鍛錬と
その日のうちから、早速オルドの街は動きだすことになった。
クレインが躊躇なく、街中に一つの声明を出したからだ。
『魔物の大群が森の奥で結集しているという情報が入った。そのためこれよりオルドの街は警戒態勢に入る。もし誤報であったのならその時は、私の不明を笑ってくれればよい。だが覚えていてほしい。私はこのローズアイルの地の庇護者として、わずかにでも領民が傷つく可能性を看過することができないのだ』
クレインの言葉を聞いて、不満に思う者はほとんど出なかったという。
返ってくる反応は、どれも彼に対して好意的なものばかりだった。
「もし魔物が来なくても、有事の際の訓練と思えばいいしな」
「ああ、そん時は最後に皆で打ち上げでもすりゃあいい。領主様なら酒の一杯でも出してくれるだろ」
反抗的な声が上がらないのは、普段敷いている善政のたまものってやつなのだろう。
未だ魔物の群れの襲来の影も形もない状態だったが、オルドの街は彼の鶴の一声で、驚くほどスムーズに動き始めた。
まず森の中で魔物を狩って生計を立てていた冒険者達は、臨時で出したクレインによる依頼を受ける形で、森の奥に入る偵察部隊と有事の際のための警戒を行う哨戒兵に分かれた。
そして街の衛兵達は交替で城壁に詰め、魔物がやってきた際に対応できるように訓練を開始。
物資の補給や警戒のために忙しく駆け回っている文官達から武器や食料類を受け取りながらああでもないこうでもないと精力的に動いてくれている。
街の様子はいささか慌ただしくなったが、街の様子はさほど変わらない。
領主であるクレインが積極的に備蓄を解放し他の地域から物資を迅速に運ばせているおかげで、麦や剣などの価格が高騰することもなく、街で暮らす人達も以前とほとんど変わらずに平穏に過ごすことができていた。
けれど何も変わっていないのかと言えば、当然そんなことはない。
戦う力のある者達は、いずれ来る戦いの時を待ち、雌伏の時を過ごしていた。
もちろんその中には、俺も含まれている。
「千五百十二、千五百十三っ!」
記憶を取り戻してから、基本的に日々の鍛錬を欠かしたことはない。
――俺には敵を一網打尽に出来るような大魔法も、遠距離から一方的に敵を殺せるような超長距離魔法も使えない。
使える魔法はたった一つ。魔法使いならわりと誰でも使える身体強化だけだ。
故に俺が頼ることができるのは、生まれてからずっと共にあるこの肉体ただ一つなのだ。
俺が強くなろうとするのなら、自分が持っている武器を極限まで鍛えるしかない。
「千五百十四、千五百十五っ」
身体強化を使えば、肉体の性能が向上する。
そしてこれは俺が数え切れないほど使ってきた体感での話になるんだが、身体強化で上がる出力は、自身の肉体のスペックに対して乗算のような形で増えていく。
故に身体を鍛えていれば鍛えているだけ、身体強化で上がるスペックも増すのだ。
更に言えば、たとえどれだけ超人的な身体能力を手に入れたといえ、その肉体の操作感はあくまでも普段の身体の延長線上にある。
故に何も使っていない素の肉体を鍛えていけば、その分だけ魔力凝集や身体強化を使った時の戦闘能力は向上する。
「千九百五十五、千九百五十六っ」
故に俺は筋トレを欠かさない。
魔力という不思議物質が身体を巡っているせいか、既に俺の肉体の素のスペックは、一般的な成人男性のそれとはかけ離れている。
今の俺は魔力凝集を使わずとも、石を握りつぶしたり、巨大な樹を気合いで引っこ抜いてぶん回したりすることができる。
自分で言うのもなんだが、人間をやめてると思う。
今やっているのは腕立て伏せだが、ただやるだけではとても疲れないので、最近は石屋で見かけた三メートルサイズの巨大な岩石を背に乗せた上でやっている。
これくらいの石をのせると流石にしんどさを感じることができる。
ただ最近はこの重さにも慣れてきたので、特注でもう少し重たい石を用意してもらった方がいいかもしれない。
筋トレで一番大切なのは、昨日の自分を超えていくことだからな。
「千九百九十九……二千ッ!」
腕立てを終え、そのまま起き上がる。
背中に乗っていた巨大な岩がズズゥンと音を立てて地面に落ちた。
「ふぅ……」
筋トレが終われば、次は魔力凝集と身体強化を使いながらの、実戦を想定した稽古だ。
俺の仮想敵は、魔王軍幹部のジャビエル。
遠距離攻撃が得意であるやつを倒すためには、とにかく被弾を覚悟して接近していくしかない。
俺は別に誰かから戦い方を習ったわけじゃない、我流の喧嘩殺法だ。
けれど新兵が一年も戦場を駆ければ銃の扱いに熟達できるように、続けていればなんとなくだが戦い方ってのがわかってくるもんだ。
どうすれば相手が嫌がるのか、どうすればこちらの攻撃が当てられるのか。
相手の技の起こりから筋肉の動きから先の先を読み、時に気合いと勘を頼りに攻撃を避ける。
身体強化を発動させ、同時に魔力凝集を発動させて腕と足回りに魔力を集中させ守りながら前進できる態勢を作り上げる。
普通は魔力凝集と身体強化を同時に使うことはできないらしいが、俺は頑張ったらなんかできた。
