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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第3章 2022年5月

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第2話 「簡単だよ」と言ったのに、どうして私はできないの?

(南條千雪)


 夜はすっかり更けていた。部屋には、卓上ランプの灯りだけが残り、教科書のページの縁を薄く金色に裂いている。その光は、どこか埃をかぶった月明かりみたいだった。やさしいのに、どこか距離がある。その淡い光が、半分ほど開かれた教科書の上に落ちている。


 私はその一文を見つめていた。もう五回も読み返しているのに、言葉はまるで自分の意思を持っているみたいに——わざと視界の端から滑り落ちていく。どう掴もうとしても、指の間から逃げてしまう。


「この町で生まれて、育った私は……」


 声をできるだけ小さくする。まるで、部屋の空気を驚かせないようにするみたいに。


「……ま……ま……ち……」


 また、詰まった。


 舌はまるで、遅れて到着した旅人みたいだった。あの見慣れた道を、どうしても歩き出せない。文字はきれいに並んでいるはずなのに、目の前で揺れ、ずれ、互いに重なり合う。まるで、誰かが紙の裏側からそっと押したみたいに。一つ一つの文字が、急に信用できないものになる。文章はガラスの破片みたいで、どれだけ組み合わせても、どこか一枚足りない。


 子どもの頃からずっと、文字を読むことは私にとっていつもこんな感じだった。やりたくないわけじゃないのに、あの画の一本一本がまるで逃げ出すみたいで、記憶がその足取りに追いつかない。


 周りの人は「たくさん練習すればできるようになる」と言うけれど、どれだけ練習しても、気がつけばまた最初からやり直しているような感覚になってしまう。


 その挫折感はまるで潮の満ち引きのように、何度も何度も胸の奥へ押し寄せてきた。読むことがうまくいかないと、理解もそこで途切れてしまい、文章の奥にある本当の意味は、まるで別の部屋に閉じ込められているみたいで、私にだけ扉を閉ざしている。


 ふと、今日の塾で結城さんが言った言葉が頭をよぎる。


「実は、この文ってそんなに難しくないよ」


 声の調子は軽く、責めるような響きはなかった。その言葉は、まるで透明な石みたいに机の上に置かれていた——冷静で、シンプルで、ただの事実。


 けれど、私の世界では、その石は、すでにひび割れていたガラス皿をさらに砕いてしまった。


 教室の中で先生に急かされる声、両親の失望、クラスメイトの小さな笑い声。それらは無数の小さな砂粒のように、毎日毎日、胸の奥を擦り続けてくる。


 今日も、やっぱり例外じゃなかった。塾の教室で、問題に答えられなかったとき、先生の声には苛立ち混じりの叱責が滲んでいた。そして結城さんは、隣に座っている。問題は前ではまるで一杯のぬるい水みたいに、何の苦もなくすっと飲み干されてしまう。


 でも、私は違う。みんなよりもずっと長い時間を引きずって、丸一晩かけても、文章はまだぼろぼろに崩れたまま口からこぼれ落ちる。


 だからきっと、問題があるのは私なんだ。教科書でも、文字でもない——私自身に。もしかして私は、本当に……頭が悪いのかな。どれだけ頑張っても、誰かに認めてもらうことなんてできないのかな。どうして彼女はあんなふうにちゃんと見てもらえるのに、私はただ空気みたいに透き通ってしまうんだろう。


 目の奥がじんわりと熱くなっていく。でも、泣かなかった。誰かに聞かれるのが怖いからじゃない。そもそも、自分が誰のために泣けばいいのかさえ、分からなかったから。


 結城さんは悪くない。ただ、事実を言っただけだ。


 私だって分かっている。……もっと努力しなきゃいけないし、もっと強くならなきゃいけない。


 それでも、ランプの灯りの下にいる私は、このどうしようもない無力さを、胸の上に置かれた氷みたいに抱え込むことしかできない。ただ、黙って待つしかない。その氷がゆっくり溶けていくのか、それとももっと細かい破片に砕けていくのかを。


 ページをめくり、また戻す。ペンを手に取り、その一文を一画一画、書き写していく。


「この町で……生……ま……れて……」


 書きながら、同時に覚える。


 ペン先が紙の上を引っかくように走り、細い音を立てる。指はつりそうなほど強くこわばっているのに、それでも止める勇気が出ない。鉛筆が紙を擦るささやかな音が、まるで私の残りの忍耐を数えているみたいだった。


 文字がまた目の前で絡まないように、「町」の横に小さな四角を描く。「まち=町」と自分に言い聞かせるために。「生まれて」の上には、小さな上向きの矢印を描く。正しい文法を思い出すための印。


 そんな記号は、まるで子どもの落書きみたいだった。それでも、それらのおかげで、文字が頭の中からほどけて消えてしまうのを、どうにか引き止めていられる。


 こんなふうに無力なままでいたくない。だから、もう一度読まなきゃいけない。もっと何度も、もっと速く、もっとちゃんとできるように。


 だって、こんな簡単な文章さえできないのなら、いったい何の資格があって……明日、あの椅子に座っていられるんだろう……そして、何の資格があって、この世界で生きていられるんだろう……

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