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悪女の消えた世界  作者: 三食うどん
アンネ・ローゼの手記
2/22


 あの日の出来事を、私は今も昨日のことのように思い出します。

 もちろん私はあの日、サンジェルマン広場には行っておりません。ええ、どうして行けるというのでしょう。彼女と私の道は完全に違えてしまったとはいえ、かつての親友の死の瞬間などどうして見たいと思うのでしょう。

 かつて私たちは家族よりも、よっぽど深い場所でつながっておりました。彼女と共にあった数年間は、間違いなく私の生涯で最も輝かしい宝石のような時間でした。その宝石を、私は長い間宝箱の奥底に大切にしまい込み、鍵をかけて誰にも触れられないようにしてきたのです。家族からも、友人からも、知人からも、そしてなにより私自身からでさえ、隠し続けてきたのです。

 私は今ここで、ただ一人失われた過去を思い、祈りながら生きております。

 そうしているうちに、これまで誰からも隠し続けてきた宝箱の蓋がゆっくりと開くのを感じたのです。

 その名を聞けば、誰もが眉をひそめる人。今や誰も彼もがののしり憎悪を向けるであろう彼女。

 私の唯一の親友、魂の友であったベアトリーチェのことを、ここに記します。私が知る限りの、ベアの姿を。愛を込めて。


 彼女と初めて出会ったのは私たちが12の頃、当時王国で唯一女性が通うことを許されていた学び舎、デルボネア王立女学院に入学した年でした。


 私はそれまで特筆すべきことのない人生を歩んできました。裕福でも貧困でもない地方の子爵家に生まれ、何の不自由なく育ちました。容姿も、頭の出来も、優れているとは言い難く、すぐ下に優秀な弟もおりましたから家督を気にすることもありません。私の容姿や性格上、待っていても良縁は望めないと判断されたからか、将来は親戚筋の子爵家のもとへ嫁ぐことが早くから決まっておりましたので、成人を迎えて嫁ぐまでに貴族令嬢としての最低限の知識、教養を身につけること、私に課せられていたのはただそれだけでした。私は、誰からも何も期待されないことを甘受し、ただ流されるままに生きていたのです。

 しかしそんな私にもただ一つ、本を読む楽しみがありました。お父様は女性が男性のような教養を身につけることにいい顔をなさらなかったので、私が読むことを許されていたのは詩集や小説だけでしたがそれでも構いませんでした。流されるままに生きていた私でも、本を読んでいる時だけは何にでもなれて何でもできるのです。

 私がデルボネア王立女学院に通うことを希望したのも本が理由です。私があまりにも本に没頭してしまうため、嫁いだ後は本を読むことを控えるようにと言われておりましたので、学院生活は私が好きな本を好きに読める最後の機会だったのです。

 私の人生において、後にも先にもあれほどまでに必死になって何かを懇願(こんがん)したことはないでしょう。

 その頃の王国は今よりももっと女性が学を身につけることを忌避きひしておりました。しかしデルボネア王立女学院は貴族の子女の花嫁修業の場でもあったため当時も多くの貴族令嬢が在籍しており、それもあってか最初こそ反対していたお父様も、渋々ながら通うことを認めてくださいました。

 そうして私はよわい12になった後、晴れてデルボネア王立女学院に通うこととなったのです。


 学院に通ったからといって、すぐに彼女と親密になったわけではありません。私はしがない地方の子爵家の娘に過ぎませんでしたし、彼女は王国を代表する貴族家の一人で、当時から後に国王陛下となられるエリオス殿下の婚約者であることは周知されておりました。

 学院と言ってもそこは将来を見据えた貴族子女たちの社交の場。貴族社会の縮図です。彼女は未来の王妃となるお方、そんなお方と一介の子爵令嬢との間に接点などあるはずもありません。言葉を交わすことも、視線を合わせることも許されないのです。遠目から見かける彼女はいつも名家のご令嬢方に囲まれ、私とは住む世界が違う方なのだとその頃の私は考えておりました。ましてや私たちの運命が交わり、お互いに親友と呼び合う日が来るなどと、どうして想像できましょうか。


 私たちが初めて出会いを果たした日、私はいつものように学院の図書室に入り浸っておりました。その翌日は授業の休息日であったため、寮に戻ってからも沢山の本を読もうと欲を出し、いつも以上の量の貸し出し手続きを済ませ図書室を出ました。

 こんな時、マーサがいればあんな失敗をすることなどなかったでしょう。きっとこれ以上は持ち運べないと私をいさめ本の量を減らしてくれたはずです。しかし残念ながら、デルボネア王立女学院は外部からの使用人の出入りを学院寮以外では認めておりませんでした。

 私は高く積みあがるほどの本を自分の手で寮まで持ち帰らなくてはなりませんでした。

 過ぎた欲に身を任せた結果、私はとあるご令嬢と出合い頭にぶつかり、あろうことか持っていた大量の本をその方の足元に落とすという失態を犯してしまったのです。当然そのご令嬢は酷くお怒りになり、私よりも身分の高い方だったため私は床に伏せ平身低頭に謝るほかありませんでした。この時ばかりは自身の愚かさを呪いました。

 ご令嬢はなかなかお怒りの冷めない様子で益々きつく私をなじりました。もちろん全面的にこちらに非があるのですから許していただけるまでは誠心誠意謝らねばなりません。恥ずかしながら涙もはらはらと流れておりました。

