第3話 早く来すぎて、遅く帰る
あのとき、遅刻したせいで南條さんと同じ席に座らされ、さらに教師に彼女を教えるように言われたことで、私の中には深い影が残った。その経験は本当に耐えがたいほど苦しくて、彼女の学習態度や様子、ただ隣に座っているだけでも、気持ちは大きく揺さぶられてしまう。
だからそれ以降の補習の授業では、いつも以上に慎重になった。誰よりも早く教室に来て、必ずいつもの席に座る。もう二度と、あんな予想外の状況が起こらないようにするためだった。
ある土曜日、母と出かけた帰り、補習の開始までまだ1時間半ほど時間が残っていた。いったん家へ戻れば、すぐまた出かけなければならない。それでは時間も無駄だし、面倒でもある。だから私はそのまま塾へ向かい、そこで待つことにした。
塾は商業ビルの中にあり、エレベーターで5階まで上がった。扉が開くとすぐ、そこは塾のロビーになっていて、休憩スペースが設けられている。生徒たちが休んだり、水を飲んだり、授業の準備をしたりするための場所だ。
そこで少し立ち止まり、先に教室へ入って鞄だけ置いておこうかと考えた。席を取られてしまうのも嫌だったからだ。
教室の扉を押して中に入ったとき、時計はまだ午後1時を少し回ったばかりで、授業までは1時間以上も残っていた。けれど、目に入った光景に、私は思わず足を止めた。
南條さんが、もう教室にいた。
何も言わず、ただ黙って机に向かい、練習問題をじっと見つめている。ペン先が紙の上をゆっくりと動き、周囲の気配などまるで気にしていないようだった。
心の中でひそかに首をかしげた。
「……こんなに早く? いったいどれくらい前からここにいるんだろう」
私はそっと鞄を自分の席に置いた。本当はそのまま外に出て、廊下か洗面所のあたりで少し気分を変えようと思っていた。けれど教室を出た瞬間、思わず振り返ってしまう。
彼女はまだ顔を上げていなかった。視線はずっとノートと問題集に落ちたまま、手は休むことなく何かを書き続けている。間違えた問題のやり直しなのか、メモなのか、単語なのか、それともただ同じ練習を繰り返しているのか。
そこまでは分からない。
ただ、その集中ぶりだけは、どうしても目を逸らせないほどだった。教室に入ってきて、鞄を置き、そしてまた出ていったことにさえ、彼女はまったく気づいていなかった。
それから二週間ほど経つうちに、少しずつ気づき始めた。私が早めに来ても、あるいは授業が終わって少し遅く帰ろうとしても、南條さんはほとんどいつもまだそこにいる。ほかの生徒たちが授業が終わるやいなや、我先にと教室を飛び出していくのとは違い、いつも静かに席に残っていた。早く来て、遅く帰る。まるでわざと、この場所で時間を使い続けているかのようだった。
ある日、私はうっかり学校の宿題を塾に置き忘れてしまった。気づいたときにはもう外は暗くなっていて、本当は翌日に取りに来ればいいと思ったけれど、次の日の学校で必要だったことを思い出し、結局もう一度引き返すことにした。
扉を押して中に入った瞬間、思わず足を止めた。教室の灯りは一つだけ点いていて、薄暗い光が机の上に落ちている。空気にはチョークの匂いが漂っていた。そこにまだ誰かがいた。
胸がきゅっと締めつけられ、思わず息を止める。
「……まさか、この時間にまだ誰かいるなんて。もしかして……」
頭の中に一瞬よぎったその考えは、自分が何か奇妙な場面に踏み込んでしまったのではないかと思わせるほどだった。思考が乱れかけたそのとき、ようやくその人影をはっきりと見て、すぐに安堵の息をついた。
そこにいたのは——南條さんだった。
教室には彼女一人しかいない。机に向かって座り、頭を下げたまま、その日の授業内容を小さな声で読み上げていた。声は途切れ途切れで、誰かにそっと語りかけているようでもあり、ただ自分のために読んでいるようでもあった。その光景はあまりにも静かで、こちらまで声を出すのがためらわれるほどだった。
私はわざと覗き込んだわけじゃない。それでも、その光景はどうしても目に入ってしまう。薄暗い光、彼女の背中、紙の上を走るペン先のかすかな音。言葉にできない違和感が、ゆっくりと胸の奥に広がっていく。
「……本当に、努力していないの? 本当に、ただ怠けているだけなの? もし時間を潰しているだけなら、どうしてこんなに遅くまで残っているの? 普通なら、とっくに遊びに行っているはずじゃないの?」
心の中で、そう静かに問いかける。けれど答えは返ってこない。その瞬間、ふと気づいた。もしかすると、これまでの自分の判断は、決して完全に正しいものではなかったのかもしれない。




