四月一日 (月)
どうしても上手くいかないと思える壁を砕き、突き抜けた先にこそ正解はある。
陳腐な色に満ちた言葉だったが、隆志はこの言葉を一番に好いていた。中学校の頃の校長先生が座右の銘だと語っていたこの言葉は、隆志の人生を左右する高校受験に大いに影響を与えた。隆志はつい一月前に、ギリギリ通るか通らないか分からないと言われていた高校より、もう一段上の高校に挑戦し、見事合格を果たしたのだった。入学を決めた高校は、市内の平均レベルの所だったが、元々学術成績が著しく低かった隆志にとっては無上の喜びであった。胸を張って両親や先生に報告して、山のような褒め言葉を受け取った。
そして今日が、その入学式だった。あいにくの曇り空ではあったが、隆志の心は十分に晴れている。平年より長かった冬が影響し、桜もまだ一分咲き、つぼみがぽつぽつと色を見せ始めた程度だ。だが隆志にはそれも、自分を歓迎する濃桃の並木に見えていた。そんな道を一人歩き、隆志は待ち侘びた高校の門をくぐった。
『体育館は右です!』
親切な看板にも誘導を受けつつ、アスファルトの地面を歩いていく。同じアスファルトでも、校外歩道のアスファルトと校内駐車場のアスファルトでは、踏み心地が全く違うように感じられる。だがそれは間違いなく、隆志の感じ方の違いであって、アスファルト自体の違いではなかった。
年寄りなお婆さんの先生が、きりきりと動いて新入生達に指示を下している。隆志は、自分がどの入り口から入ってどこへ並べば良いのかよく理解していたが、何となく指示を受けてみたく感じて、その先生の所へと近付いていった。
「女の子は左から、男の子は右からよ。ああ、あなた、だから男の子は右だって言ってるじゃない。……あら、そこの男の子。ちょっと良いかしら?」
「おはっ。何や、何でしょう?」
他の生徒に話し掛けていたのとは違う言葉を掛けられて、隆志は思わず驚きの声を挙げ、中学校の頃に出会った変な関西弁を話す親友から伝染したエセ関西弁が出かけたのを、何とか止めて返事をした。
「良い反応ね。あなた、交換ノート部に入ってみなさい。はいこれ、入部申請書」
素晴らしい手際で、その女先生はどこからかB6サイズの紙を取り出して、ペンと共に隆へ手渡した。
「は、はい?」
「私は近藤よ。交換ノート部の顧問のね。それ、名前を書いて、今日の間に私に渡しなさい。……女の子は右、じゃなかった、左! 左!」
近藤先生が背中を無理に押してきたので、隆志はそのまま体育館の方へと向かわざるを得なくなった。
交換ノート部という名前からして活動内容は明らかだが、活動目的が全く分からない。隆志はそう入部申請書を眺めながら、体育館へと入った。体育館には少し土っぽい緑のシートが敷かれていて、体育館靴をまだ持っていない新入生は土足で上がれるようになっている。どこの高校も、あるいは中学校でも行っている措置だったが、何となく隆志の心は躍った。
『い』列の『三』行が隆志の座るべき椅子の位置だった。椅子も長いすではなくて、個別の会議室にありそうな椅子になっている。少し大人になったような気分で、隆志は椅子へと腰掛けた。既に左隣、い列の二行の椅子は埋まっていて、そこに座っていた新入生の男は隆志を見るなり、睨みつけるほどの強い目で隆志をじっと見つめ始めたので、隆志は気まずくなって真っ直ぐ前を見た。体育館には舞台もあって、閉じられた幕には大きく高校の校章が描かれている。その刺繍は二階の窓から差し込んでくる日光で金色に輝いていて、とても美しく映えていた。
右隣、い列の四行の席に女の子が座った。ふとどんな顔だろうかと気になって見たその顔付きに、隆志は納得へと至った。その涼やかな目元と言い整った口唇と言い、左隣の男とそっくりだ。要するに、二人はいとこ同士などで、兄貴分である左隣の男が右隣の女の子と隣同士になれずに不満を持っていて、その不満を隣に座った隆志にぶつけたのである。そんな事は隆志に何とかできる事ではなかったし、無茶な恨まれ方だと思ったが、それ以上に隆志はこの二人が微笑ましく思えてならなかった。
「では、これより、第三十二回始業式を始めます。新入生一同、起立」
それからしばらくして、教頭先生がそうマイク越しにそう言い、隆志の晴れ舞台は始まった。
