6話(最終話) 泥だらけの奇跡と、世界で一番温かいお薬
次の日の朝。
窓から差し込む朝日を浴びて目を覚ました私は、いつものように、お店の奥にある薬草の棚へと向かいました。
「おはよう、みんな。今日はどの子のお薬を作ろうかな」
そう語りかけて、私はハッと息を呑みました。
……見えない。
いつもなら、私に向かって「ここだよ!」「元気だよ!」ときらきらと輝いて教えてくれるはずの、薬草たちの『光の粒』が。
大気中をふんわりと漂っているはずの、優しい魔力の光が。
私の視界から、一切合切、きれいさっぱりと消え失せていたのです。
「えっ……? うそ、どうして……?」
私は慌てて目を擦り、何度も瞬きをしました。
でも、世界はただの普通の風景のままでした。
薬草はただの干からびた草にしか見えず、何の囁きも聞こえません。
光のガイドがないと、どの薬草が一番効くのかわかりません。
お鍋を火から下ろす、完璧なタイミングもわかりません。少しでも間違えれば、お薬はただの苦い汁になってしまうかもしれないのです。
「どうしよう……見えない……何も見えない……っ!」
自分は偽物なのだという強い自己嫌悪が、無意識のうちに私の魔法の目を塞いでしまったのでしょう。
頼りにしていたものを失った私は、ただの『何もできない無能な女の子』に戻ってしまいました。
セシリア様の言った通りです。才能がなくなれば、私には何も残らない。
私は膝から崩れ落ち、冷たい床に手をつきました。
もう、誰も助けることができない。クロード様の痛みも、和らげてあげることができない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
その日、私は『ワンコイン薬局』の重たい雨戸を、開けることができませんでした。
* * *
暗いお店の中で、一人膝を抱えて、どれくらいの時間が経ったでしょうか。
「なんだこの霧は! 息が、息ができない……っ!」
「目が痛い! 誰か助けてくれ!」
固く閉ざされた古い雨戸の向こう側から、突然、悲痛な叫び声が聞こえてきました。
私はハッとして立ち上がりました。
急いで雨戸を少しだけ開けて外を覗き込むと、信じられない光景が広がっていました。
いつもはキラキラと輝いている青い海がどす黒く濁り、そこから吐き出されたような不気味な紫色の『毒の霧』が、港町全体を飲み込もうとしていたのです。
瘴気に触れた町の人々が、次々と喉を押さえて倒れ込んでいきます。
その中には、いつも私のことを気にかけて優しい言葉をかけてくれた漁師さんや、パン屋のおじさんの姿もありました。
「いやっ、来ないで! 私の完璧な結界が、どうして溶かされるのよ!」
丘の中腹で、悲鳴を上げていたのはセシリア様でした。
彼女は純金の天秤とクリスタルの器を取り出し、王宮で学んだ最高位の魔法陣を展開して、美しい青色の魔法薬を次々と宙へ放っていました。
しかし、彼女の「星の瞬きを計算し尽くした完璧なお薬」は、純粋な毒の塊である瘴気に触れた瞬間、ジュワッと黒く変色し、何の効果も発揮せずに地面に落ちていくのです。
「理論は完璧なはずよ! どうして効かないの!? これじゃあ、町が全滅してしまうわ!」
美しいドレスを泥だらけにしてパニックに陥るセシリア様。
その時でした。
「――下がっていなさい、セシリア。君の魔法では、この瘴気は相殺しきれない」
涼やかで、よく通る声と共に、一人の影が瘴気の前に立ちはだかりました。
クロード様です。
彼は漆黒のコートを翻し、一歩前に進み出ました。そして、手袋を外した長い指先で虚空をなぞると、町全体をドーム状に覆い尽くすほどの、途方もなく巨大な光の結界を展開したのです。
押し寄せる紫色の霧が、クロード様の魔力とぶつかり合い、バチバチと激しい火花を散らします。
「クロード様! いけません、ご自身の体に封じている魔力をそんなに一気に解放したら、また呪いが暴走してしまいます!」
セシリア様の悲痛な制止も聞かず、クロード様は町の人々を守るために、己の命を削るようにして力を振り絞っていました。
しかし、その代償はすぐに現れました。
「……っぐ……!」
クロード様の大きな体がガクンと揺れ、彼は苦しげに胸を押さえて片膝をつきました。
今の私の目には、彼の中を暴れ回る魔法の光は見えません。でも、彼がどれほどの激痛に耐え、肉体を内側から焼き尽くされようとしているかは、痛いほどにわかりました。
「クロード様……っ!」
私は、夢中でお店を飛び出し、丘を駆け下りていました。
『私じゃダメだ』と思っていました。
光の粒が見えなくなった私には、もうお薬を作る資格なんてないのだと。ただの紛い物なのだと。
でも、苦しんでいるクロード様を。私のお薬を信じてくれている町の人たちを、このまま見殺しにするなんて絶対にできません。
魔法の目なんてなくたって、私には……私の手には、まだ残っているものがある!
