エピローグ:そして、物語は始まる
あれから、どれくらいの時が経っただろうか。
俺、古堂文人は、とある港町の、海が見える小さな部屋で、この手記を書いている。
【物語介入】の代償は、俺の足の自由を奪った。もう、自分の力で歩くことはできない。まあ、前世で引きこもっていた頃と大差ないと思えば、腹も立たない。
世界のシステムは、俺が最後に推敲した通りに書き換わった。
ステータス画面は、もう開かない。レベルアップもしなければ、都合のいいスキルもない。魔法の力は、人々の信仰心が薄れると共に急速に衰え、今ではロウソクの火を灯すのがやっと、といった程度だ。
世界は、神の脚本から解放され、俺がよく知る、あの不条理で、理不尽で、そして、どうしようもなく愛おしい「現実」へと姿を変えた。
もちろん、世界中が大混乱に陥った。
魔王は、絶対悪という役割を失い、ただの強力な力を持つ一人の支配者となった。彼と人間との戦争は、善悪の戦いではなく、領土と資源を巡る、ありふれた、泥臭い戦争へと変わった。決着は、まだついていない。
そんな世界で、かつての仲間たちは、それぞれの道を歩んでいる。
天光快晴――勇者だった青年は、日本に帰る方法を探すのをやめた。
彼は、特別な力を失ったただの青年として、自らの無力さと向き合った。最初は苦しんだようだが、今は、とある開拓村で、他の村人たちと汗を流して畑を耕しているらしい。先日届いた手紙には、不器用な字で「自分で育てたジャガイモの味は、どんな聖剣よりも尊い味がする」と書かれていた。彼はようやく、自分の手で何かを成し遂げることの本当の意味を見つけたのだろう。
リリアーナは、予想通り、茨の道を歩み続けている。
魔法という便利な力が失われた世界で、国を治めるのは困難を極めている。貴族の反発、近隣諸国との緊張、そして、魔王軍との終わらない戦争。彼女は、かつての俺のように、眠れない夜を幾度となく過ごしているに違いない。だが、彼女が下す決断の一つ一つが、この国の新たな歴史を、新たな物語を紡いでいる。彼女こそが、この国で最初の、真の意味での為政者だ。
セレスティアは、大陸でも有数の医者になった。
奇跡に頼らず、地道な研究と実践を積み重ね、多くの人々を救っている。だが、救えない命も、当然ある。彼女は、その一つ一つの死を背負い、悼み、それでも前を向いて、次の患者と向き合っている。彼女の診療所の周りには、彼女を「聖女」ではなく「先生」と呼ぶ、多くの弟子たちが集まっているという。
そして、ゾルディア。
役割を失った元・中ボスは、今も世界を放浪しているらしい。時々、風の噂で彼の話を聞く。ある時は、紛争地帯で傭兵として弱者を守り、またある時は、吟遊詩人として、俺たちが体験した物語――神に反逆した者たちの、滑稽で物悲しい叙事詩――を歌って回っているという。彼はようやく、自分の「無意味な生」を、心から楽しむ術を見つけたようだ。
役割から解放された【大調停者】は、どうなったか。
彼は、名もなき旅人として、俺たちの前から姿を消した。もしかしたら、今も世界のどこかで、この混沌とした物語を、ただの一人の読者として、あるいは登場人物として、静かに見つめているのかもしれない。
俺はといえば、ゾルディアが時々送ってくれる金で、こうして穏やかに暮らしている。
俺の仕事は、一つだけ。
書くことだ。
俺の目の前には、ただの紙と、インクがある。
俺は、この世界で起こる、名もなき人々の、ささやかで、しかし尊い物語を書き留めている。
畑を耕す元勇者の物語。
国を背負う女王の物語。
命と向き合う医者の物語。
世界を放浪する元騎士の物語。
それらは、誰かを無条件に救う英雄譚ではない。
ハッピーエンドが約束されたお伽噺でもない。
ただ、そこに生きた人間の記録。
不条理な世界で、迷い、苦しみ、間違い、それでも、自分の足で立とうとする、どうしようもない人間たちの、汗と涙と、そして、時折見せる笑顔の物語だ。
窓の外では、港町の喧騒が聞こえる。
船乗りの怒声、魚売りの威勢のいい声、子供たちのはしゃぐ声。
その全てが、この世界が、もはや神の脚本に頼らず、自らの力で動いている証拠だった。
俺は、万年筆を手に取り、新しいページの冒頭に、タイトルを書き記す。
『そして、物語は始まる』
世界に英雄はもういない。
神もいない。
だからこそ、ここから、人間の、本当の物語が始まるのだ。
俺は、作家として、その最初の1ページを、静かに、そして、確かな誇りと共に、書き始めるのだった。




