0023
上空から街を見下ろしていた時、既に気付いていた。
このノービリアと呼ばれる都市は、あの少女と出会った泉から遠くない。アリアのように何もない場所でさえ躓きがちな弱った足でも、数十分もあれば辿り着ける程度の距離にある。
そうした位置関係を把握した上で、アリアがこの街に居たという事実を再認識すると共に、レヴィの心にはやり場のない怒りと、悲哀が渦巻き始めている。
「……その、少女とは……まだ、会えているのか?」
否定されるのが分かっていて、ヴァレリオへと問う。当然のように、少年は首を横に振っていた。
「その子の魔力…もう、街のどこからも感じないんだ……」
ベラニスへ移動する前、レヴィはアリアへと尋ねていた。
──元住んでいた街へ、帰りたいと望むか?──
だがアリアは、すぐに返事をしなかった。己がどうしたいのか分からないと答えたアリアの真意が、陰ながら支え続けたヴァレリオを残して去る事への、躊躇だったとしたら…──。
「もう、ね…十年に、なるのかな⋯。ちょっと、寂しい⋯けど……」
呟きながら、少年の身体はずるりと崩れ落ちていく。
「…ヴァレリオ?」
治癒魔法を止め、咄嗟に抱き留めて支えるが、少年の表情からは次第に血の気が薄れていく。
「あの子の、魔力…似てたんだぁ……母上や、父上に………」
今わの際に在っても尚、少年は微笑みを浮かべている。ゆるやかに持ち上げられた左手が何かを探すように宙を彷徨い、レヴィはそっとヴァレリオの手を取って優しく握り締めた。
「十…五年、前……攫われた、妹に……すごく、似ていて………」
腕の中で消えようとする命を抱いて、レヴィは俯き唇をきつく噛み締めた。
少年が盲目だと知ったからこそ表情を歪ませ、だが声には一切の後悔も苛立ちも含ませないまま、レヴィはヴァレリオへと問う。
「その少女は…お前に、どう名乗った…?」
握った小さな手が、弱々しくレヴィの指先を掴む。
「……アリア………そう、名乗ったから…僕、も…レオって、偽名で……」
直後、レヴィの腕に抱かれる少年の頬に、ひとつの雫が落ちた。
「安心して、良い…アリアは……アリスティアは、無事だ…」
震えそうになる声をどうにか抑え、絞り出すようにレヴィは告げた。
ヴァレリオは一瞬だけ瞳を見開いたが、すぐにその目は細められ、嬉しそうに閉じられていった。
「そっ、か……やっぱり、あの子は……アリスティア、だったんだ…ね…」
「…ッ!ヴァレリオ!」
今すぐに水の神としての力を使えば、少年の命を救えるかもしれない。浄化を司る竜神であるレヴィは、瞬時に魔力を解き放とうとした。しかしレヴィを止めたのは、他でもないヴァレリオ自身だった。
「きれい、な⋯⋯魔力の⋯おにいさん⋯⋯」
何故、兄妹揃って、同じ事を言うのか。
人から恐れられるはずの竜を、どうして綺麗だと言えるのか。
金の瞳から零れ落ちる雫は、二つ、三つと、無垢な願いを紡ぎ続けるヴァレリオの頬へと落ちていく。
「僕、の…代わりに……アリアを⋯⋯」
蘇生にも等しい、水の力による治癒と浄化。だがレヴィの手を握り、ヴァレリオは呟きながらその力を拒絶した。後悔と動揺に揺れるレヴィでは押し通す事は叶わず、寄り集めていた魔力は霧散し、蒼白い光の粒となって周囲に散っていった。
「父上……母上………妹たち…無事、だって……──」
今一度開かれた蒼い瞳は、虚空を見つめている。
兄としてやり切ったと報告するように呟かれた一言を最後に、ヴァレリオは穏やかに、満足そうに微笑んだまま、静かに呼吸を止めた。
開けられたままの瞼を閉じさせ、レヴィは少年の身体を両腕で丁寧に抱き上げる。ゆっくりと階段を下りていき、壁に飾られたまま微笑む夫人の肖像画を一度だけ振り返ってから、扉を開けて屋敷の外へと出た。
広い前庭を通り過ぎ、高く聳える塀に囲われた花壇の隙間で立ち止まる。
魔力を寄り集め、空中に二つの魔法陣を展開させたレヴィは、そこから眷属の水竜を二体召喚した。
アリアの傍に侍らせた者とは別の個体である二体の小さな竜は、無言のまま細められた金の瞳を目の当たりにし、主の意を汲むべく動き出す。
周囲に轟音も振動も与えず、長い尾を振り回して器用に地面を掘り始める。白銀の鱗は水の膜に覆われ、土で汚れる事は一切無かった。
その間、レヴィは視線だけで魔力を操り、蒼白い輝きを纏う一つの箱を創造していく。
形成されたのは、美しい氷の棺。
「二度と、汚させはしない……」
誓いにも似た一言を囁いてから、レヴィはゆっくりと、ヴァレリオの身体を棺へと横たえていく。
添える花も枯れ果てた侯爵家の庭で、左手を翳し、再び魔力を集めて氷の棺を閉じた。
その間に水竜達による掘削も終わり、二体の竜は慎重に、ゆっくりと棺を持ち上げて運んでいった。
「……いずれ、アリスティアを連れてくる。だから…安心して眠るといい」
掘り起こした地面の奥へ、静かに安置された氷の棺は、やがて土へと埋まり見えなくなっていく。
これまでにも、人間の死は幾度か見送ってきた。だがこれほどまでに心が揺さぶられたのは、数千年を生きてきたレヴィにとって初めての事。
小さな水竜達によって土が被せられ、埋葬された誇り高き侯爵家の跡取り。その死を悼み表情を歪ませながら、レヴィはゆっくりと右手を天へと掲げる。
その動作に合わせて、二体の水竜もまた声無き咆哮を上げ、主であるレヴィへ同調するように魔力を解き放った。
太陽が頂点に達したばかりの、目が覚めるような晴天。
雲もまばらな青空から降り注ぐ暖かな雫は、水の竜神が呼び起こした浄化と鎮魂の雨。
「アリアは、必ず守る……神の名に誓って…」
小さく、だが強く呟いた一言の直後、色彩を失った侯爵家から天空へ向かって、鮮やかな虹の橋が伸びていった。
安堵した魂が、先逝く両親の元へと還るかのように⋯──。




