しめった温かなつづらおり
覚めたときは繋がっていた。
それなのに、前の方の片割れは、のせた鉛の重さに耐えかねパキンと割れ、井戸へ、つるべ落としで落ちていった。
だから、小さな泡立ちが肌合いの鉛した感じで書き記す。
重たいが、けっして冷たいわけでなかった。むしろ湿った温かさが心地いい。何度かいった秘境を、寝転がった姿勢のまま、荷台に揺られ、遊覧している。
みぎひだり、ひだりみぎと、急な九十九折りを小刻みに曲がりながら、その途中途中の掘られた石窟を一巡する。わたしが寝転がっているのは、エンジンのついた車輪のついた自動車の荷台ではない。ロバかラクダが、地面を踏みしめた足から骨を伝ってくる響きが仰向けの後ろ頭に響いてくる。
幼い頃に観たシルクロードの石窟寺院に一番近い。飢餓に襲われ乾きに耐えかねて、ひたすら岩を割がち、穴から始めた空間に身の上を預けた幾百の石窟寺院である。
現地を訪ねたことはないが、すでに異教となった人の世となって五十代ほどが変わったのだ。時を隔てて思い起こすものに違いはなかろう。
そうした思いのあった古人との、いっときではあるが交合をなすため観光客はやってくる。わたしは観光客ではないが、そうした周辺をうろうろしてる輩らしく、此処は何度か訪ねているので、入って、廻って、出てくるまでにどのような感じが起こってくるかのあらかたは心得ている。
だから、道が狭くなった途中で待ってる物売りたちに寝転がった顔につぎつぎキスされるほど近づかれても動揺はしない。園児の被る赤と白の布を二枚重ねしただけのキャップを被せられても、跳ね除けもせず、金も払わず、そのツバのせいで視界が半分になったまま揺られていく。
みぎひだり、ひだりみぎに揺られていく。
此処は、シルクロードではない。砂漠のなかの乾ききった西域ではない。湿った温かな九十九折は、脇をドっどと川や滝が龍のごとく走り回る津南である。1万年の厚みのある縄文より人々が息をつないできた津南である。
それでわかった。やっと気が付いた。
荷駄となった仰向けのわたしを運んでくれていたのは、つい2カ月前に異動した前の職場でわたしが頼む雑多な用事を嫌な顔ひとつせず黙々とやってくれていたあのひとだ。わたしよりも5つ年上で、小柄なわたしよりももっと小柄の、色の黒い髪の毛の硬いあのひとだ。
あんなさんざんに世話になりながら、2月も経っていないのにわたしは世話になりっぱなしのあのひとの名前が思い出せない。
このいい加減さは、なんなんだろう。
それでも、たまたまや年のせいなんかで誤魔化したくないもやもやさせる欠片は、まだわたしの中に残っている。
それに気付き、安心し、覚めた。