 その時、一瞬でこの場を支配するような凛とした声が響きました。


「あなたたち、ここで何をしているの」


 ご令嬢が状況を説明するのが聞こえます。ご令嬢の話しぶりからして、先ほどの声の主は彼女よりも身分の高い方であるとわかりました。私はさらに頭を下げ、ご令嬢の断罪をただ待つことしかできません。


「そう、それは気の毒なことだったわね。怪我をしているかもしれないからすぐに医務室へ行ったほうがいいわ。この方には私が直接注意しておきましょう」


 ご令嬢は恐縮されていましたが、声の主はすぐに近くの方たちに寮への連絡と医務室までそのご令嬢に付き添うよう指示され、やがて数人の足音が去っていきました。


「頭を上げなさい」

「…はい」


 消え入りそうな声で指示に答え、私はそうっと頭を上げました。視線の先には見るからに上質な生地の、品のいい仕立ての深緑のドレスの裾が見えます。


「申し訳、ありませんでした」


 私はただただ自分が恥ずかしかったのです。はらはらと涙を流しながら、できることならばこのまま地面に頭を埋めてしまいたいくらいでした。


「手を出して」


 目の前にたおやかな手が差し伸べられます。恐る恐る手を伸ばすと思いのほか強く握られ、そのまま引き上げられてしまいました。私が目を丸くしていると、彼女はうっそりと微笑みました。

 驚いたことに、その声の主は未来の王妃となるお方、ベアトリーチェ・デルリア・ラス・モラトリアスだったのです。


「あなたはもう十分に謝ったのでしょう。あなたが反省していることは遠くから見た私にも伝わったわ。彼女も今は怒りに感情を高ぶらせているけれど、落ち着けば今回のことなどどうでもよくなるはずよ。さあ、涙を拭いて早くお帰りなさい。もたもたしていると学寮棟の門が閉まってよ」

「寛大なご配慮に感謝いたします」


 私は貴族令嬢としての礼を取り、名を名乗りました。


「それにしても随分と勉強熱心なのね」


 散らばった本を見やり、彼女が呟きました。私は恥ずかしさのあまり頬に朱を注ぎ答えます。


「いえ、勉強というほどでは。単なる些末な趣味のものでございます」

「そう? ああこれ、懐かしいわね」


 そう言って彼女は放浪の詩人ペスカ・サヴィーチェの『流浪の風』を手に取ると、その一節をそらんじました。


「モラトリアス侯爵令嬢もぺスカをお読みに?」

「ええ、『放浪の風』は詩というよりも冒険譚ですわね。古典に囚われないどこまでも自由な作風が彼の性質を表しています。幼い頃は彼の感じた風を私も感じてみたくて諸国漫遊の旅路に憧れていましたわ」

「わ、私もです! 私の屋敷にはペスカが国を出る以前の初期の詩集しかなかったのですが、この学院に来て『放浪の風』と出会って衝撃を受けました。彼の抑圧された才能が一気に花開いたかのような、どこまでも自由な言葉の連なりに強く引き込まれたのです。まるでペスカが遠い地で感じた風が私にも吹き込んだかのように思えて。学院の図書室には『放浪の風』や『愛の風』シリーズも全巻そろっていて、それらを全て読破するのが今からもう楽しみで…」


 一息で話し終わり私は顔を青くしました。本のこととなると興奮して周りが見えなくなる、その悪い癖を家族からいつも注意されていたのです。


「も、申し訳ありません。モラトリアス侯爵令嬢にご無礼を」


 しゅんとして縮こまる私にクスクスと軽やかな笑い声が掛かります。


「いいえ。よほど本がお好きなのね。まさか私も同じ女性とペスカの話ができるとは思わなかったわ。彼の詩はほら、あまり女性ウケするようなものではないでしょう? もしよければまた私と本の話をしていただけるかしら? あなたが薦める本はどれも面白そうだわ」

「…はい。私でよければ、喜んで」


 その後、恐れ多くも私は自分の本を侯爵令嬢に半分持たせて寮へ帰るという愚行を体験いたしました。彼女の言い分を借りれば、また私が同じようなもめ事を起こさないとも限らないので他の学生の身と学院の風紀を守るための効率的な行動であるということです。私は申し訳なさに恥じ入りたい気持ちでいっぱいでしたが、道中の彼女との会話は思いの外楽しいものでした。学寮棟の門をくぐる頃にはもうすっかり、私は彼女のファンになっていたのです。

 彼女と交わした言葉の一つ一つが私の宝物です。今も鮮明に思い出せるほどに。


 幾度目かの遭逢そうほうを経て、私たちは随分と気安い間柄になりました。もちろん身分差がありますから人の目のある場所では適切な距離を保ちます。私たちは次第に人目を避けて会するようになりました。

 今もそのままあるかどうかはわかりませんが、私たちはいつも第三庭園の噴水そばの白いベンチ、薔薇の飾られたパーゴラの下で秘密の会合を行っていました。

 そこでは本当に様々な話をしました。自分自身の話、家族の話、将来の話、時には婚約者の話。ほかの人にはとても話せないような深い話を、私たちはお互いに共有しました。

 その頃の私がよく夢想していたことがあります。ベルヒテス子爵夫人となった私が妃殿下となった彼女の傍で侍女として仕えている姿を。例えそれが無理だとしても、私は何があっても、いつまでも彼女の味方でいようと心の中で誓ったのです。

 これは罪の告白です。自らの誓いを破ってしまった私の、最後まで彼女を理解し信じることができなかった私の懺悔の告白なのです。

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