「リアナ!? 来るな、ここは危険だ!」
苦痛に顔を歪めるクロード様の横に滑り込み、私は彼の背中を力強く支えました。
彼の体は、まるで燃え盛る暖炉のように恐ろしい熱を発していました。
「クロード様、少しだけ待っていてください! 今すぐ、一番効くお薬を作りますから!」
私は持ってきた銅の小鍋と、使い込まれた乳鉢を地面に置きました。カゴの中から、数種類の薬草の根と、木の実を取り出します。
『光の粒』は見えません。でも、目を閉じればわかるのです。
実家の冷たい床の上で、毎日毎日、血が滲むまで硬い麦をすり潰していた感触。
前世の薄暗い部屋で、何千回、何万回と薬草を刻み続けた指先の記憶。
私は乳棒を握りしめました。
ゴリゴリ、トントン。
指先から伝わってくる、薬草の繊維が優しくほどけていく微かな振動。これ以上すり潰すと細胞が壊れて苦味が出てしまう、という絶妙な反発力。
私自身の手が、感覚が、一番お薬が美味しくなる瞬間をはっきりと覚えていました。
「セシリア様、お水を少し分けてください!」
「えっ? あ、はい……!」
セシリア様が呆然としながら注いでくれたお水を小鍋に入れ、すり潰した薬草を溶かします。でも、お店の外であるここには、ストーブの火がありません。
「どうしよう、火がないとお薬の成分が溶け出さない……!」
私が焦った、その時。
「……リアナ。これを使え」
激痛に喘いでいたはずのクロード様が、震える手をゆっくりと伸ばし、その指先に小さな、けれど確かな『炎』を灯してくれました。
それは暴走する荒々しい魔力ではなく、彼が理性のすべてを振り絞って抑え込んだ、優しく温かい火でした。
「クロード様……! でも、無理に魔力を使ったらお体が……!」
「君の腕を……信じている。私の命を、君に預けよう」
その真っ直ぐな深い緑色の瞳に、私は力強く頷きました。
私は、クロード様の手のひらから灯る炎に、銅の小鍋をそっとかざしました。
彼の手の温もりと、私の木べらを回す手が重なり合います。
ぐつぐつ、コトコト。
お鍋の中から立ち昇る、甘くてほんの少しだけ苦い匂い。
耳を澄ませば、ふっくらとした泡が弾ける「ぽこん、ぽこん」という優しい音が聞こえてきます。
光のガイドなんていりません。五感のすべてが、「今だよ!」と私に教えてくれていました。
「できました! 特製の、万能ポーションです!」
私は小鍋を火から下ろし、冷まさないように、でも火傷しないように、そっと彼の口元へと運びました。
クロード様は、荒い息を吐きながらも、私を信じ切った瞳でそれをごくりと飲み込みました。
一口飲んだ瞬間。
クロード様の体を縛り付けていた激痛と高熱が、嘘のようにスッと引いていきました。それどころか、私が煮込んだ薬草の優しい成分が彼の途方もない魔力と完全に調和し、彼の中に新しく、清らかな力の奔流を生み出したのです。
「……ああ。君の薬は、いつだって私の魂を救ってくれる」
クロード様はゆっくりと立ち上がると、片手を空高く掲げました。
私のお薬によって完全に制御を取り戻した彼の巨大な魔力が、今度は眩いほどの光の風となって港町全体を一気に吹き抜けました。
その優しくも圧倒的な力の前に、町を覆っていた毒の霧は、まるで朝日に溶ける霜のように跡形もなく消え去ってしまったのです。
「やった……消えた……!」
「助かったぞ! 魔女様と公爵様が救ってくださったんだ!」
町の人々の歓声が上がる中、私は安堵でへたり込みそうになりました。
魔法の目がなくても、私はお薬を作ることができた。私自身の、泥臭いこの手で。
「……リアナ」
クロード様が、バランスを崩した私の背中を、ふわりと優しく支えてくれました。
見上げると、そこにはいつもの威圧的な公爵様ではなく、少しだけ疲れたような、でもひどく晴れやかで優しい笑顔がありました。
「無茶をする。……だが、ありがとう。また君に救われてしまったな」
「クロード様……よかったです、痛みが引いて……」
クロード様は少しだけ困ったように笑うと、私の頬についた煤すすを、手袋を外した長い指先でそっと拭ってくれました。
「魔法の才能なんて、なくてもいい。君が泥だらけになって、一生懸命にすり潰してくれたこの手の温もりが……私にとっての、何よりの奇跡だよ」
