第9章:最後の推敲
世界が、白に塗りつぶされていく。
足元の床が消え、書架が消え、天井が消える。存在した全てが、情報としての意味を失い、ただの無垢なキャンバスへと回帰していく。これが、世界の初期化。【大調停者】が持つ、絶対的な権能。
「無駄ですよ」
白い虚空に、【大調停者】の声だけが響く。「あなたたちが紡いだ小さな物語も、抱いた意志も、全て消え去り、またゼロから、完璧な調和の世界が始まるのです」
「させるかよッ!」
快晴が、光の剣を構えて虚空に斬りかかる。だが、剣は空を切り、彼自身の体が足元から透け始めていた。
「くっ……体が……!」
「当たり前です。あなたたちは、この世界の登場人物。私がシナリオを削除すれば、あなたたちの存在も消える。それが、理です」
リリアーナも、セレスティアも、ゾルディアでさえも、その抗いがたい法則の前には為す術がなかった。存在そのものが、薄れていく。
だが、俺だけは違った。
俺は、この世界の登場人物であると同時に、外部から来た「異邦人」だ。世界の初期化に、完全な耐性があるわけではないだろうが、消えるまでの時間には、わずかな猶予があった。
「フミト……!」
ゾルディアが、薄れゆく体で俺に叫ぶ。
「お前の『物語介入』は、どうした! こいつの欺瞞を暴き、世界を書き換えるんだろうが!」
「無理だと言っただろう!」
俺は、歯噛みした。「こいつには、介入のトリガーとなる『自己欺瞞』がない! 純粋な善意と、絶対的な確信で、この世界を管理している! 指摘すべき矛盾が存在しないんだ!」
そう、こいつは悪ではない。
歪んではいるが、一つの絶対的な正義だ。
俺の力は、絶対悪には通用しても、絶対善には通用しない。なんと皮肉なことか。
「諦めなさい、古堂文人」
【大調停者】の声が、まるで鎮魂歌のように響く。「あなたも、やがて消える。そして、苦悩のない、新しい物語が始まるのです」
本当に、そうか?
本当に、矛盾はないのか?
俺は、必死に思考を巡らせた。作家としての、人間の心の矛盾を抉り続けてきた全ての経験を総動員して。
【大調停者】の論理は、完璧だ。
『人々は苦悩を望まない』『だから、私が安寧を与える』。
この論理を、どうすれば崩せる?
その時、脳裏に、快晴の言葉が蘇った。
『俺たちを、操り人形にするのは、もうやめろ!』
そうだ、操り人形。
【大調停者】は、俺たちを登場人物だと言う。自分は読者だと言う。
だが、本当にそうか?
「……見つけたぞ」
俺は、呟いた。
「お前の、唯一にして、最大の『矛盾』を」
俺は、白い虚空に向かって、作家人生の全てを賭けた言葉を放った。
「【大調停者】! お前は、読者などではない! お前こそが、この世界で唯一、自分の役割に縛られた、哀れな登場人物だ!」
「……何を、言っているのです?」
【大調停者】の声に、初めて明確な動揺が走った。
俺は、最後の力を振り絞って【物語介入】を発動する。対象は、この世界の創造主そのもの。
「お前は、『世界を管理する調停者』という役割を、自分自身に課している! 人々が苦悩から逃れたいと願ったから、お前はその願いを叶える『救済者』という役割を、ただひたすらに、忠実に、演じ続けているだけだ!」
俺の言葉が、世界の法則に亀裂を入れる。
白い世界に、黒い線が走った。
「お前は、俺たちに自由意志がないと言う! だが、お前自身にこそ、自由意志がないじゃないか! お前は、自分の役割から逸脱することを、自分自身に禁じている! 『世界を初期化する』という行動も、結局は『世界を調和の取れた状態に保つ』という、お前のプログラム(役割)に従っただけの、自動的な反応に過ぎない!」
「黙りなさいッ!!」
【大調停者】が、初めて絶叫した。
その完璧な神の貌に、焦りと、恐怖と、そして俺がずっと探していた「自己欺瞞」の色が、濃く浮かび上がっていた。
