二月二十八日 (金)[1]
事件は、二時間目の授業の終了七分ほど前にその姿を露呈した。
隆志はちょうどその時数学の授業を受けていて、数学の老先生が他の先生からの連絡を受け取っていつもより早くに授業を切り上げ出ていったのに対して、ノートをまとめる時間に余裕が出来たと喜んでいた。
事件が隆志にまで牙を向けたのは、次の英語の時間の事だった。いつもと同じように教室へ入ってきた英語教師の姿に、少しの期待が裏切られたと心中思いつつ隆志は授業に参加していたのだが、その途中、開始から十数分経った頃に、隆志はまた連絡に現れた生活指導の先生によって授業から連れ出されたのだった。
身に覚えはなかった。確かに中学生の時分には荒れていたが、それだけの理由で呼び出される筈もない。生活指導の先生は、黙って先へ先へと歩みを進めていくばかりで、詳細どころか何すらも語ってはくれない。何もやっていない以上、事情を聞いた上で弁明なり釈明なりすれば良いと思って、隆志はその後ろを付いていった。
東館、四階、南側。生徒の指導の為に作られた生徒指導室は、そんな場所にあった。一度すらも入った事のないその部屋へ、生活指導の先生に誘導されて入る。
「……祐」
その中に見えた人影に、隆志は思わず声を漏らしていた。正確に言えば、その人影の佇まいに、である。
「隆志……か」
その人影は、うなだれて尚も隆志を見る祐に、他ならなかった。
話は短く、かつ明らかだった。
昨日の夕方、学校近くの文房具店で万引きの被害があった。盗まれたのは九百円のコンパスセット五つで、店主が盗まれた時間に怪しい挙動をする祐の姿を見ていた。
要するに、祐に万引きの疑惑がかかっているのだった。
「先生、祐は昨日放課後、交換ノート部のメンバーと一緒に居ましたんやで」
まず、隆志はそう言った。昨日の放課後は全員でスーパーまで備品の購入へ行ったから、祐が文房具店で万引きなど出来る筈はないのだった。
「証拠はあるのかね」
しかし、眼鏡の男先生は、そう言って隆志を見つめた。
「証拠がなければ、君達が友人を救うつもりで嘘を吐いている可能性を除けない。分かるだろう?」
隆志はぐ、と口を噤んだ。証拠になる可能性のある物はスーパーのレシートぐらいしかないが、まず間違いなく何の証拠とも認められないだろう。
「けど、祐が盗んだっちゅう証拠もあらへんのやろ?」
「そうだ。だからこうして、本人に話を聞いているのだよ。君は、彼が君を呼ぶように言ったから呼ばれたのだ」
状況は非常に、祐に不利なように形成されているようだった。少なくとも、祐一人では抜け出し得ぬ程度には、だ。
何がどうあっても、祐を救い出さなくてはならない。隆志はそう固く決心した。
「あの時スーパーに居た人の誰かは、祐の顔覚えてるかも知れへん」
じ、と眼鏡の奥から見つめてくる先生を同じように見返しながら、隆志は一つ一つ慎重に言葉を選んで口に紡いだ。
「そやから、店員さんに話を聞いたら分かるかも知れん。先生、聞きに言ってもよろしいやろか?」
「それは駄目だ。ここは学校で、君は学生だ。更に言えば、私は生活指導職員だ。分かるだろう?」
隆志には、やけに鼻に付くように先生の言葉が感じられた。
「そやけど、そうせんかったら、祐の無罪の証明は出来へんのです」
「放課後でも構うまい。そうだろう」
そんな事はない。何でもない日常の記憶は、時間を経るごとに失われていくのだ。店員の記憶も、今には確かだとしても、放課後にはどうなっているか分からない。隆志はそう思ったが、同時にここで食い下がっても、先生が学校を出る事に許可を与える事はないだろう事も直感していた。
「分かりましたわ。放課後、店員さんに話を聞きに行きますさかい」
「ああ。そうしたまえ」
まるで祐の有罪を疑っていないような先生の態度に、隆志はこの先生が何よりの敵である事を確信した。そして同時に、難敵の出現に内心舌打ちをした。
「彼は……少なくともそれまでは、ここへ留めておく。何をやらかすか分からないからだ」
有無を言わさぬ語調で、先生はそう言った。
続けて、先生は隆志に三時間目の授業へ向かうように指示した。やはりここでも、争っても何の得られるものもないと思った隆志は、素直にそれに従って、まだうつむいている祐へちらりと視線を送ってから、生徒指導室を後にした。
祐の危機という情報は、放課後には交換ノート部全体に伝わっていた。祐はそう多く知り合いを持っていなかったらしく、この場合においてのみ、他の生徒に余計な噂が立つ事を防ぐという作用を生んでくれた。祐を除いた部員四人に、顧問の近藤先生。この五人だけが、無条件に頼れる人々だ。
「そもそも、その文房具屋の店主の誤解なんだろ? そっちを解いた方が早いだろう、と俺の可愛い妹が言っている」
「言うてへん。そやけど、それも一つの案やな」
初めはまず仲良くはなれまいと思っていた大樹が、今では親友と呼べる程の相手になっている。今はうつむいてしまっている美樹も、同様に頼りがいのある友達だ。
「だけど隆志、店員の方は急がないとダメだから、私はそっちを優先した方が良いと思う」
そして、和美は、何にも代え難い、特別な存在へと昇華を果たしていた。目も、柔らかい黒髪も、腕も、あるいはその爪の端に至るまで、全てが愛おしく感じられ、その一動一動にそれぞれいつも心を動かされる。付き合おうと決めた時には全く感じ得なかった新しい感情を、隆志は胸に感じていた。
「そやな。まずは、スーパーで聞き込みや。よし、行くで」
空いている机をまた埋め、曇った美樹の表情を晴らすには、そうするしかない。隆志達は頷き合って、立ち上がった。