といっても身体強化のレベルを上げすぎると魔力凝集と反発してしまうので、そこそこの出力に抑えておく必要はあるんだが。
できたものはしょうがないということで、ありがたく使わせてもらっている。
できたぞと見せてみた時のフィーネの顔を思い出すと、今でも思わず噴き出しそうになる。
……って、今はそんなことを考えてる時じゃなかったな。
ジャビエルが使ってくるであろう攻撃を想定。
それによってこちらが受けるダメージ量を想定。
あらゆるものを事前に想定しながら、俺はジャビエルの影と戦い続けた……。
「ふぅ……お、なんだ。いたのか?」
仮想ジャビエルとの戦いが終わえると、大分離れたところからこちらを見ているアリアの姿があった。
俺がこうして鍛錬をしている場所は、侯爵家の敷地内にある練兵場だ。
兵士達が城壁周りで防衛訓練をしているのをいいことに、ほとんど独占して使わせてもらっている。
だからアリアが来ていても、なんらおかしなことはない。
どうやら椅子に腰掛けている様子から察するに、結構長い時間見られていたらしい。
別に隠していたわけじゃないんだが、コソ練を見られていたようでなんだか少し恥ずかしい。
「あの、これもしよろしければ……」
全身から噴き出していた汗を拭っていると、とてとてと彼女が近づいてくる。
手渡されたのは果実水だった。
飲んでみると、ちょうどよく冷やされていて美味い。
果実と水が渾然一体となっていて、思わず着ている服が弾け飛んで裸になりそうだ。
「なんで裸になりそうなんですか!?」
「俺の故郷だとな、美味いものを食うと服が脱げるんだよ」
「脱げるんですか!?」
がびーんと驚くアリアだったが、俺の様子を見てからかわれていると思ったのだろう。
ぷくーっと頬を膨らませながら、こちらを上目遣いで見つめてくる。
いや別に、からかってるわけではないんだけどな。
ただ前世の話をしてるだけで。
お粗末!
「で、これどうするんですか?」
アリアは周囲に広がっている惨状を見下ろしながら呆れたようにそう告げる。
さっきまで俺がリアルシャドーをしていた場所は、俺の攻撃の余波ですごいことになっていた。
今ここに流星群が振ってきたんじゃないかというくらいに大量のクレーターができている、なかなかにひどい惨状だ。
俺は定期的にやってるうちに慣れてきてしまっているが、たしかに初めて見たアリアから見るとショッキングだったのだろう。
「問題ないぞ。クレインにお願いして侯爵家の人間が綺麗にしてくれることになってるからな」
「問題大ありですわ! なんでこれを、うちの人間で直さなくちゃいけないんですの……?」
「俺には片付けをするくらいならしっかり休んでおいてもらいたいって、クレインが」
「もうっ! お兄様はマスキュラーに甘過ぎですわ! ぷりぷりしちゃいます!」
ほっぺたを膨らませながら本当にぷりぷりし始めるアリア。
なんとなく人差し指でほっぺを押してみると、しっかりとした弾力が返ってくる。
風船をつついているみたいで、なんだかちょっと面白い。
「わっ、ちょっ、やめてください!」
「貴様ぁっ! アリア様に何をする!」
後ろにいるリボ払い女騎士ことリエルは相変わらず怒っているが、その表情から以前のようなキツい感じはなくなっていた。
彼女はつい先日無事借金を完済した。
なのでただの女騎士に戻ったわけだが……ただの女騎士だとあんまり目立たないよな。
いっそのこともう一回借金とかした方が、キャラが立ってていいかもしれない。
俺はリエルの言葉を適当に聞き流しながら上着を着て、運動後の柔軟をしていく。
運動後のストレッチはわりと忘れがちだが、これをやるのとやらないのとでは次の日の疲れ具合に結構な差が出るからな。
「んで、アリアはどうして俺のところに来たんだ?」
「あ、そうですわ! お兄様の伝言を伝えに来たのです。今日の手合わせは無理そうだと」
「……まあそりゃそうか。領主のクレインがそんなことしてる暇ないだろうしな」
クレインとは曜日と時間を決めて定期的に戦うようにしていた。
なので一応戦っても問題ないように体力は残しておいたんだが……たしかにこんな状況ではあいつが時間を作るのは難しいだろう。
「なるほど、それならどうするか……もうワンセットやってもいいが……」
ちらっと横を見ると、既に練兵場の修復のためにやってきていた土魔法使い達が、俺の言葉を聞いて顔を真っ青にしていた。
……彼らに無理をさせるのも酷だし、久しぶりのオフにでもするか。
だがオフと言ってもすることがないな……自分で言うのもあれだが、俺は身体を鍛えること以外に趣味らしい趣味もないし。
「それなら私と一緒に街に出ませんか?」
「ああ、いいぞ」
「リエル、供は大丈夫よ。屈強な護衛がついてきてくれるので」
「……はっ、わかりました」
眉間に少しだけ皺を寄せながらも、リエルは首を縦に振る。
こいつも出会った頃と比べるとずいぶんと丸くなったものだ。
というわけで俺はアリアと二人で一緒にオルドの街をぶらつくことになった。
アリアと二人で何かをするのって、地味に初めてかもしれないな。
どうしよう、なんだか年甲斐もなくわくわくしてきたぞ。




