2
この話には残酷描写があります
壇上で跪く娘の姿を見下ろした。久方ぶりに見た娘の姿は別人ではないかと思うほど、私の記憶の中の姿とは乖離していた。妻譲りの美しく艶やかで豊かだった髪は埃や油でまみれ、薄汚れた毛糸のような汚らしさだった。白く透き通るようだった肌は爛れ、汚れを拭うことも知らないようだった。目は落ち窪み虚ろな光を宿しているし、衣服から覗く手足は酷くやせ細っていた。
娘は首に縄を掛けられ、手は後ろ手に縛られ、膝は折り曲げたまま縛られ、壇上の真ん中で地に伏せられている。私は剣の柄に手をかけていつでも抜刀できる体制のまま、その横に控えていた。
これが本当に嘗ての侯爵令嬢の姿なのかと疑う目や好奇の視線が壇上に注がれるのを私は肌で感じていた。痛まし気に見ているのはほんの数人で、多くの者がこれから行われる断罪に期待の目を向けている。反吐が出そうだ。私は剣の柄を一層強く握りしめた。
この国では裁判の後、反逆罪と判決されたものは貴族平民問わずここサンジェルマン広場にて断罪されるのが通例となっている。娘に加担していた数名の貴族たちも、漏れなく先日このサンジェルマン広場で首を落とされていた。そして本日が我が娘の断罪の日である。年端もいかない貴族令嬢の、更に諸々の主犯格である人物の断罪であるということが多くの人々の興味を駆り立てているのだろう。先日に行われた裁判よりもさらに多くの人々が貴賤を問わず見物に訪れていた。
舞台の端では貴族裁判も執り行っていた判事が娘の罪状を声高に読み上げていた。娘の罪が詳らかになるたびに周囲からは驚愕と憎悪に満ちた怒声が上がる。しかしその喧噪を私の耳が拾うことはなかった。唯一感じ取れるのは私と娘のわずかばかりの呼吸音のみで、その他はただただ静寂であった。
「以上がこの者の罪状の全てである! 王立司法貴族裁判院、最高判事であるダニロ・ジェスティー・グルマンの名において、この者の罪を第一級反逆罪と認め、本日これより刑を執行する! 王国騎士は前へ!」
判事の合図と共に後ろに控えていた騎士たちがずらりと娘の周りを取り囲んだ。罪人の退路を確実に封じるためである。
「慈悲として、己の罪を懺悔する機会を与える! 何か言い残すことはあるか」
騎士の一人が娘の首にかけた縄を引き、無理矢理顔を上げさせた。娘は一瞬顔を引きつらせたが、首の縄が緩むと艶然と笑み、辺りを睥睨した。
「私の罪とおっしゃいましたが、それは誤りです。私の行いは、貴族家の一人として破滅へと向かうこの国を慮ってのこと。罪と言うなら今まさに破滅へと舵を切ろうとするこの国にこそありましょう!」
「黙れ!! この期に及んでさらに罪を重ねる気か!」
何人かの騎士が抜刀し、発言を辞めさそうと首に回した縄を引く。しかし娘は怯まなかった。あのやせ細った体の何処にそのような力が残っているのか、声を張り上げ娘は尚も続ける。
「お前も、お前も、お前も! この国の貴族に籍を置いているものは誰もが思ったはずだ! この国が今後辿らんとする道が自分たちにとっていかに都合が悪いものであるか! 賤しい出自の女を王妃の座につけ、次に目指すのは何だ! お前たちが今胡坐をかいて座っている場所だ! 平等の名の下に貴族の特権が取り払われ、お前たちの立場は簡単に賤しい者共に脅かされ、その地位を取って変わられるだろう! それを憂うものは皆私に賛同した! お前たちはどうだ! この国を混乱に追い込み破滅へと導く、真に罪深きは何だ!!」
その言葉に怒りを募らせつつも、壇上にいるものは皆押し黙った。しかし、黙っていないのは民衆だった。次々に罪人に向かって罵声を浴びせ、壇上に石を投げつけるものもいた。