「俺たちが操り人形だというのなら、お前は、俺たちを操るという役割を運命づけられた、一番不自由な操り人形だ! この世界の真の主人公は、お前でも、勇者でもない! この世界に存在する、全ての『物語』そのものだ! そしてお前は、その物語に奉仕するためだけに存在する、ただの『設定』に過ぎない!」
俺の言葉が、最後の引き金を引いた。
【大調停者】の体が、激しく明滅を始める。
介入のトリガーは引かれた。あとは、この世界を、どんな物語に「書き換える」か。
俺は、振り返った。
薄れながらも、まだ存在を保っている仲間たちを見る。
快晴。リリアーナ。セレスティア。ゾルディア。
彼らはもう、勇者でも、王女でも、聖女でも、魔王軍幹部でもない。
ただ、自分の意志で、自分の未来を選ぼうとしている、一人の人間だ。
俺は、懐から、あの古びた万年筆を取り出した。
最後の【物語介入】。
それは、俺の命と精神の全てをインクとして、世界の根本原理に、新しいルールを書き加える、最後の推敲。
俺は、白い虚空という原稿用紙に、ペンを走らせる。
「第一条」と、俺は宣言した。
「この世界に、絶対的な主人公は存在しない。全ての人間が、自らの物語の主人公である」
快晴の体が、確かな輪郭を取り戻す。だが、彼を包んでいた勇者のオーラは消え、ただの精悍な青年の姿になっていた。
「第二条」
「この世界に、確定した結末は存在しない。未来は、そこに生きる人々の、無数の選択によってのみ紡がれる」
リリアーナの体が、実体化する。彼女の瞳には、これから背負うであろう国の重みが、決意となって宿っていた。
「第三条」
「この世界に、万能の力は存在しない。奇跡とは、神が与えるものではなく、人が、誰かのために尽くす、意志の力の別名である」
セレスティアの体が、穏やかな光と共に輪郭を取り戻す。彼女の手は、もう奇跡の光を発しない。だが、その手は誰よりも温かい。
「第四条」
「この世界に、生まれながらの役割は存在しない。何者であるかは、自らの行動によってのみ、証明される」
ゾルディアの体が、完全に実体化する。彼の瞳からは虚無が消え去り、これから始まる「目的のない人生」への、静かな好奇心が宿っていた。
そして、俺は、最後の条文を書き記す。
「最終条項」
俺は、激しく明滅する【大調停者】に向かって、静かに告げた。
「お前もまた、役割から解放される。もう、世界を管理しなくてもいい。お前も、これからは、ただの一人の読者として、あるいは、名もなき登場人物として、この混沌とした世界を、自由に生きていけばいい」
その言葉が、決定打となった。
【大調停者】を縛っていた「役割」という名の鎖が、砕け散る。
その体は、神々しい光を失い、どこにでもいるような、ごく普通の人間の姿へと変わっていった。その表情には、戸惑いと、そして、長い長い責務から解放されたような、かすかな安堵の色が浮かんでいた。
世界を覆っていた白が、完全に消え去る。
俺たちは、元の神殿に立っていた。
だが、そこはもう、無限の図書館ではなかった。ただの、古びた石造りの、がらんどうの空間。
俺は、その場に崩れ落ちた。
命をインクにした代償は、あまりに大きかった。
万年筆が、手から滑り落ち、カラン、と音を立てて転がる。
「フミト!」
仲間たちが、俺の周りに駆け寄る。
薄れゆく意識の中で、俺は、彼らの顔を見上げた。
勇者でも、王女でもない、ただの人間たちの、心配そうな顔を。
ああ、悪くない。
悪くない、結末だ。
俺が書きたかったのは、きっと、こういう物語だったんだ。
英雄は現れず、世界は救われない。
だが、そこに生きた、確かな人間たちの記録。
俺の異世界での反逆は、こうして、一つの物語の終わりと、無数の物語の始まりを告げて、静かに幕を閉じるはずだった。