クロード様は、薬草の汁で汚れ、マメだらけになった私の両手を取り、労うようにポンポンと優しく叩いてくれました。
大げさな愛の言葉も、重たい誓いもありません。ただ、私の頑張りを一番近くで見て、心から認めてくれている。春の陽だまりのような、どこまでも爽やかな優しさがそこにありました。
「……完敗ね」
ふと声がして振り返ると、泥だらけのドレスを着たセシリア様が、力なく笑って立っていました。
「難解な理論も魔法陣もない、ただお鍋で煮込んだだけの薬が、あんな奇跡を起こすなんて。……私の負けよ。あなたは、正真正銘の薬師だわ」
私はのほほんと微笑むと、残っていたお薬に少しだけ蜂蜜を混ぜて、小皿に入れて彼女に差し出しました。
「セシリア様。魔力を使って、お疲れでしょう? 特製の、疲れが吹き飛ぶ甘いシロップです。……お代は、銅貨一枚になりますけど」
「……ふん。こんな泥臭いお薬、王宮の薬師が飲むわけ……」
ツンとそっぽを向きながらも、セシリア様は小さなスプーンでお薬を一口飲みました。
「……っ!」
その瞬間、彼女のアイスブルーの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちました。
「……くやしいけれど、王宮のどんな高価な薬よりも、心がホッとするわ。……美味しい」
「ふふっ、ありがとうございます。またいつでも、お店に来てくださいね」
こうして、私のワンコイン薬局に、少しだけ素直じゃない新しい常連客が増えたのでした。
* * *
それから数日後。
港町の丘の上には、再び『ワンコイン薬局』の看板が元気に掲げられました。
朝の光を浴びながら、私はピカピカに磨き上げた松の木のイスを拭き上げます。
私の目には、もう『光の粒』は見えません。でも、もう怖くはありませんでした。私には、私の五感と、この温かい手仕事の記憶があるからです。
「おはよう、リアナ。今日も海風が気持ちいいな」
「おはようございます、クロード様!」
カランコロンとドアベルが鳴り、今日も変わらずに、穏やかな笑顔の公爵様がお店にやってきました。
彼は定位置のイスに座ると、少しだけ改まった様子で私を見つめました。
「セシリアは、王都へ帰っていったよ。君から学んだ『素材の声を聞くこと』を一から勉強し直すそうだ。……それと、王宮からの帰還命令だが、私は正式に断りを入れた」
「えっ!? 王宮に戻らなくていいんですか?」
「ああ。私の居場所は、もうあんな冷たい城にはないからね」
クロード様はゆっくりと立ち上がると、カウンター越しに私の手を取りました。
「……私はもう、君なしでは生きられないようだ。君がこの港町で守り続けてきた、その温かな居場所。私もその一部として、一生をかけて守らせてほしい」
彼は懐から、小さなベルベットの箱を取り出しました。
中に入っていたのは、大きな宝石ではなく、銀色の質素な指輪でした。しかし、その内側には、丁寧に手彫りで風車小屋と薬草の刻印が施されています。
「これは、私の故郷に伝わるものだよ。高価な宝石よりも、日々の暮らしに寄り添うお守りだ」
クロード様は、私の左手の薬指に、そっと指輪を通しました。
それは、どんな王冠よりも重く、誰よりも温かい、一生の約束でした。
私は、溢れそうになる涙をぐっと堪え、彼の深い緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返しました。
「はいっ……! 一生、おそばにいさせてください!」
そしてクロード様は、イタズラっぽく微笑むと、チャリン、とカウンターの上に何かを置きました。
ピカピカに磨き上げられた、銅貨がたったの一枚。
「さて。それでは今日のお薬をもらおうか、私の愛しい薬師どの」
「ふふっ。喜んで、処方いたします!」
どんなに貧しい人でも、痛みを我慢せずにホッとできる場所。
特別な魔法なんてなくても、誰かを思いやる優しい手仕事があれば、奇跡はいつでも起こせるのです。
「さあ、今日もお薬を作りましょうか」
私は今日も、大好きな特等席に座る公爵様に見守られながら、銅貨一枚の優しいお薬を作るために、コトコトとお鍋をかき混ぜるのでした。




