第16話 ディスタンス
数回の授業を重ねるうちに、補習クラスの空気が少しずつ変わっていった。
最初のうちは、みんなただ南條千雪を「見ないようにしている」だけだった。彼女はいつも教室の隅に座り、一言も話さない。たまに教師に指されても、どもりながら数語を読み上げるか、途中で詰まって言葉を失ってしまう。その頃は、まだただの沈黙と戸惑いだけが漂っていた。
けれど、いつの間にかその沈黙が違う色を帯びはじめた。
あの日は国語の補習だった。教師が黒板に例文を書き、助詞の使い方を練習させようとしていた。
「じゃあ……この問題、南條さんに書いてもらおうか」
彼女はおずおずと立ち上がり、黒板の前に出る。チョークを持つ指が細かく震えていた。書き始めてすぐ、「で」を「を」と書き間違えた。
その瞬間、教室のあちこちから小さなざわめきが起こった。
「え、そこ間違える?」
「小学生レベルじゃん」
「先生の話、理解できてるの?」
彼女はぼんやりと教室を見回した。その目は焦点を失い、何をどうすればいいのか、まるでわからないようだった。
教師の表情がみるみる険しくなる。
「この問題、前の授業でやったばかりだぞ。ちゃんと聞いてたのか? 暗記じゃなくて理解だ。こんなんじゃ、どこの高校にも受からないぞ」
彼女はうつむいたまま、小さく頷いて席に戻った。
その日を境に、彼女の席——教室のいちばん後ろ、窓際の角。その隣の椅子は、塾の中で「空席」と呼ばれるようになった。教室がほとんど埋まっていても、その椅子だけはいつも空いている。新しく来た生徒がその席に目を向けても、すぐに視線を逸らした。まるでそこが席ではなく、呪われた場所であるかのように。
誰も、彼女の隣に座ろうとはしなかった。そして私も……無意識のうちに距離を取っていた。それが当たり前だと思っていた。あの頃の私は、そう信じていた。成績の悪い人に自分から近づく人なんて、いないと。
小さい頃から、親や親戚に何度も言われてきた。
「成績のいい子、ちゃんと勉強する子と仲良くしなさい。怠け者やだらしない子とつるむと、足を引っ張られるよ」
朱に交われば赤くなる。墨に交われば黒くなる。その言葉を、私はもう何百回も聞いてきた。だからあの頃の私は、すべてが当然だと思っていた。あの距離さえも、正しい選択だと信じていた。
***
ある日の数学の授業で、教師が南條千雪を指名した。「−3+7」——そんな問題、いくら不注意でも間違えるはずがない。
けれど彼女は、黒板にゆっくりと「−10」と書いた。チョークが黒板をかすめる音が、ため息のように響く。
次の瞬間、教室がざわめきに包まれた。
「うそでしょ、笑える!」
「こんなの間違える?」
「先生、また彼女に書かせたら俺たちまでバカになるって!」
笑い声が一斉に広がり、波のように彼女を飲み込んでいく。私は眉をひそめたが、声を上げることはなかった。心のどこかで、同じように思っていたのだ。
「どうしてこんな問題、間違えるの?」
教師の声にも苛立ちが混じっていた。
「南條、ちゃんと復習してるのか? こういうミス、本番の試験じゃ致命的だぞ! 次はちゃんとやれよ!」
彼女はうつむいたまま、一言も発しなかった。チョークの粉が髪の上に落ちて、薄い雪のように積もっていく。叱責の声と笑い声が、教室の中でいくつものひび割れをつくっていった。
彼女は反抗もしなければ、弁解もしなかった。その静けさが、かえって人の心に「当然だ」という感覚を生み出していった。
——まるで、あの場所に座ること自体が罰であり、彼女が「反面教師」として存在しているかのように。
その後の小テストでも、結果は相変わらず悲惨だった。
教師が成績を読み上げると、教室は一瞬だけ静まり返る。誰も驚かない。誰も目を見開かない。ただ、押し殺した笑い声がいくつか漏れ、空気の奥に、もっと深い距離が生まれただけだった。
私は黙って座り、彼女が答案用紙をしまう後ろ姿を見ていた。あのときの私は、ただそう思っていた。——孤立するのは彼女のせい。排除されるのは「努力しないから」。笑われるのは「できないから」。
その考えが、どんな嘲笑よりも残酷だったことに、私は気づいていなかった。
——彼女は、厚い雪に覆われた孤島のようだった。静かで、冷たく、誰も近づこうとしない。
そして私は……あのとき、まだわかっていなかった。気づきもしなかった。自分がすでに、傍観する人々の中の一人になっていたことに。後になって、ようやく理解した。あの「距離」の奥にあったのは、冷たさだけじゃない。私の中に潜んでいた、気づかないままの臆病さだった。