この国は決して豊かではない。オースレシアとの長きに渡る内乱の末勝ち取った独立だ。疲弊した土地や産業は復興したとはいえ、国際的に見た我が国の立場はまだそれほど盤石というわけではなかった。表向きは諸外国との和平を保ってはいるが、嘗てオースレシアであった土地の大半を統治しているリーズィライヒ帝国との関係は未だに予断を許さない現状である。元々豊穣な土地が多いわけではないし、かと言って軍備を削るわけにもいかず、一部の特権階級を除く民の暮らしは決して楽なものではない。オースレシア時代から続く、搾取する側である貴族と搾取される側である民衆の図式。その旧体制を打破しようと、現国王であるエリアス一世は戴冠してからこれまで、力を持ちすぎた貴族家の権力を分散させることに尽力を注いできた。しかし、力を持ちすぎた貴族は王の威厳を以てしても一筋縄ではいかず、今回娘が扇動した貴族たちもそういった力のある貴族家が大半であった。
そうして王家や貴族に対し民衆の間で膨れ上がっていた不満や不信感が今、まるでこれが諸悪の根源であるかというように我が娘の姿をして眼前に現れたのである。
「殺せ! さっさとそいつを殺せ!!」
誰も彼も口々に罵り、憎悪に満ちた眼差しで娘を見た。民衆は怒りで興奮し、今にも暴動が起きようとしている。しかしそれを沈めたのもまた、娘の言葉だった。
「私はまもなく、首を切られて死ぬだろう! だがその前にお前たちに呪いの種を撒いた! 今お前たちが私に向けている憎悪の感情がそれだ。貴族や王を恨んだとて、お前たちの暮らしは何も変わらない。嘆け!! 怒れ!! 叫べ!! 憎め!! お前たちの中にある憎悪の種が芽吹くとき、私は再び蘇りこの国を更なる混乱に陥れるだろう。真の平等などありはしない! お前たちは救われない! この国は変わらない! もっと憎悪を膨らませ、この国に! 自分自身に牙を突き立てろ! 己の中にこの私を生み出すのだ!!」
鬼気迫る娘の姿に圧倒され、広場はしんと静まり返った。
「罪人の処刑を」
判事の合図と共に私は剣を抜く。そして娘の前に立つと剣先を天に掲げ宣言を行った。
「裁きの女神、アガイシスの名の下にお前の処刑を行う。わが剣は神の御手なり。その身から放たれたお前の魂はかの女神の御許に詣りて、その罪の数だけ裁きが下されるだろう。その罪の全てが贖われるその時まで、神の御心に従い悔い改めよ」
この役目だけは私でなくてはならない。
私の剣は人殺しの剣だ。幾時も修練を重ね、命を奪うことを念頭に剣技を磨いてきた。心の通った交流など何もしてやれなかった我が娘に、父として、剣の師として最後にできる唯一のことだ。せめて事切れる瞬間の痛みは一瞬となるように。
視線を合わせた娘がふと笑った気がした。穏やかで、どこか安堵したような笑みだ。瞬間、私の頭に過ったのは、いつか私に剣を強請った時の、思慕と羨望の入り混じったような酷く懐かしい幼い娘の顔だった。
軌道に乗せて、勢いよく剣先を振り切った。娘の首が空を舞い、どっと歓声が沸き起こる。
畜生。
畜生。
畜生。
歓喜に喚く民衆共を一人残らず切り捨ててやりたかった。娘の亡骸を片付ける部下を殺してでも、奪い返してやりたかった。モラトリアスの誇りなどかなぐり捨てて、王族にすら剣を向けてやりたかった。何より、大声で泣き喚き、己の罪の全てを白日の下に晒してしまいたかった。
しかしそのどれもが、私には許されていない。
私はきつく歯を食いしばり、抜き身のままだった剣を鞘に納めた。残された血溜まりを覆い隠すように、白い雪が次々に落ちては溶けていく。判事が処刑完了の宣言をしていたが、私の耳はもう何も拾わなかった。