。騒動の痕跡など跡形もない。
ただ、事件を想定した頭でくまなく検分したので、フローリング板の隙間にわずかだが血を拭きとった痕を見つけた。室内が多少アルコール臭いので拭き残しだと思われる。ほかには脱衣所のクロスに泥みたいな汚れが付着しているていどで、別段これといった手掛かりは見つからなかった。
しかし、胸ポケットにしまった純二の手紙の中に、すべてが記されているに違いない。
なら、純二の所へ行こう。急げば間に合う。
帰ろうとすると、女性はクローゼットを開けては服を取り出し、はしゃいでいた。大らかなラテンの血が混じっている女性だ、後藤がいるのも忘れて着替え出すかもしれない。黙って部屋出て、純二の家へ向かった。
「頼むから、いいかげんにしてくれないか」
S警察署捜査一課の警部補は、うんざりとした顔を純二へ向けてきた。
「そりゃ、我々も君が限りなくクロだと思っている。しかしだ、それを立証するものは何もないんだよ。起訴だってできやしない」
「だけど、ステアリングに俺の指紋が残っているはずです。マットや地面に血痕も」
「君は、私たちの鑑識が、そんな初歩的ミスを犯すと思うのか。全部調べたよ。ハンドルは拭きとられて誰の指紋も残っていないし、マットと路面の血痕も、君のではなかった」
「そんな、ばかな……」
「それは私が言いたい台詞だ。だってそうだろ、間違いなくうちの署員が確認しているんだよ、君が死んでいることをさ。なのに怪我一つせず生きてる。有り得ると思うのかい」
「じゃ、俺はどうすればいいのですか」
「だから犯人の死亡によって事件は解決、捜査本部は解散。これ以上議論するつもりはない。帰りたまえ」
ノブとテツ、さらに村井のことを調べてほしいと、お願いしても取り合ってもらえなかった。一応、警部補の緊急連絡先を教えてもらったものの、純二は体よく追い払われた。無罪放免、いや有罪放免になった。
無銭飲食をして謝ったら、今日は無料デーだからと言われて帰されたようなもの。得心がいかなかった。妙なわだかまりを残して警察署を出た。
すると、そこへノブの車がレッカーで運ばれてきた。横を署員が慌しく走りまわっている。五分前まで純二の取調べをしていた警部補も、目を引きつらせ飛び出してきた。
ただの駐車違反でないことがすぐに分かったが、それ以上のことは想像もつかない。気になり、様子を見に行こうと近づくと、不意に背後から肩を掴まれた。
「君に話がある」
圭だった。