入学式が終わり、指示された一年七組の教室で諸連絡を済ませると、早くも四月一日の全行程は終了した。同じ中学校の生徒が通学圏の問題で一人も居ない隆志は、とりあえずと思ってまだ記名していない入部申請書を持って担任の先生に、近藤先生の居場所を尋ねた。
「南館の、一番奥だね。交換ノート部の部室だよ」
と、担任の男の先生は、親切にも校内地図まで手渡して説明してくれた。隆志は感謝を告げて、南館への渡り廊下のある二階まで階段で下った。歩き慣れない廊下を、少しのドキドキと共に進んでいくと、確かに突き当たりがあって、すぐ右に渡り廊下への扉があった。とは言え閉じているのではなく、まるで誘うようにして半開きになっている。隆志はその扉を大きく押し開いて、頑丈そうな渡り廊下をずんずんと進んだ。すぐにまた半開きの扉に出会い、同じように今度は引いて開くと、扉の向こうから勢いよく埃の匂いが隆志を襲ってきた。慌てて鼻を押さえるが、間に合わず咳き込んでしまう。何とかそれを収めてから改めて南館の方を見ると、南館は全体が薄ねずみ色を被るほどに、埃にまみれていた。
中学校の頃から掃除が大好きな隆志は、いつか気の済むまで綺麗にしてやろうと心に誓いながら南館へと入った。どうやら南館はほぼ使われていないらしく、とにかく埃っぽく、足下も軋んで心許ない。廊下の横にある教室達は、いつまでも余り続ける運命としか思えないほどにその窓や扉が大きく歪んでいた。まるで、大地震に遭った後のような惨状である。それらをあちらこちらと見回している内に、隆志は突き当たりの、地図上で『交換ノート部部室』と記されている教室へと到着した。
妙に重たい戸を精一杯に引いて、こんにちはと挨拶しながら中に入る。返ってくる近藤先生の声に安心しながら戸を戻して奥へと進むと、授業教室と同じくらいの大きさの部屋に、近藤先生と生徒が四人集まっていた。上級生かと思って身構えかけた隆志だったが、四人の手にそれぞれ掴まれている小さな紙と、そして見覚えのある二つの顔ですぐに彼らも自分と同じだと理解して、軽く会釈した。
「よしよし、これで全員ね! さすがは私が目を付けただけはあるわ。さて、とりあえず入部申請書を出しなさい」
「待って下さい、俺はまだ入るって決めてません」
無邪気そうで邪気に満ちた近藤先生の言葉に、四人の中の二人の男の内、知らない方の男がきちんと言葉を挟んだ。頼りになる。
「あら、小松君。あなたがどうだろうと、私が決めたのよ」
「ふえぇ、それは滅茶苦茶ですっ」
また、今度は知らない方の女が近藤先生を止めに入った。その調子で、とりあえず生徒の自由意志を尊重するように説得して欲しい、と隆志は思いながら、五人に近い椅子へ腰掛けた。
「困った子達ねぇ……。これだから、最近の高校生は駄目なのよ」
「近藤先生。俺達は、入るぜ」
そう声を上げたのは、例の入学式で出会った男だった。
「あら、本当に?」
「もちろん! 可愛い妹とノートを交換する日を、ずっと楽しみにしてたんだ」
「き、きしょい、きしょいっ。もうちょっと、まともな事言ってよお兄ちゃん!」
妹好きな兄と、兄嫌いを自称する妹。そんなよくある光景に、隆志は少しだけ驚いた。光景は普通でも、同学年の兄妹というのは珍しいというか、普通ではないからだ。だがすぐに、義理の兄妹なのだろうと理解して、落ち着く。まさかそれを確かめるような事は、ほぼ赤の他人の彼らに隆志が出来るはずもなかった。
「二人は義理の兄妹なのかしら?」
がた、と隆志の椅子が動く。この近藤先生には、デリカシーと言うものがないのだろうかと思う。しかし兄の男は、意外にも非常に明るい表情で答えた。
「実兄妹に決まってるさ。俺は、今日の為に一年浪人したんだぜ」
「あら……。そ、それは凄まじい、兄妹愛ね」
近藤先生が、若干引き気味にそう言った。その顔は、最近の若者はよく分からないわ、と言った風である。だが最近の若者である隆志にも、その行動への理解は全く示せそうになかった。
「じゃあ、上手くまとまった所で、各自持っている紙に名前を書いて渡してくれるかしら」
異空間から早く逃れたいと思う中で、隆志は近藤先生の言う通りに手元の紙に名前を書いて彼女に手渡した。そして、手渡してすぐ気付いた。
「こ、近藤先生、やっぱり入らへんから返して下さい!」
「あらあら、持病の難聴が……。大丈夫よ、私が責任を持って届けるわ」
近藤先生がそう答えたのは、隆志と同様に乗り気でなかった二人が紙を手渡した時だった。交換ノート部はそうして、阿鼻叫喚に包まれた。




